緑の揺り籠

黒曜石の瞳

 優しい瞳をした人だと、思った。

 突然喚ばれた世界は私の日常とはかけ離れている上に、非日常という枠を飛び越えて非現実的な場所だった。
 豊かな自然に恵まれた島には四つの集落があり、それぞれを統括する護人たちとの話し合いの結果、私は獣と人を合わせたような亜人……ヤッファさんの集落に身を寄せることになった。
 普段はお互いに干渉しないとのことだったけれど、来たばかりで右も左も分からない私は特別に四つの集落を巡ることを許された。……と言えば聞こえはいいものの、要ははみ出しものの私が実際に集落を見て回らねばどこで暮らしたいかは変わってくるだろうという配慮からだったのだけれど。
 結局結論は変わらないまま、私はヤッファさんのいるユクレス村に身を寄せている。
 島のことも大体分かってきたし、不自由は感じない。いや、細かなところではあるけれど、みんな助けてくれるから、やっぱり心配はない。当初彼が懸念していたような……亜人や、完全に人と姿形が違う彼らと上手くコミュニケーションが取れるのか、まるで違う世界で生きてきたものが馴染めるのかという問題もあまりなくて、なんとかやっている。と、私は思っているのだけれど、もしかすると護人である彼には知らないところで迷惑をかけている、かもしれない。ただそうだとしても甘えるしかないのが現状で、だからこそあまり我が儘なことはしないように気をつけてはいる。
 余り悲観的な方ではなかったことも幸いしているのだろう。帰る手段はないと言われても、不安こそあれ、悲しくはなかった。ただ親不孝者ですみませんと、心のなかで謝った。
 たまに思いを馳せることはあれど、ユクレス村の自然に囲まれていると自分は小さな存在なんだなぁと思えて、思考を切ってしまうのだ。とくに集落の名を冠する、ユクレスと言う大樹が村の中央にどっしりと構えているのだけど、この樹がなかなかに壮観で圧倒される。はじめてみたときは涙が出たくらい心が震えたものだ。……ヤッファさんは心持ち慌てていたようだけど、本当に自然というものの生命力にあてられただけで、悲しかったわけではない。
 私がユクレス村にいたいと言うとヤッファさんは驚いて目を丸くしていたことを思い出して、ふと笑みがこぼれた。
 初めて会ったとき――私がはぐれに襲われかけたのを助けてくれたときから、私の心は決まっていたのだ。
 こちらに来てすぐに話し合いの場を設けたそこで、言葉を交わした四人の護人。そのなかで一番やる気がなさそうだけれど、というか実際にそうだったわけだけど、同時に一番優しい瞳をしているのに気づいてしまったから。

「ヤッファさん、助けてくださってありがとうございます」

 彼の庵で、静かにハンモックに揺られる彼にそっと呟く。
「……いつの話をしてんだ、お前は」
 目を閉じたまま、彼の呟きが返ってくる。
「だって、思い出しちゃったんですもの」
「……そうか」
「はい」
 もう一度感謝を伝えると、ハンモックから垂れたしなやかな彼の尻尾がぴくりと揺れた。

二人の想い

「尻尾を動かすのってどんな気分なんです?」
 戯れに彼女が尻尾にじゃれつこうとするのを適当にあしらいながら、ヤッファはハンモックに横たわったそのままの姿勢で少し考え込んだ。
「……そういわれても生まれてこの方これなもんで、口じゃ説明しにくいな」
 言いながら、一向に彼の尻尾を捕まえられない彼女をからかうように、尻尾の先で彼女の頬を撫でる。嬉しそうに尻尾にすり寄る彼女に、彼は目を細めた。
「尻尾にも感覚があるんでしょ? 指みたいなものです?」
「……ああ、まあ近いかもな」
 指というには細やかな作業などにはもちろん不向きだが、彼女のじゃれあいには最適で、彼はわずかに笑った。尻尾であればまず彼女を傷つけることもない。
「でも、やっぱり触ってもらうなら、手がいいですね」
 一瞬心のうちを読まれた気がして、ヤッファの尻尾が彼女の目の前で緩く止まる。それを逃さない彼女ではない。
 ごく自然な動きで、彼の尻尾を手で囲うように握る。けれど、決して強く捕まえるわけではない彼女の手からは、彼の尻尾はすぐにするりと抜け出した。
 代わりとばかりに伸ばした彼の手を、彼女は待ってましたとでも言いたげな顔で受け入れる。彼の手に自分の手を重ねて、まるで抱きしめるように。
 嬉しさ以外の感情が見いだせないそれに、彼は何とも言えない、緩い気持ちになった。
 亜人の中でも、彼は獣の特徴を強く受け継いでいる。耳や尻尾はもちろん、身体はしなやかな体毛で覆われているし、腕の長さや手の大きさは人間のそれをはるかに上回る。そしてそれは、外見に限ったことではない。
 彼の発揮する力は攻撃や召喚術など多岐にわたり、こと戦闘面においては、長年の経験や知識の豊富さも相まってかなり優れている。彼もそのことは十分承知していて、特に非力である彼女に対しては、配慮に配慮を重ねていた。
 彼女も、彼が彼女に触れるとき、その手が酷く優しいのを知っている。
 触れられて嬉しくなるのは、行為そのもののほかに、彼が彼女を大切に扱ってくれていると強く実感できるからだ。無言の優しさが、堪らなく彼女の心を温かくする。だから彼女はもっと彼にそうしてほしくなって、そのために自ら彼の側へ、その隣にいることを望むのだ。
 彼の手が、彼女を護る手だと知っているから。
「……へへ、あったかいです」
 へらり、と彼女の頬がだらしなく緩む。
「そりゃよかったな」
 それを受けて、彼も双眸を優しく細めた。尻尾が、彼女の足元でピクリと揺れた。

繋がるもの

 ヤッファさんは発作持ちらしい。
 レックスさんたちがヤッファさんを担いで庵に戻ってきてから、かれこれ数時間は経っている。明確に時間がわかるのはアルディラさんに時計を貰ったからなのだけど、今はそれについて語っている場合ではない。
「シマシマさん、まだだいぶ悪いみたいですねぇ」
 マルルゥがふわっと私の前までやって来て、眉をハの字にした。
「そっか。ありがとう、マルルゥ」
「にこにこさんも元気ないですか?」
「ヤッファさんがつらいと、私も辛いわね」
「……マルルゥもです」
「そうね」
 本当につらいのはなにもしてあげられることがない、ということなんだけれど、それはみんな同じだろう。せめて近くにいたいのに、彼はそれを頑なに拒んだ。
 彼が背負っているのは厳密には発作ではないらしくて、病気というわけではないらしい。だからリペアセンターで診てもらってもだめなんだそうだ。
 事情を知っているのだろうレックスさんからは詳しい話を聞くことはできなかったのだけど、召喚術が関係しているらしい。『らしい』ばかりで、よく分からない。ただ、私に詳しく説明したところで誰にもどうこうできないものなんだとは感じ取れた。
 それよりも大事なことは、私が彼の異変を全く知らなかったことだ。隠していたと言うから当然なのだけれど、流石に私よりも付き合いの短いはずのレックスさんたちの方が事情を知っているだなんてショックとしか言いようがない。
 私はここに来てからのかなりの時間を、彼のそばで過ごしてきた。
 もし、もしも、私がいるからと、彼が痛みや苦痛をひた隠しにしていたかと思うと、酷くやるせない。面倒くさがりだけど、彼は本当はたくさんのことを背負うだけの覚悟を持っているのだ。いつだってみんなの良い兄貴分で、口では面倒臭いと言いながらも、何度もその面倒臭いことと向き合ってきた。ポーズをとっている気はさらさらないのだろう。でも、彼のそんな姿に甘えてきたからこそ、こんな時くらい、なにかしたかった。
「マルルゥ、ヤッファさんのこと、看ててあげてね」
「……了解です。シマシマさんが良くなったら、一番にお知らせするですよ」
「ありがとう」
 再び彼の庵に戻っていくマルルゥを見ながら、胸が痛んだ。
 私は、そばにいないほうがいいのかもしれない。彼が同じように痛みを耐えなければならないなら、せめて私に気を使わなくていいように、痛みを耐えること、苦しむことに、集中できるように。私は彼を守ることもできないし、彼が背負うものを共有するに足りないのだろう。……マルルゥと違って。
 これといってやることも、やる気もなくなった私は、黙ってユクレス村から出ることにした。
 卑屈になるのは柄じゃない。でもそれを隠せる余裕もなかった。
 彼の側にいないことが、私にできる唯一のことだと言うのなら、それも悪くないと思った。



「よう、元気か」
「……ヤッファさん」
 薄暗くなり、星々が瞬き始めた頃、彼はやってきた。
「よく分かりましたね」
「ああ、随分探し回ったけどな」
 私がいたのは、カイルさん達海賊の船が止まっている場所の近くの浜辺だった。
「マルルゥが心配してたぜ」
「……それは、すみませんでした」
「あぶねえだろ? こんなところにずっと一人でいたのか」
 浜辺に座る私の真後ろに立ち、彼の大きな手が私の頭を包み込む。その暖かさに、酷く安心している自分がいた。
「……私、無理させてました?」
 咽喉が変に詰まって、上手く声が出なかった。胸の方からなにかがこみあげて、上手く言葉が出せない。
「いいや、俺が勝手に見栄張ってただけだ」
 彼の手は私を簡単に捉えて、引き寄せられる。抵抗はしなかった。
「初めは、護人が発作で弱ってるなんざ、ただでさえ知らねえ世界だってのに不安がるかと思ってよ……そんなカッコ悪い姿は見せられねえなってだけだったんだがな……」
 耳元で囁くような声がする。温かくて、腰に回る腕に手を添えた。
「だんだん、俺がへたっちまえば、お前がどんな顔をすんのか、って考えるようになってな」
「……心配するに決まってるじゃないですか」
「ああ。現にそうだしな。だから、それが見たくなかったんだよ」
 白状しちまった、と、ヤッファさんの声は私の心とは裏腹に穏やかそのものだ。
「見れば見るほどマルルゥと同じカオしてやがるぜ」
 くすりと笑みさえこぼして、彼は私の顔を覗き込んだ。私は居心地が悪くて、顔をそらす。
「ほら、こっち見ろ」
「……今はヤッファさんの見たくない顔してますから、嫌です」
 半ば意地のようにしてそう答えると、彼の空いているもう片方の手が、私の頬を優しく撫でた。
「笑ってくれよ……。苦しくても、お前の笑ってる顔を見てた方が気が楽だったんだからよ」
「……」
サツキ
 優しく、まるで愛をささやくような声色で、彼が私の名前を口にする。
 卑怯だ、と思うと同時に、もっと名前を呼んでほしくて、私はやっぱり意地のように彼から顔を、頭をそらしていた。彼も無理に向かせるつもりはないのか、反対から覗き込んだりはしてこない。
「……」
「ん?」
 声が上手く出せなくて、開きかけた口を閉じた。それでも彼には分かってしまったらしくて、続きを促される。私は彼を振り返って、しっかりと視界の中に彼を捉えた。大きな彼を見上げれば、その後ろには星が煌めいていて、海面が反射する月の光を受けて、彼の瞳が優しく光っていた。
「……いても、いいです、か? そばに、いても」
 そばに、いたい。彼の手が届くところに。
 溢れたのは声か言葉か、想いか、涙か。
「ああ。……俺からも、頼む」
 額をつき合わせて、私たちは静かに笑んだ。目を閉じると、彼の唇がまぶたに落ちた。

心配してるんだよ

「あー、ヤッファさん。ご足労お掛けします」
「……蓮池に落ちたって聞いたが」
「はい。スバルくんたちに教えてもらって、前から大きな蓮の上でお昼寝してたんですけど、今日は寝ぼけちゃって」
「ねーちゃん豪快に寝返りうって落っこっちゃうんだもんな!」
「びっくりしたよ……おねえちゃんは大丈夫だったけど、服が濡れちゃったから、ゲンジのおじいちゃんに服を借りたんだ」
 パナシェの説明を受け、ヤッファは胸を撫で下ろした。彼女が池に落ちたとスバルから聞いたときは最悪の結果もよぎったが、結果として杞憂に終わり、代わりに彼は盛大な疲労感に見舞われた。
「はぁ……ッ」
「どうもご心配お掛けして申し訳ありません」
「全くだぜ」
 取り乱した自分が気恥ずかしいのか、ヤッファはがりがりと頭をかいた。
 彼女はそんな彼の胸中を見透かしているのかいないのか、
「私が泳げるってご存じなかったです?」
 とキョトンとした顔で首をかしげた。
 今彼女らがいるのは風雷の郷、ゲンジの庵だ。
 彼女の着ていた衣服は今は物干し竿にかけられ、彼女はシルターンの着物を借り受けていた。ちなみに、既にゲンジからはこっぴどく叱られている。
「聞いてねえな」
「……それは」
 重ね重ね申し訳ありません。
 困ったように眉を下げつつ、彼女は笑みを絶やさない。けれど彼女が心苦しく思っているのだろうことは感じ取れたため、彼は彼女が座る縁側に、自らも腰を下ろした。
「全く、いい大人がだらしのない」
 家の奥から現れたゲンジに、ヤッファはもっと言ってやってくれと同意する。二人に挟まれ、彼女は肩身の狭そうに身をすくめた。それでも、体が冷えないようにと出された熱いお茶に飛びつくあたりは彼女らしいといえる。
「これからは気を付けます……」
「いや、まだまだお前さんは大人としての自覚が足りん。本来なら、お前さんが子供らを見守る立場なんじゃぞ? ……保護者付きでなければあの池には立ち入り禁止じゃ」
「えっ、そんな!」
「つべこべいうでない!」
 ゲンジの厳しい言葉に、彼女はそこで初めて笑顔を崩して狼狽した。
 救いを求めるようにヤッファへと視線を向けるが、
「ゲンジの爺さんの言う通りだな」
 擁護しようがない、と返され、わずかに唸り声をあげた。しかしそれもすぐに持ち直して、
「ヤッファさんが保護者になってくだされば解決ですよ」
 さも名案だ、とばかりに出された彼女の解決策に、ヤッファはわざと間を開けた。
「……なんだと?」
「ですから、」
「断る」
「まだ最後まで言ってません!」
 顔をしかめることも忘れて却下してくる彼に、彼女は子供のようにむくれるふりをした。それでも彼が折れることはない。
「お前の昼寝のために護人の俺をこっちに連れてこようってんだろ。ふざけるなよ、誰がそんなめんどくせえことするかよ」
 面倒という以前に、護人は集落を統括し保護するまとめ役である。その彼がそう頻繁に村を出ているというのはあまり好ましいことではない。長である以上、有事の際にすぐに動けるようにしておくべきである。
 普段昼寝のためにあちこちに出払っている彼が言えたものではないが、幸いにもだれもそのことには突っ込まなかった。
「酷い ヤッファさん酷い」
「文句垂れても無駄だ」
「……ううう、私の保護者って言ったらヤッファさんくらいしか……あ、じゃあレックスさんやカイルさんにお願いすれば!」
「あいつらに余計な手間かけさせるなよ。昼寝の場所を変えりゃいい話だろうが」
「あそこの蓮池に足を入れて寝るのが、冷たくていいんじゃないですか!」
 諦めないばかりか池の魅力について力説しだした彼女に、ついに庵の主の緒が切れた。
「やかましいッ ほれ、子供らはとっくに出ていったぞ。着物なら後日で構わんから、痴話喧嘩はよそでやらんか」
「ひゃ」
「な、ちわ……ッ!?」
 ヤッファが痴話喧嘩を訂正する間もなく、ゲンジはほれほれと彼女に大分水気のとれた服を手渡すと、二人を庵から追い出した。その際、彼女は湯呑みを返すのもわずれずに。
「……怒られちゃいました」
「とんだとばっちりだぜ」
「……えへ」
「ごまかすなよ」
 とにかく当分は池に近寄るのは禁止だぜ、と念を押した彼に、彼女はあからさまに肩を下げて、力なく返事をした。

いつか見た夢

 すうすうと彼女が胸に抱くそれから、規則正しい寝息がする。
 彼女は赤ん坊――愛しい愛しい、彼と彼女の愛息子である――を見下ろして、溶けるような笑みを浮かべた。
「あは、かわいいなぁ」
 ふわふわの頬を指で撫でながら構う姿は、間違いなく母親のそれである。
「かあさん、あたしは?」
「勿論かわいいわよ」
 彼女の背から現れたのはやはり愛しい彼女たちの愛娘。まだ舌足らずながらも一端に親の愛情を受けようとする姿は気が強そうな顔も相まって尚愛らしいと彼女は思う。
 そして、子供たちにつきっきりな姿に面白くなさそうな態度を隠さないのがヤッファだった。
 娘を抱くと、彼女のとなりに胡坐をかく。
「……ったく、前まではお前が赤ん坊みてえだったのによ」
「あらあら、子供に嫉妬です?」
「……」
 否定するにはあまりにも彼の気持ちは見透かされていて、黙り込むしかない。
 そんな彼に彼女はくすりと笑みを。
「みんな大好きですけど、どきどきするのは、あなただけですよ」
 僅かに照れの入った声色と、はにかむ彼女。
「……そりゃ、」
 満更でもなくなった彼は、少しばかり直った機嫌の礼にと、そっと彼女の唇にキスを落とした。

2011/05/29 : UP

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