NO YOU, NO LIFE.
(1)
間延びしたチャイムが紅葉に色づき始めた山間に鳴り響く。恙無く土曜最後の授業を終えた生徒たちは思い思いに口を開き、これからの時間をどう過ごすかを楽しげに話しながら、足を動かして散っていく。その喧騒の中、薬研藤四郎は手早く支度を整えていた。「薬研! 今日も外か?」
「おう。外泊許可ももう取ったしな」
話しかけてきた厚藤四郎に僅かの間視線を向け、薬研は再び教科書とノートを鞄へしまい込んでいく。つれなくも思えるその涼しげな態度に、厚は拗ねた素振りで薬研を睨め付けた。
「お熱いこって」
「まあな」
「祝ってねえよ。……いつからだったっけ?」
呆れかえる厚に、薬研は鞄を背負いながら答える。
「桜が丁度見ごろだったから……四月の中頃だな。今日はあっちから連絡があった。これから一緒に昼飯食って、そのまま泊まり」
「もう半年か……ま、お前、いっつも気にしてたもんな。順調そうで結構結構」
「ありがとな」
祝福の言葉を受け、薬研は微笑でもって感謝を返した。
この薬研藤四郎がたった一人のためにこの世に生を受けたことを知っているのは、この学校に籍を置いている者であれば皆知っている。薬研もまた、他の生徒の事情を薄く知る様に。
「で?」
「ん?」
「しらばっくれるなよ。どう知り合ったんだ?」
「……」
厚の言葉に、薬研は口ごもった。手を止め、少し考える風に沈黙を敷く。それから、何事か思い出したのかくすりと笑った。
「ま、そのうちな」
「あー、ずりぃぞ」
「拗ねても言わん」
軽口を叩きながらも産まれてきた甲斐があったと笑う薬研の顔はいつになく満たされており、厚は珍しく破顔する薬研の背を軽く押しやって、教室から送り出した。
教室を出た薬研は一度寮の自室へ戻り、改めて外出の支度にかかった。制服の学ランを脱ぎ、予め準備しておいた私服へ着替える。流行には疎いこともあって部屋着はTシャツに短パンで済ませているが、流石に外出着となるとそうはいかない。横に並んだ時にあまりにも子ども過ぎるのでは自分が面白くない。そんな風に考えながら、灰シャツに黒のスラックスを選んだ。普段は身につけないネクタイを締め、小さなタイピンで留める。Y型のサスペンダーを付けた後白のカーディガンを羽織り、スラックスの裾を軽く折ると黒のソックスが現れる。
荷物はさほど大きくはならない。一泊二日であることに加え、泊まり先で洗濯を済ませられるため、持っていくのはそれこそラフな部屋着と、来週までに終わらせなければならない課題、眼鏡くらいのものだ。既に外泊するのは一度や二度ではないため、細々としたものはあちらに置いてある。
それらを手頃な鞄に詰め、薬研は外羽式のプレーントゥに足を突っ込むと、寮監に挨拶を済ませて昼のバスに飛び乗った。山深い場所にひっそりと佇む学び舎と街を繋ぐ大切な交通手段だが、限られた本数の上事前に外出許可証が無ければ乗ることさえ出来ない。ちらほらと見知った顔が見えるバスの中で、薬研は後ろから二番目の一人掛けの椅子に腰を下ろした。
残暑の色濃く残る秋も中頃を過ぎ、過ごしやすくなってきた10月。中間テストも終わり、期末までにはまだ時間もある。今が最も気が緩む時期だ。くすくすと楽しげな笑い声と会話が聞こえるのを微笑ましい気持ちになりながら聞き流し、薬研は流れる景色へ目を向けた。こんなにも弾んだ気持ちになるのはいつになっても変わらない。
胸を張って幸福だと言える今を、誰に感謝すればいいのか薬研は知らなかった。
薬研藤四郎は人間である。人の身体を持ち生まれてきた。そして、薬研藤四郎を名乗るに足る者であると認められた、10人目の『薬研藤四郎』である。
2205年に端を発する歴史修正主義者とそれを阻止する時の政府の戦いにより、霊的な事象と科学技術は極めて高いレベルでの融合に成功した。刀剣の付喪神を使役する職業が審神者と呼ばれ、一世を風靡した。二十年ほど経った今尚人気の職業であることは間違いない。一時は適正ある者は全て審神者としての修練を積むことが課されたこともあったという。
薬研藤四郎とは本来、短刀の名である。かの戦いに参戦する刀剣――人の姿を持ったそれらを刀剣男士と呼ぶのだが――として、戦場に身を置き、血に塗れる日々を送っていたはずであった。付喪神である薬研藤四郎は本来、転生するような存在ではない。そも、刀剣男士として御されるようになった時点で本体は歴史から失われており、殆ど人々の記憶によって形作られていたと言っても過言ではないのだ。忘却と言う死はこのようにして人間になった今でも尚『薬研藤四郎』の元には訪れていない。
ではなぜ、薬研藤四郎は人間として存在しているのか。
その疑問に正確な答えを返すことは今のところ不可能である。
一つには政府の実験がある。審神者と言う式神を操る資質がなくとも刀剣男士を召喚することは出来ないかと、秘密裏に行われた人体実験だ。まずは刀剣男士の霊力――またはカムイ(※万物に宿るとされる霊的知性体のことである)を捕らえることから始まったそれは、最終的に人の卵へ、あるいは赤子へと封じられた。結果として安定性に欠け、一人として刀剣男士として完成しなかったこの方法は打ち切られたが、この時大なり小なり神性を宿した人間が数多く生まれ、神職の元へ引き取られて行った。
神性の小さな者は付喪神としての記憶は殆どなく、姿もそれぞれ多様で人間としての生を全うするが、大きな者はそうはいかなかった。刀剣男士として姿を持った記憶のあるものばかりが、その神性に影響されてか、同じ名を冠する刀剣は全て同じ顔立ちと色を持つこととなった。ただ違うのは、それぞれが過ごした審神者との、あるいは審神者の拠点となる本丸での記憶だ。
人間でありながら刀剣男士であったころの感覚や記憶を鮮明に覚えていた彼らは一所に集められ、山奥に隔離された。最も神性を強く残し、ほぼ刀剣男士であった頃のような容姿と記憶を持つクラスを特、その次が甲、そして乙、最後に、容姿に刀剣男士であった名残が残るが、記憶は薄いという丙。元々の刀剣を名乗れるのは特クラスのみで、他のクラスは人としての名を名乗っていくことになっていた。それぞれ生まれた年ごとに振り分けられてはいるが、大体一クラス10人前後となっており、人の世に馴染むため、人として生きていくために必要な座学や、協調性、社会性を学ぶために日々を過ごしている。
お互いに刀剣男士であった頃の記憶があるためそれなりに通じやすいだけでなく、互いにそのような前提があるため大きな摩擦は起こらないだろうということ。他の人間と物理的に距離を置くことで、価値観の相違から予想されるコミュニケーション摩擦や白眼視されることを避け、また自然の中で過ごすことにより神性に良い影響を与えるということが表向きの理由だが、勿論それだけでないことは彼らはよくよく分かっていた。
薬研藤四郎を含め、シェルター代わりにもなっている学び舎で彼らが大人しく過ごしているのには訳がある。それは、かつてかれらのカムイが刀剣男士としてあった頃の『未練』。主であった審神者への執着だ。戦に敗れ、あるいは寿命で、病で、事故で。死んでいった審神者の後を、それぞれの形で追いかけた者たちの成れの果て。それが人間としての彼らであった。
既に先に生まれた神性持ちの者は、転生したであろう審神者を求めて生を歩んでいる。審神者は人であった。そのため、審神者であったことを覚えたままに再び生を受けることはない。そんな審神者の転生後の魂を見つけた者も居れば未だ探す者もいるという。しかし、転生した魂を見つけた彼らは概ね、刀剣男士として発揮した戦以外の個性を輝かせて一線で活躍することになるようだ。伝聞になってしまうのは、学び舎で教鞭をとる、一線を退いた元審神者の話でしか耳にしたことがないためだ。
生まれながらにして前世の業を背負う存在。特に齢14にして転生後の審神者と巡り会うことのできた21期生・特クラスの薬研藤四郎の巡り会わせの良さは、神性の強さがなせるものなのかもしれないと思われた。
神性が強ければ強いほど未練に引きずられ人の生を歩むことになる彼らを憐れむ者もいないではないが、しかし、過去も未来も、そして今も尚どことも知れぬ場所で戦い続ける審神者のことも、この10番目の薬研藤四郎にとっては関係のないことだ。何故なら、薬研藤四郎にとって物事はいつもシンプルであり、彼にとっての唯一はもう見つかっているからである。
(どうやって大将を見つけて知り合ったか、か……。厚の奴には、本当のところは言えそうにねえな)
刻一刻と迫る約束の時間。最寄り駅のターミナルで待ち合わせているため、バスの到着より早く着いているであろう相手に出迎えて貰うことになる。相手からしてみればまだ薬研は子どもなのだ。それがかつては味わうことの無かった感覚でなんとも面映ゆい。なにもかもが『大将』であった頃とは異なるが、心の奥深くで繋がっていた感覚が呼び起されるのはたった一人、その人だけなのだ。求め続けた飢えにも似た感覚が癒やされるのは。
出会った時の心揺さぶられるような衝撃は今でも色褪せることは無い。同時に思い出されるその時の遣り取りを思い出し、薬研は密かに笑みを漏らした。
******
桜のけぶる日のことだった。一人街へ降りるようになり、一年経った頃だ。
「あ、ねえ君……ご、五万でどうかな」
薬研藤四郎は飢えていた。刀剣男士であった頃、襲撃を受け審神者の首を取られ、敵討ちの後消失した本丸の出身だ。審神者への情が未練となり、それを人間に捕まえられたようにして転生を果たしたのだから、飢餓を覚えるのはなにもおかしなことではない。生まれてからずっと目にしてきた人という人、山奥に立ち入る元審神者の教員や物資を運んでくる業者、限られた人の出入りがある場所全てを探し回っても探す存在を見つけられず、その目が、足が外へ向かうのは寧ろ必然であった。13歳になり、それまでは引率と共に社会見学と言う名の授業の一環でしか街へ降りることは許されていなかったのが許可さえ出れば一人外出することが解禁され、薬研は出来る限り様々なところへ足をのばした。日暮れには帰宅しなければならず、限られた時間の中では駅や商業施設など、最寄りの街よりもずっと外から人がやってくる場所を狙うくらいでしか足掻くことは出来なかったが、出歩ける時間そのものや時間帯が偏るためか、成果は芳しくなかった。
よって、焦れながらも待ち合わせ人の多い駅周辺でその日も時間を潰すようにして人垣を眺めていたのだ。支給品である携帯端末を弄りながら、数値化された己の体調を意味もなく確認してみたり、シェルターに籍を置く者のみがアクセスできるウェブサイトの掲示板を覗いたりしてみたが、有益な情報があるはずもなく、それどころかメールの履歴の名前に厄介な保護者を思い出して気落ちするばかりであった。
小言めいたメッセージを寄越してくる同じ特クラスの一期一振――刀であった頃は兄弟刀であり、長男として振舞うことが多かった刀剣男士なのだが、かつてはそうであっても今は『血の繋がり』などはない、赤の他人の兄貴分というものだ――の文言。その日も朝からそれとなく窘められたばかりであったのだ。
「薬研、気持ちは分かるが、そんな風に焦ってばかりでは心にも身体にもよくない。……今はもっと多くのことを学ぶため時間を使うべきじゃないかな? ここで培ったことが後々、お前の助けに」
「そうは言うがな」
元刀剣男子たちには触れるには細心の注意を払わねばならない、心の、カムイの柔らかい部分がある。薬研にとってそれは審神者に関することであった。
「あの人以外に優先するもんなんてあるかよ。それに……兄貴面してくれてるところ悪いが、今の俺達は刀だった頃の名残こそあるが縁も所縁もない人間同士だ。増してや、同じ本丸に居たわけでもない。……それにあんただって済ました顔しちゃいるが気が気じゃねえはずだろ。人の心配するより自分のこと考えた方がいいんじゃないのか?」
熱くなった身体、突き上げるような衝動のままに言い返してしまった直後、薬研は言いようのない後悔に見舞われた。歳の頃のさほど変わらない一期一振が眉を顰め、傷ついたような、しかし怒気が爆ぜるのを堪えるような表情をしたことで薬研の頭は急速に冷えていった。前世の業を持ち生まれたのだ。前世からの繋がりを抱えているというのに、刀剣同士の繋がりを否定することは自分の存在も審神者との繋がりも否定することに繋がる矛盾した言動だ。
結局意地を張ってしまい、その場に二人の間に立つような者も居なかったためそのままになってしまっていた。
時間を置いたことで幾分か落ち着いたが、人になってから度々視野が狭くなり、突発的な感情に引きずられがちであることを薬研は密かに気にしていた。これでは本当に子どもではないかと、まだ見ぬ審神者を思い、この有様ではいけないと焦りにも似た気持ちが胸を炙る。
刀であった頃は寸とも思わなかった「早く大人になりたい」などと言う願いが頭によぎった、その直後のことであった。
「……は?」
突然かけられた若い男の声に薬研が目を剥けると、そこにはスーツでこそないが、社会人であろう年頃の男がいた。髪は明るく短いが、穏やかな眉の太さと下がり具合が人相をよく見せている。眼もややたれ目で、目鼻立ちは華やかではないが、見苦しくもない。気性も含め、凡庸さの滲むような男であった。
(――あ)
何もかもが初めて見る情報の中、薬研は胸が温かくなるのを感じた。懐かしい、自然と頬が綻ぶような魂の束縛。カムイが覚えている、主従の式。霊力の波。
胸とも頭ともつかない場所から一気にあふれ出した情報が内側から肌を撫でているような感覚に見舞われ、薬研は足のつま先から頭皮まで、肌がぶわりと粟立った。
「え、っと、これ、君だよね?」
呆ける薬研の前に、男は端末を見せた。そこには確かに、極めて薬研によく似た顔が載っており、……そして、身体を慰めてはくれないかと言う誘い文句が添えられていた。
覚えがないわけではない。前世の未練は心の空洞だ。虚しさ、切なさ、焦り、飢え。胸の中に澱むそれらを一時でも忘れようと、淫行に走る神性持ちは多少は居る。今回、それがたまたま『薬研藤四郎』であったのだろう。ただし、性別は女になっているが。
駅のターミナルは人の出入りが激しく、こういった待ち合わせ場所には最適だ。男の服装が学生に見えなくもないほど軽装であるのは無論、こういった性交渉には金銭のやり取りが伴うことが常であり、犯罪だからである。春を売る方は兎も角、買う方は金を出すことで幾らか罪悪感から逃れることができるなどという言い分をどこかで聞いたことがあった。
神性の強さからか、薬研はこういったことは人同士が納得づくなら何も言うことは無いと思っていた。かと言って大して興味もなかったが、なかなかどうして、世間とは広いようで狭いのではないだろうか。今までの焦燥はなんであったのかと呆れたくなるほどに呆気なく、求めていた人が目の前に現れるとは。
「あの……?」
「あ、っと、悪い。こりゃ確かに俺に似てるが、あんた、担がれたんじゃないか?」
「え」
薬研の声が明らかに変声期を終えた男のものだったことに引きつった男の顔に苦笑しながらも、薬研はこの機会を逃すつもりなど毛頭なかった。
「俺は薬研藤四郎。こんな形だが男だぜ」
少女と思われていたらしいことには驚きだが、収穫としてはこれ以上ないまでに極上である。不満や反発があろうはずもない。男の端末を見せびらかすように振り、やや強引に逃げ道を塞いだ。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だろ。どっか入って飯食おうや」
その時の、まるで逮捕でもされたかのような男の顔は、いつ思い出しても愉快なものであった。
薬研が刀剣男士であった頃の記憶は、実は然程鮮明ではない。審神者の人柄は勿論、年齢、性別さえもあやふやである。しかし、己がその審神者に深く情を、愛情と呼ぶものを抱いていたことははっきりと覚えていた。その種類が恋慕の類であったことに気づいたのは審神者が討死してからのことで、敵討ちを終え、奪われた首を取り戻した後、本丸が消失するまでのわずかな間に薬研の未練は膨れ上がった。そのせいだろうか、思い起こすことはその時間のことばかりである。
深手を負ったまま審神者の首を抱きながら、やり直しでもなく、後悔でもなく、転生の輪へ向かい再び生を得る審神者の後を追いかけることができたならと願った。つまりは、人になりたいと。そうして出会えたのなら、今度こそは育んだ思いと共に添い遂げたいのだと。
(――まさか叶うとは思っちゃいなかったが、叶っちまった上に更にこんなに早く大将に会えるとはもっと考えてなかったぜ)
適当な喫茶店に入り軽食を取りながら、薬研は四人掛けの席の対角線上に座り、緊張しながらコーヒーを飲む男を見遣った。恐らく予想もつかなかった事態と、これからどうなるのかという不安があるのだろう。その様子から人柄を察するのはさほど難しくはなかった。何をどうして買春未遂に走ったのかは知らないが、根は恐らく小心者で、俗に言うヘタレではないだろうか。少なくとも肝が据わっているようには思えない。
薬研に審神者に関する記憶はあまり残ってはいないが、それでも男の姿を捕らえ、その存在を認識すると今までの飢えが消え去り、じわじわと胸元から暖かな温度が広がっていくのを感じる。この人がそうなのだとカムイが騒ぎ立てる。それは冷え切った身体で湯船に浸かり、急速に体内循環がよくなって痒くなるような心地であった。
「……さて」
胸のむず痒さに頬が緩みそうになるのを堪えて食事の手を休めると、男の方は滑稽なほどに跳ねた。並々ならぬ罪悪感や後悔があるなら最初からしなければいいものを、と呆れてしまうが、今回ばかりは男の過ちに救われているのだから、薬研が掛けるべき言葉は窘めなどではない。しかし、それはそれとして会話の糸口は欲しかった。男は顔だけでなく身体を強張らせて薬研の出方を窺っており、自分から口を開くことがなかったのだ。男の端末を未だに薬研が握っているからかもしれないが。
「くっ……いや、悪い。あんた、そんなにビクつくくらいなら、なんで手出そうとしたんだ?」
思わず笑みで喉を詰まらせつつ、薬研は出来るだけ柔らかく気さくに聞こえるよう意識しながら訊ねた。ぼそり、と男が呟く。
「……元々、知り合いに誘われてた。そのサイト使えばまず捕まらないって言われて。断ってたんだけど、このところ仕事が立て込んで……良いなと思ってた子も別の奴とくっつくし」
男の言葉を受け、薬研は再び男の端末に表示されたきりの画面を呼び出した。捕まらないカラクリに心当たりがあったためである。
神性持ちは政府関係者により監視されている。いつ神性が能力として発言するかはまだ未知数である上、実験が行われた事実を未だに隠しているからだ。大体の元刀剣男子たちは望んで人になったため無暗にかき回すような真似はしていないが、神職に引き取られて行った神性の低い子どもも勿論、その神職達によって経過観察の報告を上げられていくと聞く。何が神性を揺さぶることに繋がるか分からないため、ある種の治外法権がまかり通っているのだ。そしてそれは性交渉についても同じことである。
案の定、他にも見知った顔――とは言え薬研のクラスメートではなく、年上の神性持ちだが――の写真を見つけ、薬研は息をついた。確かに、これだけ神性持ちが利用しているならば一般人を引かなければ捕まりはしないだろう。というか、もみ消されるというか。外見も良いし、男にも女にも需要はあるはずだ。
顔立ちが近しいと言うのはこういう時心臓に悪い。男とて見間違いもするだろう。サイトで相手を募集する文言を書いていた人物は、確かに薬研藤四郎のカムイを宿しているのだから。
立て続けに心が落ち込む事態に見舞われていたのだと語る男の話を聞き流しながら、あるいはこのような手段で審神者を探す方法もあったのだ感心していた薬研は、観念したようにため息をついた男の様子に視線を戻した。
「……もう、君の好きにしてくれ」
「おっと、いいのか? そんな簡単に言質取られるようなこと言っちまって」
「申し開きのしようもないだろう。君の心が少しでも慰められるなら、出来る限りのことはするつもりだ。それこそ、突き出されても仕方ない」
潔い言葉だが、男の顔色は頗る悪い。悪いことをしたというよりは、もういっそ然るべき場所に出て罪を償う場を与えられることで心の負荷を取り除きたいと言った風情だ。
「ん? 俺たちは飯食ってるだけのはずなんだがな」
「……それは、この食事代で手を打つということ……じゃ、ない、よね?」
圧倒的に主導権を握っている薬研に、男はおずおずと言葉の真意を掴もうとしてきた。薬研はそうだなあ、と思わせぶりに呟いて、
「五万」
掌を男に見せ、言い切った。
「え?」
「あんたは俺を見て五万出すと最初に言ったな。じゃ、その五万使い切るまで俺に付き合ってくれ」
目を瞬かせる男に薬研は畳みかけるようにそう続ける。
五万程度で終わらせるつもりは毛頭ないが、黙ったまま話を運んだところで、男は引け目を感じたままだろう。であるならば、最初に条件を明示しておき、後は二言の内容態度で示していくしかない。薬研は男にとって決して急所にはなりえないということを。
「人間関係でこんな風に金を使うのは感心しないぜ。だからあんたに金の使い方って奴を教えてやる。それに……俺の身体は五万程度じゃ預けられねえなあ」
軽く首を傾けて目を細めると、男の首から上に赤が走った。揶揄が通じたのかは分からないので、もうひと押ししておく。
「どうやら俺の顔はあんた好みらしいし。悪くない話だと思うが、どうだ?」
「もうやめて……分かった、分かったよ」
真っ赤な顔を両手で隠してしまった男をからかいながら、薬研はにんまりと笑った。性別が同じことなど、薬研にとっては些事にも満たない。ましてや男が薬研の姿を好ましく思うならこれ以上都合のよいことなどあるだろうか。
「ご指導ご鞭撻のほど……あ、いや、やっぱりお手柔らかにお願いします……」
「おう。ま、仲良くやろうや」
人として生まれて初めて、薬研は心の果てまで晴れやかな気持ちで破顔した。
食事の後自分の注文分は出すと薬研が申し出ると、男はまるで狐につままれたような顔をした後、慌てて首を横へ振った。
「いや、俺が出すよ。君に出してもらうなんて……大人としてどうかと思うし」
「気にすんなって。こんなんで五万崩されちゃ俺が惜しい。あんたとは色々やりたいことも行きたい場所もあるんだ」
「へ、へえ……頭の回転速いって言われない?」
「まあな」
何をさせられるのだろうかと戦々恐々としている男と共に会計を済ませ、店を出る。取り敢えず金のかからない場所、と考え、己に時間が無いことに気づく。仕方がないと未だ返していなかった男の端末を取り出し、目の前に突き付けた。
「悪い。言ったばかりでなんだが、今日は俺の方が時間がない」
「え、……っと、じゃあ、これは返してもらえる……?」
「ん」
そろそろと端末に手を伸ばす男から逃れるように手を動かし、男が悲痛そうな顔をするのを笑う。取り成すようにその手を空いた方の手で握り込み、ぶらぶらと揺らしながら、端末を操作した。自分の端末の情報を送り、登録を確認する。その後、改めて男に端末を握らせた。
「いつでも連絡くれよ。俺は薬研藤四郎。……あんたの名前、教えてくれ」
そう言えば審神者であった頃はその何もかもを知らなかった気がする。それでも、何も問題はなかった。目の前にいる審神者が全てだったからだ。けれど、今はそうではない。同じ人として、主従も何もなくただの一人と一人。大人と子どもと言う差はあるが、人であればいつかは大人になるのだ。
追いかけることができる幸福を噛み締め、薬研は笑った。
「待ってるぜ。あんたの誠意、見せてくれよな」
そして狼狽える男を残し、他の顔ぶれと共にシェルターからのバスに乗り込んだ。
意気揚々と帰ってきた薬研を出迎えたのは一期一振だった。透き通るような水色の髪が暮れはじめた日に照らされるのを見て、高揚していた気分が幾分か落ち着いてくる。
「……今帰ったぜ」
「ああ。おかえり。今日も無事でなによりだよ」
一期一振は落ち着いた男だ。癇癪を起こすことはまずないし、多少生真面目に過ぎるが、骨の髄まで優等生かと言えばそうでもない。この場にいる者は皆一人の魂を求めているのだからそれはそうだろう。クラスメートの一期一振の場合は女の審神者と好い仲であったようだ。そのような前世を背負いながらここにいるということは、未練が残る別れ方をしたのだろう。女の尻を追いかけて人になったと言うと聞こえは悪いかもしれないが、つまりはそう言うことなのだから欲望やそれに類するものがないわけではないのだ。少なくともそれを知る薬研にとっては、度々己の行動を制限しようとする一期一振こそ滑稽であるように見えた。
「朝のことだけど……栓無いことを言ってしまったね。すまない。謝りたかったんだ」
「いや、……俺も悪かった。あんたの言うことはもっともだ。尤もだから言い返しちまったんだろうが」
薬研は頭を掻いて気持ちを落ち着けた。その様子を見て、一期一振は微笑を浮かべて鷹揚に頷く。
「分かっているのなら私から言うことは何もないよ。しかし、くれぐれも気をつけるように」
「ああ。肝に銘じる」
神妙に頷き、じっと目を合わせる。三秒ほども経たず逸らせば、今日の夕餉は畑で採れた春野菜の天麩羅だよと一期一振が笑い、薬研を寮へ行くように促す。二人の進路が分かれた直後、薬研は彼を振り返った。
「一期一振」
呼び止めると、一期一振もまた薬研を振り返る。
「……今日は、本当に悪かった。けど、おかげさまで俺は見つけたぜ」
瞬間、一期一振は煌びやかな金色の目を見開いた。それからすぐに微笑を浮かべ、祝福の言葉を口にする。そして
「その謝罪が優越からでないなら、ありがとうと言うべきかな?」
瞬間、べっこう飴のようにとろりとした瞳の色が妖しく光を放った、ように見えた。少なくとも薬研には。
刹那の間薬研の頭から思考が弾け飛ぶ。呑まれたのだと再び頭が回り出す頃には、一期一振は普段の穏やかな笑みを浮かべて薬研を見ていた。
「……あんたなあ、」
「ふふ、ちょっと意地が悪かったかな? でも、これで御相子だ」
「ったく……いいさ。それで気が済むなら」
今日は既に似たような会話をしていることもあって、薬研は大きく息をつきながらも苦笑いをして、手を振って部屋へと足を向けた。
「私も、きっと見つけてみせるよ……私なりの方法で、だけどね」
背中にかけられた声をそのまま受け止める。見なくても十分に分かるほど、一期一振の声には鋭いほどの意志が込められていた。
******
(あの時の一期一振には正直驚いたな……ありゃ俺より相当飢えてるんじゃねえのか……?)
思い耽りつつ、あいつは余り突かない方がいいだろうなと以前にも思ったことを反芻する。転生した審神者が男だったらどうするんだと茶化せるような空気は微塵もなかった。あれは、あらゆる手段を尽くして囲い込むことも辞さないような者のする目だ。
怒らせるべきじゃないなと身震いしたところで、バスは駅のターミナルへ滑りこんだ。飽きるほどに親しんだ景色の中、バスの搭乗口から降りれば、薬研の目の先にスーツ姿の男が見えた。迷うことなくそちらへ向かい、合流する。
「おう、待たせた」
「そんなに待ってないよ。バスも遅れてないし」
にこにこと笑顔を向ける男に、薬研の双眸は自然と細くなった。手を握れば、男も握り返す。幼子がするようなそれではないことを、彼はきちんと分かっているだろうかとふと思った。
「じゃ、行こうか。今日は何が食べたい?」
「あんたとなら茶漬けでも美味いぜ」
「またそんなこと言って……よし、肉買おう肉。ハンバーグでも作ろう」
「だったら俺は松風焼でも食いたいね。そっちの方が作るのも後始末も楽だろ」
「じゃあ鳥のミンチ買わないと。調味料はあるから、後は……豆腐とひじきとニンジンと……」
「ゴマもふろうぜ。卵はあるのか?」
「どっちも大丈夫。まだある」
手を繋いだまま端末をかざして駅の改札を抜ける。ここから三つ先の駅で降り、スーパーで買い物を済ませれば後は男のマンションへ転がり込むだけだ。
今はまだ手を繋ぐだけに留めているが、手応えはある。その内にそれ以上のこともできるように持っていくつもりだが、果たして男はそのあたりの事まで見通せているのだろうか。
(まあ、まずできてないだろうな。……俺は油断してくれたままの方が都合がいいんだが)
薬研藤四郎である自身が同性で子どもだからと怖気づくわけはなく、精々薬研を侮っているだろう男の暢気な横顔を見上げる。薬研の思惑など微塵も察知していない男の様子に、そっと笑みを零した。
約束の五万円はもう、あと僅かだ。
2015.05.25 pixiv掲載