艶書

 は暑い中を歩いていた。甚平なら良かったのだが、生憎とそれなりに薄着の外出用の格好をしていた。デニムのハーフパンツにノースリーブの薄いシャツに、ヒールの低いミュールを引っかけて。
 悪態をつきながら向かうのは由太郎の家だ。
 先ほど由太郎からの携帯電話に電話がかかり、直ぐに由太郎の家に来るよう呼び出しがかかった。由太郎本人から。
 要領を得なかったは何故行かねばならないのか尋ねたが、兎に角少し洒落込んで来て欲しいという由太郎の叫びに渋々言われた通り家を出た。
 少しなんだか洒落込むんだがどっちかにしろよ、とは変なところで悪態をつきながら、村中家のインターホンを押した。
 家の中からどたどたと出てきたのは由太郎だった。玄関からドアを開けた状態でを手招いている。は息を一つ吐いて敷地内に足を踏み入れた。
「……で、今日は何の用?」
「ちょっと待ってな……にいちゃん来たぞー」
「……魁さん?」
 何故そこで魁の名前が出るのか、は更に頭を捻った。廊下を曲がった先で、障子を開けて出てくるのは魁。
「これで条件は揃ったろー。にいちゃん、行ってこいよう」
「む……」
 突如由太郎に渋面を見せた魁は、を見るとご足労かけ申し訳ないと一つ声を掛けた。は、わけが分からないまま眉を寄せて。
「それはもう良いですけど、何で呼び出されたのか謎なんですが」
「それは……」
「にいちゃんがさ、買い物行きたいらしいんだけどなんかよく分からないらしくてが来てくれるんなら行こうかって言うからさ」
「は……?ちょ、由太郎、確かにそれは日本語だけど何かが確実に欠けてて更によく分からない」
 の眉間に溝が出来る。魁は一つ息を吐いて説明し直した。
「実はお袋殿から衣服の一つや二つ買ってはどうかと言われてな……その為の金銭も渡されたのだが……どうにも拙者だけでは決めかねそうだったのでな。殿ならば率直な意見も伺えようと思い由太郎に持ちかけたのだが……行動に移すのがこんなにも早いとは夢にも思わず」
「はあ……いやでも最近の服は相当変なものを選ばない限り失敗はしませんけど」
 の言葉に魁は苦笑して、何か言おうとしたところを、由太郎が先に遮った。
「良いじゃん、でーとだと思えばさ!にいちゃん、かあちゃんにいっぱい金貰ってんだし何か食わせて貰えば」
「え、何か食わせてって……由太郎は?その金、本当は由太郎の分なんじゃないの?」
「違うよ?だってかあちゃん……」
「これ由太郎、口が過ぎるぞ」
「……?」
 訝るように眉をひそめて、は魁を見上げた。
「……如何か、殿」
「如何か、って言われても……別にどうせ暇人ですよ私は」
 どうせ断っても由太郎が本読むくらいしかしてないんだろと言うに決まっている。それにどうせもう家を出たのだからと、は魁の申し出を受け入れることにした。
 玄関先でお土産よろしくな、と笑う由太郎に、は魁さんに言えよと一喝し、村中家を出た。
「何処まで行くつもりですか?」
「拙者は特には決めていないが……」
「……じゃぁちょっと遠出しましょうか」
 お金は全部魁さん持ちなんだし、とは言って二人は駅まで足を伸ばした。向かうのは図書館がある、が良く行く場所だった。その近くに商店街があり、そこは若者で賑わっているのだ。安くで良いものを売っている大手の店舗も幾つか連なっている。
「魁さんタッパあるし、性格的に腰パンとか絶対しないだろうし……。やっぱベーシックにパンツとシャツ系かな……」
「ふむ……。動きやすい服装の方がよいのだが……」
「じゃあウニクロ行きます?あっちのビルの中に店舗あったと思いますし」
 の促しでそのビルの中に入る。ひやりと冷房の効いた店内で、は一度身震いをして。
「……?」
 ふわりと、肩に何かを掛けられて、は魁を見た。
「幾分か寒すぎるな」
 当の魁は溜息をついて、して店舗は何階なのかとに問いかけてくる。は魁さんの肩が冷えるでしょうと言ったが、魁は夏風邪は厄介だから侮ってはいけないと、わざと回答をずらして聞かないフリをした。
 舌打ちをしては目線をずらし、自分の肩に掛けられた大きな長袖のカッターに腕を通した。口では三階です、と告げて。心では畜生と呟いて。

 その後ひとしきり店を周り幾つか服を買った二人はそのビルを出ることにした。は黙って上着を脱いで腰に巻き付ける。
「……あ、魁さんちょっと」
 通りを歩いていたものの、はふと目についたアクセサリーショップに目を留めた。
 はその中から高すぎないものを二つほど選んで魁に見せる。革の紐に大きなストーンがついているネックレスと、もう一つはチョーカーだった。
 洒落込むならこの辺なんてどうですか、とは言って、魁はチョーカーを見ながら小饂飩のようだと思い、ネックレスだけを手に取った。
「あ」
「?」
 魁がネックレスを見ていると、は更に何か発見したのか、店の奥へ足を向けた。魁がチョーカーだけを戻してそれに続くと、は黒いカチューシャを持ってにやりと魁を見た。
「絶対魁さんに似合いますよ、これ」
 魁は逆に身を引いて、そう言うものは女子がつけるものではと言う。は今は男でもつけますよ、と言ってはめてみるように言う。
 観念したのは結局魁で。そう言えばドラマか何かで男優がつけていたのを思い出し、つけることになった。結果だけを言って、確かに似合っていた。深い赤の髪に黒が入って、引き締まったように見える。人によっては軽くも見えるだろうが、精悍な顔立ちの所為か、魁がはめるとそうは見えなかった。
 は満足そうに笑って、この二つ下さいと店員を呼んだ。カチューシャは直ぐに着けるから値札は取るように言って。
 風が吹いて鬱陶しいだろうから、カチューシャをすれば邪魔にはならないと言うの言葉に引きずられるようにして、魁はカチューシャをはめたまま店を出た。
「奇妙な気持ちだな……」
「慣れてないからですって、慣れたら全く気になりませんよ。……所で、一応一頻り用は済みましたけど、これからどうするんですか?」
 まだ日は高い。魁は少し考えるようにしてから腕にはめた時計を見た。時刻はまだ、三時を少し回ったところだ。二人で家を出たのが昼過ぎだったはず、と魁は記憶を探る。
「……甘味処にでも参ろう。立ちっぱなしで何かと疲れたのではないか?」
「はあ……。まあ疲れましたけど、良いですよ。交通費魁さん持ちだし」
「遠慮せずとも今日の殿の時間を拙者のために割いてくれたのだ。そのくらいはさせて貰おう」
「え、ちょ、魁さん?」
 魁は自然な動作での肩胛骨の辺りに掌を当て、無理強いはしないほどの強さで押した。
 はそれに戸惑いながら、最終的に魁の提案を呑んだ。断ったのは社交儀礼だったわけではないだろうが、かといって何か休めるところが見当たらなかった所為だろう。自然と顔は綻んでいた。
 適当に入った喫茶店でオーダーし、はひとまず足を休められたことに安堵した。下手にミュールなど履いてくるものではないな、と思うが、元を正せば由太郎の説明不足が悪かった。自身の過失によるものではない。
「やはり相当疲れていたのだろう?」
「あぁ……まあ、それなりには。足が少し痛いだけですけど」
 オーダーがくるまでの間、何でもないことのように話をしながら、は正直家に帰りたくなった。自然と視界に入ってくる他の客――特に若い女性客――が、魁の方を頻りに見ていたからだ。魁からは背後になるため、彼には見えていないだろう。
 理由は言わずもがな。魁のルックスとスタイルのあるのだろう。完全にお払い箱だとは思う。相手が由太郎ならこんなことはなかったはずだ。
 惨めに心の下の方へ滲んでいく気持ちを何とか奮い立たせて、は頼んだ紅茶とケーキを胃の中に詰め込んだ。味は美味しかったが、雑念の所為か、食べることだけに集中出来ず、特別に美味しかったと言うことはなかった。
「ご馳走様でした」
 が丁寧に頭を下げると、それは良かったと魁が笑う。残った紅茶に口を寄せながら、魁は少々失礼仕る、と席を立った。恐らく用を足しに行ったのだろう。は黙って紅茶を飲み干した。
 通りに面した窓からは、並んでいる店の看板がよく見えた。は少し身体を傾けながら奥の方の店までをざっと見てみる。本屋がある、と気付いて思わず気持ちが和らいだ。現実にありふれているものから一気に何処かへ入り込み、ともすれば埋没したまま帰れなくなるのではと、そんな錯覚さえも覚える空間。それは古本屋だった。
 そう言えば魁さんはどんな古書を読むのだろう、とは思う。それから、最近何かにつけ魁に結びつけてしまう自分がいることを思い出し、溜め息を一つ。折角浮上した気持ちもまた逆戻りである。
 恋愛、と言うのはにとって気が重い物の一つだ。マイペースで行きたいにとって、誰か一人の人間のために感情も行動も振り回されるのは気分が良いことではない。愛せばそれも気にならないのだろうが、人を心から愛せるほど、は人生経験が豊富なわけではない。強いて言うなら、が愛せるだろうと思うのは由太郎くらいだろう。極端に素直な由太郎は、にとっては眩しく羨ましいものだ。由太郎の言動、行動に関して、は素直に受け入れる事が出来る。由太郎もの捻くれ加減は分かっているし、それを拒絶しない。関係としては非常に良い状態だ。
 由太郎を好きになっていたのなら、何か違っていただろうことは歴然である。
 恋は、駄目だ。
 は苦い気持ちを吐き出すように少し俯いて、細い息を吐いた。噛みしめるようなそれにあわせて、顔が少し険しくなった。
「――殿?気分でも優れないのか?」
「っ」
 掛けられた声に、はああ吃驚した、と内心では相当驚く心臓を隠して、まるで驚いていないように言葉を出した。
 長かったですね、と言うの言葉に、魁は少し目線を泳がせて、待たせたようで済まなかったと最終的に苦笑した。
 聞きたいことはその言葉じゃないのに、とは何処か陰惨にすらなってきた気分に目眩を覚えた。知っている。女性客に声を掛けられていた。どういう言葉を交わしたのかは知るはずもないが、大体その中身は想像に難くない。
「……行きましょうか。ご馳走様です」
 は急速に沈み始めた気分を振り払うように、笑顔を作った。
 店を出て、はさっき見つけた古本屋へ行きたいのだがと魁に尋ねた。魁は快く頷いて、二人並んで店に入る。ふと、由太郎相手ではこんな所には来られなかっただろうなと二人は思う。そして僅かに苦笑した。
「……殿、少々此処で待っていて下さらぬか」
「え、はい。良いですけど……どうかされたんですか」
「少し、一人で見たいところが出来た。直ぐに済む」
 本屋に入って暫く経った後のことだった。は一度掌をに向けて本屋を出て行った魁の背中を見送った。しかし直ぐに意識は本棚に集中する。
 身体からこぼれ落ちそうになる気持ちほど、切なくどうしようもないものはない。暴れないうちに、一人では抱えきれなくなるうちに、萎ませるか、上手く手綱を引けるようにならねば。
 は気になった本を一頻り読んでしまうと、手持ち無沙汰になった。しかし本に囲まれている空気というのがにとっては心地良く、何をするでもなくぶらりと、店内を回っていた。
殿」
 名を呼ばれ、はふと振り返る。狭い店内故に、本棚で視界が遮られていたのだろう。は側による魁を見て、用事は済んだんですかと返した。
 一つ魁は頷きを返して何か買いたい本はあったかと尋ねた。全て読んでしまったというの返答に、ずいぶん待たせてしまったのかと済まなさそうな顔をしたが、は笑って帰りましょうと持ちかけた。
 まだ空は赤くなかったが、かといって何かしたいことがあるわけでもない。二人は来た道を戻った。
 自分達の住む家の最寄り駅で降りて、ぶらぶらと歩く。今日は世話になったと魁が言った。大したことはしてませんとが返す。沈黙が降った。
「――殿は」
「はい」
「――……いや、何でもない」
「……気になるんですけど」
「……」
「言ってみて下さい」
「いや……大したことでは無いのだが」
 余りはっきりしないまま魁は一つ間を空けて、尋ねる。
殿は、なにか今悩みでもあるのだろうか、と」
「……何でですか」
「先ほどの甘味処で、泣きそうな顔を」
 魁に言われ、は地面をにらめつけた。さぞかし潰れた顔でもしていたのだろうと一人心中で悪態をつく。
「そりゃ、人間ですし、悩みの一つや二つはあるでしょう」
 答えると、魁は恋に悩む顔をしていた、とまた、の心を突く。
 魁もが暗に魁には関係ないのだと言っているのが分かったが、引くつもりはなかった。
「……そうだとして、魁さんの出る幕はありませんよ」
 は言って、家へ続く道で立ち止まり、今日は有り難う御座いましたと別れようとした。しかし魁はそれを呼び止めて、の手を取った。
「なに……」
「今日付き合って貰った礼だ」
 の手に魁が何かを握らせた。くしゃ、と紙の潰れる音がして、は掌を見る。そこには何かが入った小さな紙袋。中を開けてみると、薄い長方形の金属でできた洋風の栞が出てきた。洋風というのは、金属が切り絵のように一つの絵を作り出していたからだ。察するにシンデレラに出てくる馬車と城だろう。線で綺麗に描いてあった。
「……綺麗」
「気に入って貰えたなら幸いだ」
 魁は一つ笑みを零して、気をつけて帰るように言ってから離れた。
 何か急に切ないような気持ちを覚えたが、はそこに立ち止まって栞と魁の背中を見比べるしか出来なかった。
 時間をおいて、も家へと歩き出す。直ぐ近くだったため、家の玄関先ではようやく気付いた。
 栞が入れてあった袋に、何かの筆跡がある。が袋を裏返すと、そこには何かが書いてあった。
「?……――!」
 は一気に体が火照るのを理性だけで抑えようとして、兎に角自分の部屋まで駆け上がった。
 袋の裏には変わらない文章が書いてある。少し書道がかった綺麗な字だ。文面をよく見る。出だしは百人一首だった。
【かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを】
 直ぐ脇に【藤原実方朝臣】の名が連なっている。の思い違いでなければ、これは相当な恋の歌だ。そしてその下には歌とはまるで関係がないと言った風に、今日のことを感謝する文章と、今度は親の金ではなく自分で稼いだ金で誘いたいという旨の文章が書かれていた。
 は取り敢えず落ち着け、と混乱した頭で自分を叱咤し、確か国語便覧に百人一首の訳が書いてあったはず、と便覧を引っ張り出した。
 目次から百人一首が乗っている場所を探し出し、かくとだに、から始まる歌を探す。見つけた場所にはやはり、が知っていた範囲内と同じ恋の歌であることが書かれてあった。
 ち、と舌打つ。
 は携帯の着信履歴から一番上にある番号を引っ張り出して、その主が電話に出るのを待った。
『もしもし?』
「あ、由太郎?悪いけど魁さんに替わって」
 声が幾分か低い。由太郎は少し待ってろよ、と言って、どたどた歩く音が聞こえた。それから魁の名を何度か呼び、替わる気配がした。
「魁さん!あの袋に書いてあるのはどういう事ですか!」
 が怒鳴ると、電話口から魁が笑う気配がした。
「流石は……。気付くのが早いな、殿は」
「きっちり答えて下さい。あれはどういう意味ですか」
 自意識過剰どころの騒ぎではない。あれは歴とした恋文である。寧ろあの文章を見て恋文だと気付かない方はどうかしている。
 電話口で再び、魁が笑いの気色を帯びながら話し出す音が響いた。
「その歌の通りだ。募る思いをどうすれば言葉で伝えることが出来るのか……。赤々と燃えるさしも草がこの胸に燃える熱い思いを知らぬと言うのに、ましてあなたがどうして知ることがあるだろうか……。例え欠片ほどでもこの思いが伝わるならばと、この歌を送る、と」
「――っ!信じられない!!気障も気障ですよあなたは真性の軟派師ですかっ!大体私がこれに気付かなかったらどうするんですか!」
 息を荒くしてそう言うに、魁は至って普通に答えた。
「少し分かり辛い方が、お主相手には丁度良いかと思ったのでな。気付かれなければまた機会を作り、やはりこの思いを伝える気で居た。……気付けば今の通り、何かしら反応はあると踏んでいたからな」
 その答えには愕然として、開いた口が塞がらなかった。
「して、殿」
「!は、い」
「返歌はあるだろうか」
 顔を見ずとも不敵に笑う魁の顔が見える。
「こちとら古典に精通してるわけでもないんで!」
 は逃げると分かっていながらそう叫んで、一方的に電話を切った。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 苛々しながら何度も心の中でそう吐き出す。結局は畜生と叫んだ。

 またが返事を寄越した際に、が腐心していることは一体何なのかともう一度魁に問われ、鈍いんだか鋭いんだか兄弟揃ってはっきりしろ、とが喚くのは数日後の話である。

取り敢えず満足!一応これでおわっときますよ。
各タイトルについての補足。
『書淫』:すごーく本が好きなこと、または人を指す。
『書痴』:読書ばかりしていて世事にうとい人、書物収集狂。
『書癖』:読書を好む癖、また書物を無闇に集める癖。
『宵待草』:夕方に開花する。魁さんの自覚症状がちょっと遅かったのでつけました。
『艶書』:ラブレターのこと。恋文。

2006/02/09 : UP

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