書癖

「――っん、あ、や、魁、さ……、ぁ、ぁ、ん、んぅ、ぁぅっ、……っは、ぁ、あ、や、あっ――!」


 暑い日だった。
 は学校で借りた本を返すべく家を出た。
 外へ出れば熱気がを歓迎してくれる。はああ有り難いと思いながら自転車を転がした。ペダルを踏みしめ、急いで学校へと走る。暑さもさることながら、自転車を進める度にアスファルトで暖められた熱い風が首元で遊ぶからだ。畜生とは悪態をついて、ペダルを踏む。き、と短くペダルが鳴った。

 学校はがらんとしていて、ただ野球部の声が良く響いていた。恐らくは体育館でも、少し離れた第二グラウンドでも運動部の声が響いているのだろう。
 は只でさえ熱いのに、その上むさ苦しいなんて勘弁してくれよと一度舌打って、野球部の活動場所の脇を通るのを避けて遠回りで校舎に入った。由太郎に見つかれば炎天下の中に晒され続けることだろうから。とっとと用件を済ませたかったは、敢えて由太郎に声を掛けなかった。涼しい日なら良かったのかも知れない。
 校舎に入っても、涼むどころか寧ろ風がないだけ湿気がの皮膚を覆って気分が悪くなった。空気の動く音すらしないその代わりというように、蝉がけたたましく鳴いている。
 五月蝿いんだよ!と癇癪を起こしそうなは、涼むためにも図書室まで少ない体力で駆け上がった。折角まだ日射しの強くないうちにと午前にやってきたのに、余り意味はなかったかも知れない。
 は図書室のドアを開けると、司書と軽い挨拶をした。
「あら、如月さん」
「ちはー」
「……駄目じゃない、学校に来る場合は制服じゃないと」
 司書は怒る気がないのか笑いながらそう注意した。茹だるような暑さに参っているのは生徒だけではないのだ。黙認、と言うものである。
 は甚平姿のままでやってきていたのだが、如何せん黒撰高校の制服は着物である。正直、着てられない。
 は肩を竦めて、
「やだな先生。これはあれですよ、制服のスカートにTシャツを着て夏休みにクラブしに来るようなモンですって」
「……本当はそれも駄目なのよ」
「ま、それはおいといて!これ読めました」
 どさり、と本を渡す。司書は呆れたような、感心したような声で声を上げた。
如月さんは読むのが早いわね」
「へっへ。こりゃぁ全部読み切るのに三年も要らないですよね」
「……でも、本を借りるなら街の方の図書館に行った方が沢山借りられるんじゃないの?」
「甘いですね。そこに行くまでの交通費を考えると、学校の図書室利用した方が良いんですよ。此処にない時は、そっち行ってますし」
 ちなみに我慢した分の交通費はお菓子に回りますけどね!とは元気よく言う。図書室には社会科の先生の職員室も設置されているから、十分クーラーが効いている。一気に回復し、は再び借りる本を選びに本棚へ消えた。
 そしてお目当ての本や、面白そうだと思ったものを八冊ほど引き抜いて、カウンターへ。そこで貸し出しカードに自分の名と借りた日と返却予定日を書き込んで、司書に渡した。
「じゃぁ今日は帰りますー帰ったら愛しい冷麺が待ってるんで」
「あら、良いわねー」
「良いでしょーじゃ、さよなら」
「はいさよならー」
 軽い挨拶を終えては再び熱気の中へ飛び込む。正直なところ汗をかいた後の冷房だったので一瞬は温いなと思いながら、直ぐにその顔は曇る。やっぱ暑いと心中呟いて、は階段を下りた。
 しかし先ほどよりかは風があるようで、どこからか肌を撫でる冷えた風に、は苛つくこともなく駐輪場まで行くことが出来た。
 は自転車の鍵を外し、籠に本を乗せてサドルに跨ってペダルをこぎだす。
「……あれ?」
 その動作が唐突に止まり、は野球部の声が止まっているのに気付く。見ると、思い思い木陰で水分補給している姿が目についた。
 思わず止まってしまっていた所為か、そこでは由太郎と目があった。
ー!」
「げ」
 なんで止まったんだろうと後悔しつつ、思い切り目があった後大音声で名を呼ばれ、無視するという選択は空の彼方へと飛んでいった。
 渋々が手を振ると、笑顔のままこっち来いよー!と由太郎が叫ぶ。ヤダねー!と言い返すことも出来ず、は自転車を邪魔にならない日陰に置いて、本を持ってフェンスの向こう側へ。
「一瞬誰だか分かんなかったぜー」
「だろうねえ」
 一瞬どころかずっと気付かないで居てくれたら良かったのにと思うものの、野球部の、特に先輩が居ることではいつもの調子を崩していた。
「由太郎は今休憩?」
「おう!今日は暑ィから、水分補給はこまめにするって」
「へえ、あ、魁さん今日は」
 木陰に座っている由太郎の側に立っていると、グラウンドの奥から魁が現れた。は軽く会釈をして、魁もそれに応える。
「此度は何用で此処へ?」
「本です。今日は図書室の開館日ですから」
 胸に抱いた本の群れを見せて、魁は納得したように一つ頷いた。
「うへえ、ってばそんな本読んでよ、いつかホントに本の虫になっちまうぞ!」
「あはは、可愛いなあ由太郎は」
 言外は馬鹿な子ほど可愛いと僅かに貶しているのだが、由太郎にそれが伝わるわけもない。どちらにせよそれがなりの、所謂愛情表現なのだが。
「それ一口くれ」
「お、ほとんど残ってないけど良いのか?」
「由太郎が良いならいいよ」
「ん」
「……」
 暑さに耐えかねたが由太郎にそう申し出、由太郎が当たり前のように用意されていた飲料水を手渡す。魁はそれを渋い顔で見ていたが、敢えて何も言いはしなかった。ただ、僅かに顔を赤らめてそれを見ていた。
「サンクス。……?魁さん、顔赤いけど大丈夫ですか?」
「ホントだ。にいちゃん、暑いのか?」
 揃って心配され、魁は大丈夫だと言ってみるものの、はやれ熱中症ではないかだのこれからぶっ倒れるのではないかと色々要らないことを言って由太郎の不安を助長させ、大丈夫、と言う本人の言葉は過去に置き去りにされた。
「おれ、にいちゃんまだ休んどくように言っとくな!じゃあな、!」
「こ、これ由太郎、拙者は大丈夫だと」
「おお、お前のにいちゃんのことは面倒臭いけどそれなりに面倒はみとくから安心して行ってこいー」
「な、如月殿!」
「はいはーい、名前で読んで下さいねー」
 軽く年上をあしらって、は木陰に座って、上半身は木の幹にもたれた状態で、ぽんぽんと太股を叩いた。
「ほらほら早く、此処に頭置いて下さい」
「はっ」
「だって本じゃ硬いでしょう」
 そう言う意味ではないのだがと言う魁を無理矢理に引っ張って、は良いから頭乗っけて下さいと魁の頭を鷲掴みにした。
殿……っ、拙者は」
「顔真っ赤にして汗かいてる人に拒否権はありません。……魁さん、その水とタオル貸して下さい、顔冷やします。あとユニフォーム脱いで下さい。アンダーは着ていても良いですけど、靴下とかも全部脱いで下さいね」
「……っ」
「はやく」
 急かされ、魁は仕方なくの隣に座って、言われた通りの行動をした。最後まで膝枕は勘弁してくれと避けていたが、問答無用と魁の身体を横にさせた。
「ったく……いい歳して世話かけさせないで下さい」
「拙者は、だから大丈夫だと……」
「そう言って、簡単に振り切れる私の腕も払わなかったでしょう」
 突かれ、魁は黙り込んだ。ぐったりと赤い顔のまま、目を閉じる。はそう言えばと魁の額当ても取り払った。
「歳なんですから、無理はしない方が良いですよ」
「……相分かった」
 不承不承ながら返事を寄越した魁に、それで良いです、とは言う。携帯をとりだして、何事かを打ち込んだ。魁はメールだろうと見当をつけた。がボタンを押した後にじっと何かを待ち、携帯の蓋を閉めたから。
「今日は殿に二度も出会ったな」
「二度?」
 魁が目を閉じながら発した言葉に、は首を傾げて魁を見た。魁は僅かに口元に笑みを携えて、すうと息を吸い込んだ。
「夢に殿が出てきた」
「じゃあ私が魁さんのことそれだけ好きなんですね」
「……殿」
「あれ、嬉しくないんですか?」
「そうではなく……」
 それは古典の時代の話だろうと、魁は言う。はじゃあ魁さんが私のこと好きなんですねと切り返した。からかわれていると承知しながら、魁は赤面してしまう。結局、魁はその言葉には何も返さなかった。
 少しばかり空虚な気持ちを覚えたのはで。誤魔化すように、魁の目の上にのせたタオルを持ち上げて、汗を乱暴に拭った。
 抗議の声を上げた魁に、は今日の魁さんは今一誠実さに欠けますねと手厳しく一言。魁は自分でも分かっているのか言葉に詰まるも、ふと目についた本の山に目を留めた。袋に入っているそれを見ながら、はいはい上見て下さいと直ぐに目の上にタオルが掛けられる。
「……殿、今日はどのような本を?」
「今日は前から借りていたシリーズものと、ちょっと気になったんで歌物語と、あとは春画ですね」
「しゅ……!?」
 思わずがばりと上半身を持ち上げた魁に、はうわ、頭に血が上りますよ!と怒ったように言った。魁はそれどころではないので、勿論それを聞くことはなかったが。
「な、殿、しゅ、んが、と、今し方……!」
「言いましたけど?美術史の本棚を見てたら薄いものですけどあったんで、面白そうだなーと思って借りてきました。ちょっと見たけど昔の人も今の人と大概ですよね、何てったって真ん中の方にタコプレイの絵が」
殿っ!」
 笑いを含んだ声に、魁はタオルを避けてを睨んだ。先ほどよりも顔に赤みが差しているのは、気のせいではない。
「はいはい、すいませんね。……あ、誰か来ましたよ」
「親父殿」
 靴音と視界の端に姿を捕らえ、魁はむくりと起きあがった。
「なんだ、魁。由太郎が少し熱中症と騒ぐから来てみれば……」
 偉大な野球選手を目の前にし、なんとなくも魁と共に居住まいを直す。説教が始まるか、と思ったが、村中はに目を落とした。
「おお、この間家に来ていた奴だったか?」
「あ、はい。よくご存じで」
「魁と由太郎が見送っていたのを見てな」
 何もできんで悪かったな、と村中が零す。はいいえ、と首を振った。村中はぽんぽんとの頭に手を乗せて、もうちょっと休んでおけとそこを後にした。
 村中が去った後、何故か魁の顔が赤みを増していて。
「魁さん?」
「……何でもない」
「何でもないって顔してませんよ。ほら、やっぱ寝てないと。つーか寝てろまじで」
 ぞんざいになる言葉遣いに、僅かに魁が笑う。
「……心配してくれるのだな」
「どっちかって言うとぶっ倒れたら周りに迷惑かけることを、魁さんが心配して欲しいんですけどね」
殿は優しい御人だ」
 知って居るぞ、と言わんばかりの笑みに、は一瞬息が詰まった気がした。それから、は、とわけが分からない風に声を上げた。
「この前は、由太郎の叱咤激励に来てくれたな。あの時は本を返せと誤魔化していたようだったが。拙者に語ってくれた前者が、殿の本意だったのだろう?」
「……」
「今日もその本を読もうとしていたのではないか?そろそろ昼時だ、腹も空いているだろうに」
 いつになく喋る魁に、は少しだけ間を空けて、それからふて腐れたように
「私の予定は私が立てます。何で魁さんが仕切ってるんですか」
 そう言った。照れくさいのか少し頭をかいて。
「それより、横になって下さい。頭高くして、頭に血が上らないようにしないと……」
「良いのだ、殿。当初から拙者は申していたであろう?熱中症等というものではないのだ」
「じゃあなんで……」
「……それは」
 魁は言い淀んだ。目線が彷徨い、しっかりしない。直前まで穏やかに笑みさえ見せていたのに忙しいことだとは思う。
 魁は暫く黙って、それから
「……申し訳ない」
 と、深々とに土下座をした。
「は!?」
 驚くのはである。唐突な魁の行動に、意味が分からないと、兎に角頭を上げるように言うものの、が言葉を重ねる毎に魁の頭は下がって行く。
「え、ちょ、気持ち悪いですよ私理由も知らないのに!魁さん私に何かしたんですか?」
「何か、と……その……兎に角、申し訳ない」
「だあ、わけわかんねー!魁さん、私の知らないところで一体何、を……」
 は少し苛立ったが、魁が自己嫌悪とでも言おうか、酷く悄気ているのを見て、言葉を止めた。
「……。魁さん、顔、上げて下さい」
「しかし拙者は……」
「今まで普通に喋ってて何いってんですか。顔上げないと蹴りますよ思い切り」
「っ」
 びく、と僅かに顔の身体が強張るのが、にも分かった。しかし魁は顔を上げない。
「……ったく……わけの分からない人ですね。蹴りませんよ冗談に決まってるでしょう。顔上げないとこれから先わけが分かりませんけど取り敢えず許しませんし名前も呼びませんし喋らないし視界にも入れません」
「そ、れは」
 僅かに顔を上げた魁の顔を、は両手でしっかりと固定する。捕まえた!と酷く怒った剣幕で。
「きちんと、私に分かるように、その言葉で伝えて下さい。でなければ許せるものも許せないでしょう。ちなみにこれは怒鳴っているだけで怒っては居ません。苛立ってますけど」
 分かりましたか、とは続けて、一度頷いた魁はの両手をとって、しかし正座は崩さなかった。魁はそっとから手を放して、視線を地に投げる。
「その……ゆ、夢に殿が出てきたと……」
「ああ、はい、聞きましたけど?」
「そこで……その、せ、拙者が殿に……その、誠に言い辛いのだが、そ、ういう、行為を」
「……はあ、まあ端的に言って夢精をしたと」
 が引き継いで、直後一気に赤みを増す魁の顔。はやれやれと溜息をついて
「魁さんらしいっちゃらしいですけどねえ。普通は本人にそんな事言いませんし」
「いやその……どうしても、殿と話し込んでいると、申し訳ない思いでいっぱいになり……」
「しょうがないでしょ、第一、そんなのなったって魁さんの責任じゃないんだし。魁さんがどのくらい私を手込めにしたか知りませんけど、魁さんだってまだ若いんだし、相手も居ないんだから行き場がないんでしょう」
「な、何故それを」
「知人に魁さんの情報に関してはカナリ敏感な奴が居るんで」
 ふう、とは息を吐いた。何故こんなことを私が言わなければならないのかと虚しくもなったが、その顔が赤みを帯びたのは暑さの所為ではないだろう。年寄りなんだから無茶はするな、と言う先の発言と全く矛盾したの言い方に、魁は目を丸くする。
「……兎に角!相手が私で悪かったでしょうけど、そう言うのは気にしなくて良いんですッ!まして本人に言ったらまずドン引き間違いナシですよ。これからそう言うことがあっても絶対に言っちゃ駄目ですよ?」
 本気で何故私はこんなことを忠告せねばならないのだろう。年上の男に。
 はかなり虚しくなり、先ほどの空虚さが酷くなるのを感じた。
「せ、拙者殿に関しては、別に夢見が悪かったわけでは……」
「はいはい、もう、私だって恥ずかしいんですから、あんまり長引かせないで下さいって!」
 この話は終わりだと打ち切って、は疲れたように溜息を一つ。
「……じゃ、顔赤くなってたのはその所為ですか」
 自分で続けるなと言っておきながら何ですがと言いながら、は気になるのか、そう尋ねる。魁は居心地悪そうに、無言で肯定の意を示した。
「今でも私、魁さんの脳内で陵辱されていたりして……ああ、じんべいなんて着てくるんじゃなかったかな……って言うか、膝枕嫌がったのってその所為ですか?うわ、魁さんむっつりー」
殿……っ。そ、そのような言い方は」
 焦ったような魁の声色に、は簡単に引っかかる人だなあと思いつつ、魁さんのエッチ、と大声で叫んだ。
 その後暫くからかっている最中のが、やけに良い笑顔をしていた、と言うのは案外本人がよく知っているのかも知れない。

 ちなみに、その日のの昼食は帰ると既に家族に食べられており、恨みはらさでおくべきかと言わんばかりに魁をからかい続けるの姿が、その後数日間野球部の近くで発見された。

この話の魁サイドはここからどうぞ。

2006/02/03 : UP

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