錯綜バイオレット

もう一人の男・下

 校長からお願いされたのもあって、それから彼の付き添いとして一週間を過ごした。つまり、それだけの間記憶は戻らないままだったわけだけれど、正直、新鮮で楽しいと言えば楽しかった。
 初めは何故私なのだろうと思ったのだけど、内部生の面子で彼を知っていて、なおかつ今も付き合いを続けているのは私と柚月、そして明日香だけだ。彼はきっと明日香に世話になるのをよしとしないだろうし、柚月は私と準のことを知っているから話をふられても蹴るだろう。だから必然的に、消去法で私しかいなくなるというわけだ。それはつまり、それだけ彼を独占できるということだった。
 断る理由もあるはずがなく、私は彼の側にいるように心がけた。オベリスク・ブルーにとっては出席日数も成績に響く大切なものだったから授業にはサボる――休むことも出来なくて翌日から出席していて、彼の怪我の具合も、授業についていけるかも心配だったから。と言ってもこと授業に関しては全く問題なく理解している様子で、やはり彼は優秀なのだと実感させられた。さすがに体育は休まざるを得なかったけど、それは仕方がないから先生方も配慮してくれるだろう。
 肩を並べて授業を受け、時折その内容について小声で話しながら落ち着いた会話を楽しめる日が来るなんて夢にも思わなかった。いつも意地を張って素直に話をしたことはほとんどないから、彼と落ち着いて話が出来るのは幸せだった。……と準に知られたら、怒られるだろうか。
 中等部あれほど心配していたような見下した発言は彼の口から全くこぼれることはなかったし、寧ろすごく丁寧に扱われていたように思う。そう言えば彼は元々女子に対しては紳士に振る舞う人だったな、と思い出した。それでなくとも、プライドの高さが今の比じゃなかった彼にしては随分と大人しくなっているようで、私がそれだけ成長したのかと錯覚しまいそうだ。
 一人高等部に放り出されて彼なりに不安でもあるのかと思うと、尚のこと放ってはおけなかった。
小鳥遊くん、今日は」
「今日はね、明日香の提案で、身内で話し合いでもしてみようと思って。準もこの一週間でいろいろ聞きまわったりしてたけど、一人ずつよりもみんな集まってたほうがいろんな話が出るかもしれないし」
 レッド寮の万丈目ルーム。いつもの集合場所。今日はそこでみんな集まって彼について話すことになっている。とりあえず一通り顔合わせは済んでいるはずだけど、じっくりと腰を据えて話を、と言うのはしてないはずだ。……多分。恐らく。
「それで良いかな」
「分かった」
 彼が頷いて、一緒にレッド寮へと歩き出した。校舎からレッド寮へは遠い。この道も、随分歩いた。振り返ってみると、思い出の無い場所なんてあるんだろうか、とすら思える。ああでも、イエロー寮には共通の思い出はなかったっけ?
先輩!」
「あ、剣山くん。待った?」
「今来たトコロだドン」
 レッド寮が見え、その階段下でにこ、と出迎えてくれた後輩に私も笑む。
「もうみんな集まってるザウルス」
「そっか、じゃぁ私たちも入ろう」
 促して、私は一番最後に入る。部屋に入ると、それぞれが気遣うように彼を見る。皆やはり戸惑いながらも彼のケガについて心配しているのは同じだった。さすがに一度によってたかって気にかけられるのは慣れていないのか迫力があるのか、困惑する彼にそっと耳打ちを。
「ね?好かれてるって、言ったでしょ」
 あのレイちゃんまでもがおろおろとしている様子は新鮮ですらある。きっといつもの憎まれ口を叩けないから、調子が出ないんだろう。まあ、若干彼の態度があまりにも違うから引いている、と言うのもあるかもしれないけど。それは高等部入学組全員に言えることだ。
 さて、と声を掛けて、みんなそれぞれ居心地の良い場所に腰を落ち着ける。私と彼はベッドへ。少しでも準が何かを思い出せれば、とそれぞれが抱く『万丈目準像』や思い出話をすることになった。私たちが一年の頃の話は後輩である剣山くんやレイちゃんは興味深そうに聞いていたし、彼らが入学した年以降は話せる話題が広がったからそれなりに盛り上がりも見せた。
 これで思い出せる、とは思ってないけれど、少なくとも彼がこのメンバーには受け入れられているのだ、と言うことが伝わればいい。そうすれば記憶が戻るまでの生活も、気が楽になるだろうし。……もっと早くに出来ればよかったんだけど、卒業を控えていて進路のことも含めてばたばたとしてしまったのだ。剣山くんとレイちゃんはアルバム委員にも選ばれたし。
 無事に明日香たちと都合したこの集まりが成功して一人満足していると、彼は私からも話を聞きたいと言ってきた。
「え?いや、私は一週間前にたくさん話したし」
「あれはほとんど俺の話だったし、小鳥遊くんが思う俺についてはまだ聞いたことがない」
「や、あの、なんていうか、私の場合ありすぎて上手くしゃべれる自信がなくて」

 うろたえてると、柚月に声を掛けられた。助け舟でも出してくれるのかと期待してみると
「私ら外に出てるから。っていうか、やることやったし解散するわ。二人でゆっくり話しなさい」
 とても綺麗な――つまり清々しいまでに容赦のない笑顔で、つき落とされた。
、アンタの間の前にいるのは、間違いなく万丈目準なんだからね。気を使う必要なんてないのよ」
「え?」
 去り際、柚月は言い逃げするようにギリギリのタイミングでそう言ってドアを閉めていった。引き留めることも出来ないまま、私たちは出る機会を失われて取り残されてしまう。
 二人ベッドに座った状態で、ぎこちなく沈黙する。不自然に開いた距離が今の私と彼の距離なのかと余計なことを考えて息をついた。この程度、恋人になる前となにも違うことはない。
 どうしたものか、と内心で唸っていると、彼が先に口を開いた。
「……俺と君は恋人同士だったと……最近結ばれたと、聞いた」
「え?」
「俺を下の名で呼ぶのは小鳥遊くん一人きりだったから、気にはなっていたんだ。それに……あのうるさいヤツらが保健室でそう言っていたから」
 既にばれていたのだ、と言う僅かな罪悪感を胸に感じながら、私はこの一週間の彼の様子を思い出していた。そうか、だから彼は、私が彼をどう思っているのかを知りたかったのだ。
 誰にも口止めなんかしていないのだから、彼がそのことについて知るのは簡単だったはずだ。簡単だったはず、なのだけれど――何故、私はそこまで徹底しなかったのだろう。自分から、漏らすことはなかったのに。
「私を付き添いとして選んだのは、そういうこと?」
「……」
 彼は答えない。けれど、否定しない。それで十分だった。
「責任感、強いよね。自分で決めたことはちゃんとやり切るし。あなたが私と恋人だと知ったら、きっとその責任を果たそうとするんじゃないかと思って、言わなかったの。中等部のあなたは私のことは好きでも何でもなかったから、嘘だろうと否定されるのも、疑われるのも辛かったしね。でも、あなたは知っていた。だから……あなたと私が恋人だから、私を付き添いとして選んだんでしょう?私の為に」
「それは」
「……確かに高等部、今の時間の彼に好きだと言われて、私も好きだと言ったけれど、今目の前にいるあなたはそうじゃないでしょう?私に対して、なにか義務を感じる必要はないわ」
 彼の気持ちが私にない以上、私は彼を縛るべきではないし、そういう彼氏だとか彼女だとか、立場を殊更に強調するべきじゃない。だって、今の準は中等部の準なんだから。私がただ遠くから見ているだけだった、はるか上に君臨し続けていた高嶺の花。
 そんな彼から義務や責任を感じて、と言うよりも、憐れむように思われるのが嫌だった。私は今の状況に対して惨めな思いは抱いてない。だからこそ彼の憐れみが何よりも苦痛だった。
「違う。話を聞いてくれ」
 強まった語気に彼を見ると、何処か焦りにも似た表情でうろたえているのが視界に飛び込んできた。
「君が思っているような理由で指名した訳じゃない。ただ……」
 なんと言えばいいのだろう、と途方に暮れたような顔をして、彼は言葉に詰まる。黙ってその先を待っていると、彼と目があった。
「ただ、君が一番近くにいて、興味があったから」
 それは、どう言う意味なんだろう。彼が目を覚まして、一番にたくさんの話をしたからなのか、それとも、心の距離と言う意味か。
「一週間、君と俺のことが気になって知っている顔に聞いて回ったが、誰に君のことを尋ねても似たような答えばかりだった」
「……」
「君が好きなのは、高等部の俺なんだろう?あまりにも、今の俺とは違うからな」
 困惑、と言うよりは何処か苦々しく言い捨てる彼に、私は目を伏せて先を促す。
「それで、何が言いたいのかしら」
 もしかすると、一番聞きたくない言葉を聞くかもしれない。覚悟も決まらないうちからそれを言われたら、私はどうなってしまうのか見当もつかなかった。耳をふさいでしまいたい。彼の口も。
「もし、俺が、俺の記憶が戻らなければ」
「……」
「君はそれでも、俺を恋人としてみてくれるのか?」
 ――。
「……え……?」
 見ると、彼は眉を寄せて私を見ていた。白い肌をしているから、頬が赤くなっているのがよく分かる。準とそっくりだった。否、彼は準だから当然だ。ただ、中等部時代に見ることがなかっただけで。
 そして今のその言葉は、今の彼を好いてほしい、と聞こえたのだけど。
「俺は『万丈目準』だ。君が知っている俺とかみ合わなくても……この、今君の前にいる俺では、値しないのか」
 恋人として。そう言いたいんだろうか。それは、つまり?
「あなたが、私を好きだって聞こえるけど、そう解釈していいの?」
「!」
 ぐ、と言葉に詰まった彼に、私は一つ息をついた。
「そうね、たしかに私はあなたに対して、自分の気持ちを伝えたことはなかった。混乱させるのも悪い気がしたし、中等部では一度も話をしたことはなかったから、そんなことを言っても押しつけがましくしか見えないんじゃないかと思ってた」
 一度言葉を区切る。あの時、言えなかったことを、今なら言える気がした。
「私、中等部の頃からあなたが好きだったのよ。だからあなたの記憶が中等部時代にまで戻ってしまったとしても、この気持ちに変わりはないの。万丈目準に認めてほしい、対等の関係でいたいというのはね。あなたは昔から私の憧れで、手が届かない人で、それから、目標だった」
 準に対して想いがありすぎて何から言えばいいかは分からないし、言葉としてきちんと伝えられる自信は、今でもない。それでも、今彼が望んでいる言葉は言うことが出来た。
「あなたは、――準は、今でも私を好きって言ってくれるの?」
 瞬き、瞼が震える。彼は睨まれでもしたかのようにびくりと身体を強張らせて、それから視線をさまよわせて、伏し目がちに口を開いた。
「……君が好きなのは今の俺じゃないと知った時、悔しかったんだ。だから、負けてたまるかと思った」
「きっと、その相手もそう思ってるわ。負けず嫌いだもの」
 くすり、と笑うと、彼に睨まれた。……睨まれたのは、初めてじゃないだろうか。
 驚いて思わず表情が固まってしまう。
「俺は、例え俺が相手だろうと他の誰にも負けるつもりはない」
 その声を聞いて、私はようやく強張った顔から力を抜いた。
 彼は睨んでいるのではない。ただ真剣なだけだ。私は獲物で、彼は狩人で、逃がすつもりなどないのだと、その眼が強く語っていた。
 それを感じ取った瞬間、カッと身体が熱を持った。射抜かれたように心臓がはねる。いや、硬直する。
「好きだ。だから――」
 迫ってくる彼に、なす術もなく捕えられた。……万丈目準を相手に、私が逃げるなんて考えられない。抵抗することもなくキスを受けた。彼のその唇が音を立てて離れたかと思うと、
「俺を見ろ」
 静かに紡がれた言葉の直後、再び唇が落ちて来て、すぐに舌が口の中に入ってきた。勢いに驚いたものの、一番吃驚したのは喜びに震える自分自身だった。口付けの音だけが部屋に響く。それが妙に恥ずかしくて、また身体が熱くなった。
「はぁっ……ちょ、じゅ、準、ここ、レッド寮だよ!」
「だからどうした」
「ど、どうしたって、いつだれが来るか、ひえ」
 するり、と彼の手が足を這う。明らかに何かを誘うような動きの性急さに、竦んでしまってしがみついた。

 近くなった彼の唇と私の耳。ここぞとばかりに名前を呼ばれて、そこで初めて久しぶりに聞いたその名前に、涙が出そうになった。卑怯だ。
「じゅ、準」
 もたつく思考に、彼は待ってくれるほど優しくはない。寧ろ圧倒的支配者の笑みを浮かべて、その手をあちこちに這わせてくる。まごつきつつも流されそうになっている自分が悔しかった。だって、こうされるのが嫌じゃない。
 そして彼の指が制服のボタンにかかった瞬間、呻いた彼に驚いて妙な気分は吹き飛んでしまった。
「……ッ!!!!」
「準、大丈夫!?」
 ベッドに頭を押し付けるような形で丸くなる準の背中を意味もなくさする。両手は痛むのだろう頭を押さえつけていて、声もなく悶える姿にどうすればいいのかとうろたえる。すぐにPDAで先生を呼ぶべきだと気付いて、ポケットからそれを取りだした。
「……いらん……ッ」
「で、でも」
 その手を、準に取られる。まだ相当痛いのか、頭こそ持ち上げたものの顔はかなりつらそうだ。
「そんなことより、
 不機嫌さを隠しもしない声色で呼ばれて、私はさっき消し飛んだはずの感覚を思い出して取り出したPDAを胸元で握りしめた。
「な、なに」
「貴様ッ、俺以外の男にほだされるとはどう言うことだ、ばかもの!」
 急に怒鳴られ、返す言葉をなくす。――不覚にも、さっきの続きが始まるのではないか、と期待した自分がいたのが恥ずかしいを超えて苛立った。
「準?」
「あ、あんな顔をされたら男がつけ上がるにきまってるだろう!」
 何を思い出しているのか、彼の顔が赤く染まる。……これは、もしかして
「記憶、戻った、の?」
「というより、戻したに近いな」
「……嘘ォ」
「フン、俺様はやるときはやる男だ」
 やろう、と思って記憶を取り戻したなどと言う話なんて聞いたことがない。半目になって準を睨むと、負けじと向こうもにらみ返してきた、かと思うと、ふむ、なんて私を観察するように見て、それから何でもないことのように呟いた。
「上書きでもしておくか」
「え?」
 何を、と訊くよりも先に唇同士が触れる。そのキスがあまりにもさっきとは違いすぎて、力が抜けそうになった。
「勝ったのは俺だな」
「……どっちも万丈目準でしょうがッ」
「今のお前は中等部時代の俺には勿体ない。今の俺で丁度いいんだ」
 よく分からない理屈で、準は私の頬を撫でる。――これがとても心地よいのだと知ったら、コイツはどうするだろうか。飼いならされた動物じゃあるまいし、認めてしまうのは癪なのだけど。
「意味分かんないし」
「なら、分からせてやるまでだ」
 そっと、準が私の頬に唇を寄せる。丁寧に、何度も場所を変えて、触れるだけの優しいキスだ。安心すら覚えるそれに眠たくなることも多々あって、幼子をあやすように背中を撫でられて、私はそっと目を閉じた。その鼻先を唇がかすめて行く。
「このくらいが、貴様と俺にはよく合っているだろう」
 酷く楽しそうな笑みを含む声に、素直に頷くのはとてもとても不本意というか、したくなかったのだけれど、同時に久しぶりに耳にした優しい声色に、私の頭は重力に従うように落ちていた。
「……み、みんなに報せないと」
「もうしばらくあとでも構わんだろう」
「でも、みんな準のこと心配してたのよ」
「知っている。だが、今を逃がすつもりはない」
 びくりと身体が揺れ準を見上げると、その眼に先ほどまで浮かべていた狩人の色が滲んでいて、私は柚月の言葉を今さらながらに痛感した。
 やっぱり、準は、腐っても準なのだ、と。

2010/07/30 : UP

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