緑の揺り籠
お昼寝ごろごろ
「ヤッファさん」耳に優しい声がして、ユクレスの大樹の根の上で横になっていたヤッファは薄く目を開けた。
そこには名も無き世界からやって来た女性が、穏やかな表情でヤッファを見下ろしている。明るい髪が日の光で淡く光っているような気さえして、彼は反射のように目をつむりそうになった。
また来やがったのか、と彼は思うものの、口には出さない。
また、というものの、彼女と彼が出会ってから毎日の話である。彼女は彼を探しては、こうして彼に声をかけるのだ。とはいえ、いくつもある彼の『穴場』を彼女が全て把握しているわけも無く、やり過ごす日が無いわけではないのだが。
とにかく、彼女が毎日彼の姿を追いかけていることを彼は知っている。相手をする気が無い日はそのまま出て行かないこともあるが、その日はたまたま皆に見える場所で昼寝を敢行していたところ、やはりと言うべきか、見つかったのだった。
彼が黙ったまま尻尾を揺らすと、彼女は器用にも嬉々として彼の懐に潜り込んだ。最早日常と化したその行為に、彼はぴくりともせず彼女を受け入れてやる。怠慢な動作で片腕を回してやれば、彼女は満足そうに声を上げた。
「へへ、ヤッファさんあったかーい」
なにがそんなに気に入ったのか、彼女はえらく彼を好いていて、彼女が望んだのはユクレス村での暮らしだった。
以前の生活ぶりを聞くにはロレイラルでの暮らしが近いようだが、彼を含む四人の護人がいかに彼女に自分たちの集落の特徴を説明しても、また実際に見て回らせても、彼女は断固として他の集落で暮らすことに首を縦に振ることはなかった。その間にこにこを笑みを絶やさないでいたことも相まって、面倒な奴なのだろうと思ったことも記憶に新しい。
「……! こら、なにしてんだ」
「えー、だって……」
こしょこしょと脇をくすぐられ流石に抗議をしてみれば、笑みを消しきれないまま上目遣いに彼を見上げる彼女と目があった。その手は彼の服の中に潜り込んでしまっている。
「ヤッファさんのここ、スッゴク柔らかいんですもん」
言って、彼女は臆面も無く彼の腹部を撫でた。フバースである彼の毛並みはどちらかと言えば柔らかい方である。その中でも突出して気持ちがいいのだと彼女は笑う。
幸か不幸か、唐突にとんでもない行動をする彼女にも徐々についていけるようになってしまった彼は、ため息をひとつ。会って間もない頃は随分と振り回されたものだが、彼女とうまく付き合っていくには彼女の好きなようにさせるのが一番だと言うことを、彼はすでに学びとっていた。
「……お前の方が柔らかいけどな」
ヤッファの大きな手は彼女の頭をすっぽりと包んでしまう。手のひらに伝わる繊細そうな感触を楽しむように、その手が優しく彼女の髪を撫でた。
彼女はまるで獣がそうするように、心地よさに目を閉じている。その口からは幸せそうな声がこぼれた。
「やーん、ヤッファさんのエッチー」
「髪の話だ」
ぴったりとくっついて離れない彼女を抱き直して、ヤッファは浅く息をついた。以前も彼女が同じように寄り添ってきた際、バランスを崩して頭から落ちそうになったことを思い出す。彼と違い何の能力ももたない普通の人間である彼女が大樹の根から落ちれば、大なり小なり怪我は免れない。そのことを承知しているのか、はたまた彼が彼女を護ることを確信しているのか、彼女自身は酷くのんびりとしてつかみどころが無いので少々手を焼いている、というのが彼の本音だった。
「ねー、ヤッファさんの尻尾、触っていいです?」
「……」
ぴくり。彼の尻尾が揺れる。無言の返事に、彼女はそろそろと手を伸ばした。
「やめとけ」
「わ」
寸でのところで手をとられ、叶わなかったそれに彼女は唇を尖らせる。
「ちぇー……」
「ったく、なんだってそんなことしてえんだよ」
「だってヤッファさんの尻尾、さっきからぱた、ぱたってかわいいから」
ふわふわしてるし。そう言って笑う彼女からは幸せそうな気配以外感じられず、彼はやはりため息を。
「……前に作ったタルトとかいう菓子、食わしてくれんなら考えてやってもいいぜ」
それでも譲歩だ、と提案したそれ。けれど彼女は彼の言い回しに眉を寄せた。
「その言い方って、触らせてくれるつもりないってことじゃないです? タルトは作りますけど」
是が非でも触りたいわけじゃないので、と続ける彼女に、彼は黙って尻尾を揺らす。そして尻尾の代わりとばかりに彼の髪をいじろうとし出した彼女の動きを封じて、彼女が来るまでそうしていたように静かに目を閉じた。
頬笑みをアテに
「ヤッファさぁん……」突然上がった甘い声。名も無き世界からやって来た彼女は、胡座をかいていたヤッファの膝に頬を寄せた。
あらあら、とスカーレルが笑う。冷やかしにも似たその声に、ヤッファは居心地悪く身じろぎをした。
「おい、サツキ? 眠いならさっさと庵に帰りな」
「うう……いやです……静かにしてるからここに居させてください……」
ダメです? と彼女は彼の膝に頭をのせたまま、彼の顔色をうかがう。彼は、柔らかい彼女の髪をくしゃりと撫でた。それが返事だった。
承知した彼女の意識は直ぐに眠りの淵に落ち、静かな寝息が響き始める。
「お酒飲んだら寂しくなっちゃったのかしらね?」
二人の様子を見ていたスカーレルは、そういってワインで唇を濡らした。
ヤッファとスカーレルが夜に酒を酌み交わすことがあるのを知った彼女は以前から自分も加わりたいと言っていて、今日はそれが叶ったのだがこの有り様である。
失敗だったかとヤッファは思いながら、彼女の頬を指の背でくすぐるように撫でた。
「……こっちに来てから、ぐずったりしたことがなかったからな」
普段の彼女は笑みを絶やさない人で、いつもヤッファの後を追いかけていることは既に島の住人のほとんどが知るところとなっていた。
けれど、いくら大人とは言え、彼女はまだ若い。見た目には明るく振る舞っているものの、心中、強い不安を感じている可能性は否定できなかった。
それでも眠る彼女の顔が安らかで、スカーレルは目を細める。
「貴方が居るから耐えられるんでしょうねえ」
「全く何もしてやってねえんだがな」
「そこまで甘えさせてあげといてよく言うわ」
珍しくひやかしを流しきれずに照れるヤッファを見て、くすくすと、けれど静かにスカーレルは笑う。そうしてひとしきり笑った後、ふとため息をついた。
「お酒が甘いと気分も甘くなるのかしら」
「悪いな、今日はこいつの舌に合わせてもらっちまってよ」
「ううん、お酒は文句なしに美味しいわよ? 彼女のにこにこした顔見ながらの晩酌ってのも、心が軽くなるような気がしたし」
癒されるわ、とスカーレルはまたワインに口をつけた。
彼女がヤッファに心を開いているのは一目瞭然だ。そんな彼女が彼に向ける顔と言うのは、見る者の心も緩ませる。目に見える好意は時として微笑ましい。
静かな晩酌を好む彼らにとって彼女の参加は賭けのような部分さえあったが、彼女も二人の邪魔にならないようにと終始笑みこそ絶やさないものの静かであったから、結果としては良かったと言える。
ウチのセンセも誘えばよかったんだけど、そうするといよいよ大所帯になりそうだしね、とスカーレルは僅かにため息を。
「前みてえな宴会なら話は別だがな……」
ヤッファが言うのは以前に開かれた、ジルコーダ討伐の帰りの話だ。あわや島が壊滅的被害を受けるところを、皆が協力することでなんとか阻止できた。そして、それまではお互い干渉をできるだけ避けてきた彼らが打ち解けた証でもあった。
達成感。その中にはばらばらだったものが一つにまとまっていく高揚感もあっただろうが、心地よい疲労を纏って行われた宴会は笑顔で溢れた。
勿論酒も用意され、その時は賑やかな中で飲んだのだが、あえて言うとするならば、そういう席で飲むときと、こうして密やかにグラスを傾けるのとでは、心構えと言うものが違ってくる。
「そうねえ……」
ま、あれはあれで楽しかったけど、とスカーレルはまた笑んだ。ヤッファは、飲んでいるわりには笑っている彼を見ながら、黙ってグラスに残っていたワインを飲み干した。
「またやりましょうか」
「誰が仕切るんだ? 俺はめんどくせえのはごめんだぜ」
「心配しなくても、やりたがる人はたくさんいるじゃない?」
あたしらはのっけてもらって端っこで楽しみましょ、と言うスカーレルの顔は仄かに楽しそうで、ヤッファも少しだけ頬を緩めた。
膝には彼女のぬくもりがあって、グラスをもたない片手は手持無沙汰に彼女の髪を撫でている。
「それなら悪くねえな」
「でしょ。……まあ、この話はまたいつかでいいかしらね……さあ、グラスが空いてるわよ」
「ん」
スカーレルがヤッファのグラスにワインを注ぐ。緩く傾けると、ランプの明かりに照らされて鈍く光を放ち、彼は目を細めた。
大切だから、美味しそう
「私、ヤッファさんになら食べられてもいいな」「……はぁ?」
唐突な彼女の言葉に、ヤッファは珍しく飛び起きてまじまじと彼女の顔を見た。
怠け者の庵……の、すぐ近くに設けられた、彼女の庵。流石に彼女の寝床でそうするのは憚ったのか、板の間にタペストリを引いただけのスペースにだらしなくごろ寝をしていた彼だったが、その隣で足を伸ばして座る彼女の突拍子のない言葉には目を瞬いた。随分慣れたとはいえ、どうも彼女の思考回路は読める気がない、と彼は思う。
身を起こした彼と彼女は横に並ぶ形で、顔だけをお互いの方へと向けている。
「いくら戦闘種族だっつってもな、流石にお前を取って食う気はしねえぜ」
訝り、眉を寄せながら呟くと、彼女はそうじゃなくってですねえ、と唇を尖らせた。
「だ、だから、……もうっ! ばか」
「いてえ」
いきなり顔を赤らめたかと思えば思い切り背中を叩かれ、ヤッファは解せねえと呟いた。
「いきなりなんなんだよ」
「……もういいですっ」
「めんどくせえやつだな」
拗ねてしまった彼女は、けれど彼の背中にぴったりとくっついて離れる気配がない。
彼はやれやれと浅く息をつくと、上半身を捻って振り向きながら、彼女をその後ろにある寝床に押し倒した。
「まあ、なんだ。自分からそういうからには美味いんだろうな?」
にや、と笑って視線を合わせると、頬を赤らめたままの彼女が驚きに目を見開く。
「あ……!? ヤッファさんわざと……」
「知らねえな。……さあ、味見といくか」
そうしてからかわれたのを知った彼女が怒りを口にする前に、彼はその白い首筋に噛みついた。
好きな男を想えば、トーゼンです
「ねえヤッファさん」「あー?」
怠け者の庵にて、そろそろ日も落ちようかと言う頃合いになってから彼の前に姿を見せた彼女は、それがとても深刻なことであるかのような神妙な面持ちでもって彼に尋ねた。
「ヤッファさんも、胸やお尻って大きい方がいいんです?」
彼女の唐突さは今に始まったことではないとは言え、彼はハンモックから転げ落ちそうになった。実際はバランスを崩しそうになっただけで落ちはしなかったのだが、彼はやれやれと言いながらも彼女の話に耳を傾けるため、改めて板の間に足を下ろした。
「……なんだ? また随分といきなりだな」
「今日は海賊のみなさんとお話してたんですけど、そこで海水浴の話になったんですね。それで水着の話に移って……そしたらカイルさんが、やっぱり胸がおっきい人のビキニはいいもんだって」
なに言ってんだアイツ。
つい口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、ヤッファは大きな手で自分の顔を覆った。彼女は真剣そのもので、もしやこれが初めて見るまともな――彼女は基本的には笑顔でいるため、あまり引き締まったそれを見ることが無い――表情ではなかろうかと思い至ったと同時に、その理由を改めて思い起こし、彼は得も言われぬ脱力感に見舞われた。
「アティさんくらいあるほうがいいです?」
「あー、……まぁ、人によるだろ」
「そういうあたりの優しい言葉は結構です」
なにを気にしているのか、彼女の声は普段に比べやや厳しい。
面倒くさい、と思いながらも、彼は彼女の出方を伺うために口をつぐんだ。彼女が何か明確に意思表示をしたときは、適当にあしらうと後でもっと面倒なことになるのである。ならば、まだましなうちに何とかしたほうがいい。
「アティさんの胸、柔らかくて暖かくておっきくて、最高ですもんね」
触ったのかこいつ。
「……なにしてんだ、お前は」
言いたいことを飲み込んで呆れ半分に彼女を見ると、彼女は随分と真剣に彼を――厳密には彼の手を見つめていた。
「サツキ?」
「……ちょっといいですか?」
断りを入れて、彼女の手が彼の手のひらを掴む。今更手のひらを見たところでなにがあるのかと思いながら様子を伺っていると、彼女はおもむろに自らの片胸にヤッファの手を押し付けた。
「……っ!」
「あっ……やだ、揉まないでください」
「無茶言うなッ! つーか、思わず力入れただけで揉む気はねえよ!」
彼の真っ当な抗議の間にも彼女が手を離す気配はなく、彼は無理矢理にでも振り払うべきか逡巡して、ため息をついた。
それをするには彼女はあまりにも非力だ。まかり間違って傷つけてしまう可能性がある以上、得策ではない。とは言え、このままというのも非常に気まずい。主に、彼が。
「おい、サツキ?」
二人立ち尽くしたままで一体なにをやっているのだろうと我に返った彼は、行為を終わらせるように促したのだが
「……やっぱりヤッファさんの手、暖かくて気持ちいいです……」
そう言って彼の手を胸に抱き無防備に笑う彼女の顔は、彼が彼女を傷つけることなどあり得ないと確信に満ちているようだった。それは当たっているのだが、あまりにも突飛で幼稚にも思える彼女の行動に、彼は僅かに目を細める。それはまるで獲物を狙う狩人のようで――
「サツキ」
「?」
「そんなに気になるってんなら、俺によく見せてみな?」
言うやいなや、彼は彼女がなにか口にするより先に、自分の縄張りへと彼女をさらっていた。
そこはかとなく、ぬかりなく
果樹園でナウバの実を嬉しそうに口にする彼女を見ながら、ヤッファは考えていた。彼女が暮らしていた場所はどちらかといえばロレイラルのそれに近い。
全く、なにがそんなにいいんだろうか。
「……風雷の郷の方に行く気はねえのか」
彼の口にした疑問に彼女は目を瞬いて、それから首をかしげた。
「ヤッファさんは私がここにいない方がいいんです?」
「いや、そうじゃねえけどよ……あそこにならゲンジの爺さんもいるし、そもそも人間はあそこにしかいねえし」
環境はロレイラルに近いといえども、彼女の世界にはリィンバウムのように、人間が暮らす世界らしい。しかもゲンジという老人と同じ世界、同じ国に暮らしていたというのだから彼がそう思うのも無理はなかった。
けれど彼女はきょとんとしたまま、
「亜人のみんなもそう変わらないですよ? アルディラさんやクノンちゃんも」
「会話ができるできないの話じゃねえんだよ」
どうせなら同じ人がいる場所の方が精神的にも不安は和らぐのではないかと考えた彼の配慮は杞憂だったらしい。
「私、ここが一番好きです」
はっきりと笑って言い切った彼女に、ヤッファは、ならいいんだがよ、としか返せなかった。
彼女はあまり自分の世界について話さない。好奇心旺盛な子供たちにはあれやこれやと質問攻めにされながらも丁寧に答えていたようだから、聞けば答えるのだろう。しかし、自分から言い出さない限りはあまり深くを聞かない方が優しさだと、島に暮らす住人たちは思っていた。
「確かにロレイラルは前にいたところと近いんですけど、ここみたいに美味しい果物をもぎ取って食べたりはなかなかできませんし、シルターンも生活習慣とか、馴染みが無いとはいえないので暮らしやすいでしょうけど、ヤッファさんがいないじゃないですか?」
にこにこと笑顔のままでそう言う彼女から、照れのようなものは感じられない。
「……物好きなこった」
「あは。見る目があるでしょ?」
「調子いいこと言いやがって、なんも出ねえぞ?」
「やだなあ、ヤッファさんがもう出てるじゃないですか」
ヤッファが照れ隠しに呆れても、彼女は一向に意に介す様子はない。彼は白旗をあげるように尻尾を揺らした。
「……つまみ食いはあんまりするなよ」
「はぁい」
ごまかせなかったか、と悪びれもせずに笑う彼女に、ヤッファはいよいよもってため息を深くした。
2011/05/19 : UP
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