緑の揺り籠

ただ、口実がほしい

「えー……じゃあ、ヤッファさんたち亜人は、遠い昔に人間と動物が一緒になったのがはじめなんです?」
「ああ。今メイトルパには、もう純粋な人間はいなくなっちまったがな」
「へえ~……でも人間と動物の交尾ってなんだかエッチな感じがしますね」
「……そうか?」
 きゃあ、とでも言い出しそうな彼女に、最早突っ込む気すら失せている彼は疲れたように疑問を呈した。
「えー、だって人間と動物じゃ、やりかたとか違ってそうですし……」
 上機嫌の彼女に、なんでこんな話になったんだかと彼は内心でため息を。
 そもそもは島にまつわる話をレックスたちにしていたことが、人伝に彼女の耳に入ってしまったのが始まりだ。
「レックスさんやアティさんにはたくさんお話するのに、どうして私にはなにも教えてくださらないんです!?」
 彼女の世界とこの世界の成り立ちはかなり異なる。大まかなことについてはすでに彼女にも教えてはいるものの、詳しい話となると一から説明するのは大層骨がおれるのである。また島の暗い過去については勿論伏せるにしても、ただでさえものぐさな彼が、そんないかにも面倒そうなことに意欲的になるはずもなかった。
 そのことに対し、何か大事な話を隠されていると思った彼女は酷く憤慨して、彼のところにやってきたと言うわけだ。だが、やはりそれでも彼のやる気が上がるはずもなく、ついにしびれを切らした彼女が
「もういいです! レックスさんに聞きますから!」
 と癇癪を起こしたことで決着がついた。彼の敗北である。
「ばか、さらにあいつの手間増やしてどうすんだ」
「レックスさんは人がいいから快く受けてくれます」
「……はぁ……っ 分かった、ざっとでいいなら話してやっから、あいつのところへ行くのはやめてやれ」
 なぜよりによってアティではなくレックスの名前をだすのか。
 意図は感じ取れるものの、とにもかくにも、そんな彼女の機嫌をとるために始めたものであったから、結果としてこの現状も悪くないはずだった。
「動物って言ってもメイトルパの、だからな。俺たちみたいな言葉は話せなくても、大体なに言ってるかくらいは分かるやつも大勢いる」
「……だから惹かれあったんです?」
「そこまでは分からねえな」
 知識の広い彼でも昔に生きた者が何を思っていたかまでは知るよしもないのは当然だ。
 彼は彼女の頭に大きな手をのせると、柔らかな髪を梳くように撫でた。
「お前がそう思いたいのなら、それでいいんじゃねえか」
「……そうですね。じゃあ、そう思っておきます」
「ああ」
 上手いこと話がそれたな、と彼が思った瞬間、では次はリィンバウムについてですよ、と釘を刺すような彼女の声色に、彼は盛大にため息をついた。

あおりあおられ

 ラトリクスのリペアセンター。島の住人の治療を一手に引き受けるそこに、彼らはいた。
 治療室から少し離れた場所で、ラトリクスの護人であるアルディラは仁王立ちを。ユクレス村の護人ヤッファは、彼女から僅かに体を逸らすようにして彼女の鋭い視線を半分は受け流し、半分受け止めるように立ち、頭をかいた。彼の尻尾が落ち着きなく揺れているのはアルディラも確認しているが、今先行しているのは怒りと呆れである。
「……で? どうしてこうなっちゃったのかしら?」
「……いや、まあ、な」
「全く……体格も体力も、なにもかも違うんだから、あまり彼女に負担をかけないようにするのが、せめてもの優しさじゃない?」
 怒り半分のアルディラの声に彼は返す言葉もない。
「すまん」
「……あなたが反省してるのは十分わかってるわ。それに、私よりも厳しいのはクノンよ。覚悟しなさいね?」
「ああ、わかった」
「なら、奥に入っていいわよ」
 許可を貰い、彼は直ぐに冷えた床を蹴るようにして言われた場所へ向かう。その姿を見ながら、アルディラは僅か微笑むように息をついた。


 彼女の横たわるベッドへあと少しのところで、ヤッファは足を止めざるを得なくなった。眉をつり上げて、主と同じように立ちはだかる機械人形のクノンが、道を塞ぐようにして立っていたからである。
「……あいつの様子はどうだ」
 さもお話があります、とばかりのクノンの顔に、ヤッファは先手を打つことでそれを聞く意思があることを示してみせた。
「患者の容態はいたって健康ながら、申告通りの行為が原因とみられる腰痛と、下腹部からの出血があります。歯形の傷は見た目ほど問題はありませんが、彼女の皮膚はキメが細やかな分傷つきやすいため、噛みつくのは勧められたものではありません」
 普段は物静かなクノンだが、こと病人や怪我人が出れば話は全く別である。有無を言わせぬほどの威圧感でもって見上げられ、ヤッファは言葉に窮した。
「そもそも、異種族である貴方がたは性欲及び生殖活動においても違いがあることを承知しているのか甚だ疑問ですが、どう認識しているのですか?」
 固い口調ながら、ともすればアルディラよりも怒っているのではないかとさえ思える雰囲気に、ヤッファはきまり悪く言葉を紡ぐ。
「今までは気を付けてたんだがな……」
「昨晩はなにか普段と変わるに至る要因があったと? 必要であれば貴方も精密検査を……」
「ああ、いや、それには及ばねえよ。これからは今まで以上に気を付ける」
「私は、貴方がとても慎重に彼女に触れているのを何度も確認しています。 それは明確な『愛情』から来るものだと言えるので、その言葉を信用することにします。……ひとつ質問があるのですが」
「なんだ?」
「患者の状態は笑みを見せるには大きな痛みのはずですが、本人は『嬉しい、幸せ』と笑っておられるのです」
 何故かわかりません。
 いつもの静かな表情のなかに、傷つけられたはずなのにという憮然とした様子を残すクノンを見て、ヤッファは手で口元を覆う。幸いにも大きな彼の手はすっぽりと彼の隠したいものを隠しきった。
「それ、あいつにも聞いたのか?」
「はい」
「何て言ってた?」
「『愛の証だから』と。歩けないほどの痛みであるのは本人もわかっているはずなのに……」
 理解できません。だから知りたいのです。
 クノンはいたって真面目なのだが、彼は込み上げる笑みを押さえられなかった。
「そうか……悪いが当事者の俺の口からは、客観的には答えられねえな。スカーレルあたりなら教えてくれるんじゃねえか?」
「……そうですか。……引き止めてすみませんでした。では、病室へどうぞ」
 クノンはヤッファに道を開ける。彼は片手を挙げることで礼代わりとし、するりと音もなく彼女がいるはずのそこに体を滑り込ませた。
「……あ、やっぱりヤッファさんだ」
 部屋のなかにはまごうことなき彼女がいて、いつものように笑っている。朝起きたときは大分辛そうにしていたが、気持ちの面では調子が戻りつつあるのだろう。
 声がしたからいつ入ってくるのかわくわくしてました、と彼女は首だけを彼に向けている。体はまだ動かすには至らないようだ。
「随分悪いみてえだが」
 彼女の側に座り、ほほを撫でる。彼女は横になったまま、心地良さそうに目を細めた。
「気にしないでくださいね」
「……クノンから聞いたぞ。随分のろけてくれたらしいな?」
「クノンちゃんの質問に、答えただけですよ」
 にこにこと、彼女の表情は崩れるどころか、彼を目にしたことで生き生きとし始めているようだった。
「あは、ヤッファさん、まだまだ現役だって、暫くからかわれちゃいますね?」
「……やれやれだ」
 特にその手の話が好きそうな面々を頭のなかに思い描き、ヤッファは今から気が重くなった。クノンからの質問攻めを回避するためにスカーレルの名を出したのは、最終的には失敗だったかもしれない。
「私はすっごく嬉しかったですけど。ヤッファさん、いつも余裕そうなのに」
「昨日みてえなことにならねえように必死なんだがな」
 人の気も知らねえで、と彼は彼女を横目で見やる。その視線を受けても、彼女はくすくすと笑うばかりだ。
「確かに毎回はついていけないですけど……昨日みたいなのもスゴくゾクゾクしましたよ?」
「……言ったな?」
「だって……いっつもヤッファさん優しいから、あんな風にされるの初めてでしたし……」
 彼女の頬が赤く染まる。その様子につられる彼ではなく、ため息を一つこぼした。
「変態か」
「あー、そういうこと言います?」
「痛めつけられて喜ぶなんざ、ほかにどう言えってんだ」
「だって、余裕がなくなるくらい、私に欲情してくれたってことでしょ?」
 率直な彼女の物言いに、彼は僅かにたじろいだ。
「……ああ、もう、あんまりからかうんじゃねえ」
「私、いたって真面目ですけど」
「お前の真面目は腹いっぱいでもう食えねえよ」
 拗ねたように告げる彼に、彼女は幸せそうに目を細めるのだった。

面倒を見ると決めたからには

 体調不良と言うのは侮ってはいけない。ましてやそれを異世界の者が抱えてしまってはなおのことである。
「よう、調子は……ああ、起きるな起きるな」
 ヤッファが彼女の庵を訪ねると、いつもはとびきり嬉しそうに寄ってくる彼女は、ようやっと寝床で顔だけを彼に向けた。
「よくはなってねえみたいだな」
「すみませ……」
 痰が絡み、彼女は彼から顔をそらして、辛そうな咳払いを。
 彼女が体調を崩したのは昨日のことだ。名も無き世界からやって来た彼女が彼の集落で暮らしはじめてからまだ一ヶ月ほどと日が浅い。
 当初慣れない場所での生活に体が先にストレスを訴えたのだろうと考えていた彼は、彼女の咳を聞いて考えを改めた。
「フバース特製の薬も効き目なし、か」
 彼の言葉に、彼女は力無く笑う。
「折角苦いの我慢したのに、残念です」
「今の身体の具合はどうだ?」
 彼の平熱と彼女のそれは異なる。ましてや亜人である彼と平凡な人間である彼女ではお互いの常識は通用しないのが普通だ。
 けれど、この世界に召喚されて久しい彼は、幸いにも人間についての知識もある程度は持ち合わせていた。
 そっと大きな手で、彼女の小さな額を覆う。こんなまどろっこしいことをするよりも、熱を測るためには抱き締めた方が早そうだと思ってしまうのは、日頃なにかと彼に触れたがる彼女にすっかり染められてしまっているからか。
「……少し熱っぽいか?」
「自分じゃ分からないです……熱より、喉がなんだか、多分腫れてるんじゃないかと」
 言われ、彼はその手を喉へと移した。細い喉に、加減を間違えぬようにと注意しながら触診する。
「……そうみてえだな。扁桃炎になってなけりゃいいが……息がし辛えなら、塗り薬でも塗るか」
 鼻のほうにも来ているのか、ひどい鼻声の彼女にそう提案すると、彼女はことさらに狼狽して見せた。
「え、あ、でも」
 珍しいその様子に彼は首をかしげたが、喉に塗るんですか、と訊ねる彼女の頬に赤みが指したのをみて、その理由を悟った。塗り薬を必要な場所へ塗るには、少しばかり彼女の衣服を肌蹴させなければならない。
「喉より鎖骨辺りかそのしたの方が楽になると思うがな……心配しなくても、なにもしやしねえよ」
 彼女が懸念するほど彼は飢えてはいない。そう告げると、彼女はそうではなく、と少し困った顔で口元に笑みを浮かべた。
「恥ずかしいです」
「……お前な」
 彼女の言葉に、彼は一気に案じる気持ちが萎えていくのを感じた。
「お前は恥じらう方向を間違えてる」
「ヤッファさんが乙女心を分かってないだけです」
 わかりたくもねえ。
 彼はそう口にする代わりに、盛大なため息をついた。
「馬鹿なこと言ってねえで、早いとこアルディラんとこ行った方が良さそうだな」
「あい」
 普段は干渉しない、無断で互いの集落に立ち入らないことになっているのだが、彼女が絡めば話は別である。護人である彼は他の集落の護人はもちろん、他の者と比べれば顔も利く。しかも今から彼が向かうのは機械仕掛けで動くものたちの集落、ラトリクスである。変に敵対されることもないだろう。会話ができるのはその中でも二名だけである。
「ついでに頭の方も診てもらえや」
「ひどい」
 時折咳払いをするものの、上手く出来ずに何度も喉を気にかける彼女だが、まだ軽口を叩ける分、精神的には体ほど悪くはないようだ。
 彼は掛け布団ごとまとめて彼女を抱き上げると、しなやかさを遺憾なく発揮して庵から飛び降りた。それがいつにない急ぎ足だと気付くのは少し後。鋭い観察眼を持った融機人と、機械人形だけである。

穏やかな気持ち

「あ! にこにこさん、いいもの持ってるです!」
 可愛らしい声が聞こえて彼女がそちらを振り返ると、やはり可愛らしい花の妖精が満面の笑みを浮かべ彼女へ向かって飛んでくるところだった。
 さらに遠くにはなにやら護人が片手で顔を覆っている。正反対の反応に彼女はきょとんとしながらも、妖精を前にして口を開いた。
「あらマルルゥ……いいものって、これ?」
「はいです」
 彼女が見せたのは、可愛らしい櫛だった。
「ミスミさまからいただいたのよ。おなごはなにかと要り用じゃからの、って」
「あや、お姫さまさんからのプレゼントですか」
 マルルゥは彼女の言葉を聞いて残念そうに眉を下げた。彼女が訳を聞くと、マルルゥが口を開くより先にやってきたヤッファの両手が彼女をつつんでしまう。
「んきゃ」
「いや、こっちの話だ。気にすんな」
「そう言われると気になりますし、私はマルルゥに聞いたんですよ、ヤッファさん?」
 たしなめるような彼女の声に、ヤッファは面倒くさいことになったと眉を寄せた。彼女に言われ、渋々ながらマルルゥをつかんでいた手を離す。
「今からしましまさんの毛繕いをしようと思ったので、にこにこさんも櫛を持ってたから、一緒にどうですかってお誘いしようと思ったんですけど……お姫さまさんはにこにこさんにってプレゼントしたんですから、にこにこさんが使わないとダメですねえ」
「毛繕い……」
 マルルゥの言葉の中でも彼が思った通りの部分に彼女が反応を示す。彼女は呟きながら彼の頭の先から足の爪先まで視線を往復すると、にんまりと、彼にとっては面倒くさい笑顔を浮かべた。
 だから嫌だったんだ、と彼は思うが、もはや手遅れである。
「私がもらったものだから、大切にすればどう使ってもいいと思うわ。だから私も毛繕いの仕方、教えて欲しいな?」
「ホントですか! よかったですね、しましまさん♪」
「全くだな」
 彼が言わんとするところを汲んでくれるものはこの場にはいない。いや、一人は気づいているが、わざと拾わないのだ。
「毛繕いって、全身するの?」
「そんなわけあるかよ」
 まさかやりたいのか、と彼は冗談目かして続けようとして、それを寸でのところで飲み込んだ。彼女ならわざと真に受けて、嬉々としてやりかねない。
「この、立派なたてがみを綺麗にするですよ」
「……髪の毛だけ?」
「どこをやろうとしてんだ」
 やっぱりか、と言うのは胸中だけにして、彼はやかましいのが増えたと思わず溢したのだった。


 三人は場所を花園まで移すと、彼女らはさっそく彼を真ん中にして座らせた。
「じゃあこのバンダナとってもいいです?」
「おー……もう好きにしろや……」
 もとより抵抗する気もないものの、彼ははしゃぐ女性二人に囲まれ白旗をあげた。
 鮮やかなバンダナを外され、彼の素顔があらわになる。
「あら、ヤッファさんてバンダナ取ると強面ですねえ」
 野性味が増してます、と褒めているのか図りかねるその声と言葉に、彼はじろりと彼女を見上げた。それをなだめるように、彼の表情筋をほぐすように、ゆっくりと彼女の細い指が彼の顔を這う。丁寧なそれに、彼は黙って目を伏せた。
「ヤッファさんの髪って、他の場所と違って少し硬いんですね」
「そうです。しましまさんのたてがみは、ちゃんと手入れをしたら立派なんですよ」
「そうね。護人としての威厳も保たれそうよね」
 だからちゃんと手入れをしろと前後から小言を言われ、彼の尻尾がゆれた。
 気恥ずかしくもあるものの、こうして堂々とゆっくりできるのは彼にとっては喜ばしいものである。この、妙な圧迫感さえなければ。
「じゃあ始めるですよ?」
 マルルゥの小ささでは彼の髪を梳くのは時間がかかるのだが、今日は彼女がいるから早く終わるだろう。
 そう思いながら彼は頷いた。
 マルルゥは後ろから。彼女は前から。丁寧に二人の櫛が彼の髪を整えていく。
「……ヤッファさん」
「あー?」
「ちょっと、私の方に頭をもたれさせてください」
「……は?」
 彼女の言葉を受けて、彼はにわかに固まった。彼女に応えること自体は嫌でもなんでもないのだが、いかんせん、今の状態で彼女にもたれようとすると、丁度彼の頭は彼女の胸に当たりそうだ。
 そんなことで盛るほど若くもねえが、と彼は誰にいうでもなく胸中で前置きをして、
「いいのかよ」
「いいんです」
 考え直せと彼女に促そうとして、見事失敗した。
 そうこうしているうちに、痺れを切らした彼女は彼の頭を引き寄せてしまう。
「折角だし、頭皮も揉みましょうね」
 心なしか弾んでいる声に、彼はもう何も言わなかった。ただ黙って彼女の指先が彼を揉みほぐす心地よさに、意識を奪われていた。


「しましまさん、寝ちゃいました……」
「疲れてたんじゃない? このまま寝かせてあげましょ」
 髪の手入れも終え、彼女の胸に抱かれていた彼の頭は、今は彼女の膝の上にあった。
「にこにこさんが動けないですよ?」
「いいわよ。今日はなにもすることないし」
 マルルゥも寝る? と彼女が訊ねると、
 マルルゥは首を横に振った。
「マルルゥ、疲れてないですから」
「そう?」
 多分彼もそこまで疲れてた訳じゃないかもしれないけど、と言うのは黙っておく。
 そのまま、子供たちと遊びにいくと言って飛んでいく小さな妖精を見送って、彼女は彼を見下ろした。
「……」
 黙って微笑みながら、彼の頬を愛おしそうに撫でる。
 彼女の膝に広がる彼の黒髪は、手入れの後もあって艶やかで芯が強く、彼がそう振る舞うほど、年を重ねているようには見えない。それがマルルゥが『立派なたてがみ』という理由でもあるのだろう。また、彼が持つ包容力や貫禄はそうそう容易く得られるものでもない。
 護人が見た目よりも長い時を生きているのだということは以前に聞いてはいたものの、彼女は改めてそのことを思い出す。
 お疲れ様です、と言う言葉は彼女の内側で響いて、静寂の中に溶けた。

その夜

 なにがどうして、人生というものはわからねえな、と彼は息をついた。

 見た目より長い時を過ごしてきた彼は、自分よりも若い――幼いといった方が適切な気がするのは彼だけではないだろう――彼女を腕に抱いて、月明かりに照らされたその顔を見つめる。
 初めは、応えるつもりはなかった。
 見た目にも分かりやすい彼女の好意を感じないはずはなく、けれど彼はあえて自分から気持ちを返すことはなかった。護人として必要なことは彼女にしてきたものの、それ以上は踏み込まないようにして。
 彼女も彼の態度が何を意味しているのかは気づいていたのだろう、彼女もまた、彼が何かしら気持ちを返さねばならない状況まで深入りしてくることもなく、居心地がいい関係を続けてきた。
 あからさまな好意を向けられて悪い気はしない。
 それでも彼女の想いの先が変われば、それに越したことはないと彼は考えていた。
 それが違うと思ったのが、つい先程のことである。
 彼女の想い人が変わるにせよ、居住区を移すにせよ構わないと、思っていた。彼女が、幸せに笑うなら。
 未だに誓約に苦しんでいることが彼女に知られるに至り、あきれるか心配するかとは彼も予想していたものの、まさか姿を眩ましてしまうとは思いもしなかったのだ。
 誓約による苦痛から幾分か回復したのち、彼女を呼びにいったマルルゥが眉を下げて彼女の不在を告げたのはまだ日もくれる前のこと。暫くすれば帰ってくるだろうと考えていた彼だったが、日が落ちても一向に帰ってこない彼女に呆れた彼は、四つの集落を回ってみたものの、彼女の姿を見るどころか、誰も彼女の所在を知らなかったのだ。
 それは海賊船の乗組員とて同じことで、その時になって初めて彼は焦りを感じ始めた。

 まさか集落に属さず、悪さを働く召喚獣たちに襲われているのでは。

 最悪の結果を真っ先に挙げてしまったのはなぜだったのか。
 護人としてだけでは言い切れない何かが、彼の中には根付いていたのだ。それを引き抜くには痛みすら伴うほどに。
 危険だから近寄るなと教えた場所には居ないだろうとどこか冷静に考えながら、彼は島中を駆け回り、そうして彼女の小さな背中を見つけたとき、彼の心はえもいわれぬ安堵で満たされた。
 カッコ悪ぃったらねえよな。
 彼は彼の腕の中で静かに眠る彼女に触れる。
 いつもぎりぎりになって醜態を晒す羽目になる。ここ最近ずっとそうだった。
 それでも彼女は側にいたいと言ってくれた。彼もそれに、初めて応えた。
 ただそれだけで満たされて、確たるものを欲していた彼女の期待にまで応じられなかった有り様であった。
 大体彼が色恋沙汰に触れること自体、この島に来て以来なかったのではないかと彼は物思いに更ける。

 そりゃ、勘も鈍るわな。

 ただでさえ種族を異にする二人である。彼の性質をして、知らないうちに自らの気持ちを抑圧していても可笑しくはない。
 亜人など存在しない世界で暮らしていた彼女の方が、あっさりと種族の壁を飛び越えていることの方がにわかに信じられないことなのだ。
 楽天家というよりは、胆が据わっているのだろう。
 敵わねえなあ、と彼が口元に笑みを浮かべると、不意に彼女が目を開けた。
「起こしたか?」
「いえ……ヤッファさん、もしかしてまだ苦しいんです?」
「いんや。ちいとばかし考え事をな」
 自分に向けられた声も、感情も、表情も、全てが愛おしいと彼は心を震わせる。
 いつの間に骨抜きにされていたのか、彼にはもう分からない。
 ただ、彼女が与えた甘い痛みは彼の心を深く刺し、体の隅々に響いて止まない。
「我慢はダメですからね?」
「わかってるさ……。いいから寝な? 起きるにゃまだ早い」
 彼が優しく彼女の頬を撫でると、彼女は心地良さそうに笑って、再び目を閉じた。
 見たいものが叶った彼も、同じように。彼の心はこれ以上ないほど穏やかだった。

2011/06/08 : UP

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