錯綜バイオレット

その腕に抱くもの・上

 ――万丈目がいない。その姿を見なくなってもう一週間ほどが経とうとしていた。いくらレッド所属なら出席日数は考慮されないとはいえ、アイツはそこまで堕ちたわけじゃない。そりゃ、ちょっとくらい怠け癖というかだらしないところはあるけど、何も言わずにある日突然消えてしまうなんてことは一度もなかったのだ。
 高飛車でプライドが人の万倍高くて、でも責任感だって同じくらい強いやつがいきなり行方をくらませたりするだろうか。
 最初は体調不良かもしれない、と部屋に行ってみたりもしたのだけれど、アイツの部屋はもぬけの殻。誰に何を言うわけでもなく、事前にそれをにおわせるような言動をしたわけでもなく、突然アイツのいない学園生活が再び始まってしまった。
 PDAに連絡を入れても何の反応もない。デッキも残ってないし、私はカードの精霊を見たり話したりすることは出来ないからおジャマ達どころか、アイツが涸れ井戸から引き取ったカードたちからすらも話を聞いたりすることが出来ない。
 何か事件に巻き込まれた。その可能性しか残っていないような気持になって、私は授業もそこそこに万丈目探しに明け暮れていた。この私をさぼらせたからには、なんとしても見つけて文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。だから、私の文句を聞いて、言い返してくるくらい元気な姿で見つけられなきゃいやだ。三沢くんとのデュエルに負けて出て行って、十代とのデュエルに負けて戻ってきた、あの時みたいに。
「あーっ、もう、お前らケンカはやめろってー!」
 購買で引いてきたドローパンをつまみながらレッド寮までくると、十代が寮の前で何やら騒いでいた。珍しくと言うかなんというか言葉を聞くに喧嘩の仲裁をしているようだけど、そこまで組み合わせの悪いペアなんて私と万丈目以外に――いた。剣山くんと翔だろうか。でもあの二人は十代の唯一の弟分を自負しているライバルではあっても、十代が必死になって止めるほどの喧嘩をするなんて今までなかったと思うんだけど。
「十代!どうしたの」
 声を掛けると、十代は勢いよくこっちを振り返った。その顔がみるみる輝くのを見て私が少々嫌なものを感じ取ったのは言うまでもなかった。
!良いところに来たな、お前もコイツら止めるの手伝ってくれよ」
 駆け寄ってみると、十代はなんとファラオを抑えていた。ファラオは随分興奮していて、十代もかなり手こずっているみたいだ。
「こいつら、って……」
 何か他にもいるのか、と思って見ると、近くに一匹の黒猫が、やはり興奮した様子で唸り声を上げていた。随分と汚れているけど野性だろうか?まさかこんな離島で迷い猫もへったくれもないし。身体は細いけど仔猫ではない。恐らくは縄張り争いにでもなったんだろう。
「十代、どうしてあっちを抱いてあげなかったの?あっちの方が軽そうだけど」
「だってアイツ全然大人しくしねーんだ。俺だって初めはそうするつもりだったんだけどさ、ファラオ以上に嫌がられて」
 危なく噛まれるところだった、と十代は戦々恐々としている。そんなに攻撃的なほうを任せられても、とは思ったけど、私はドローパンを持っていたことを思い出した。
「じゃあ、もう少しだけファラオを遠ざけてくれる?」
 頼むと、十代は悪戦苦闘しながらもファラオをなだめすかして距離を置いてくれた。私は自分の身体で黒猫の視界からファラオたちが見えないようにしてしゃがむと、ドローパンをちらつかせた。
「ほら、おいで、怖くないよ」
 ちらちらとパンを見せていると、黒猫は唸るのも忘れたのか静かに私を睨みつけた。そして警戒しながらも私の方に寄ってくると、パンの匂いを嗅いでかぶりついた。……中身はステーキパンだった。まだ中身が見えるほど食べてなかったから、ずるりと出てきたそれにギョッとする。包み紙を下にして地面に置くと、黒猫はすごい勢いでがっつきだした。お腹がすいてたのかもしれない。この身体は、細いというよりもやつれていたのか。
 猫はすぐにぺろりと平らげてしまうと、まだ物欲しそうな声でにゃぁ、と一つ鳴いた。どこか甘えたな目になっているのは気のせいだろうか。ゲンキンな、とは思うものの、強請られて悪い気はしない。
 その頭をそっと撫でる。嫌がってはいない、と言うことが分かると、ファラオから遠ざけないと、と思ってどうにかこうにか抱き上げた。もぞもぞと腕の中で落ち着かない様子の猫だったけれど、飛び降りることもなくて、私は十代を振り返った。
「十代、この子、お腹すいてるみたいなの。ドローパンもらってきてくれないかな。万丈目の部屋で保護しておくから」
「わかった。ファラオを放すけど大丈夫だよな?」
「うん」
 十代を見送りつつ、私もすぐにアイツの部屋に入る。緊張しているのかうんともすんとも言わない猫を床におろしてやると、私を見上げて一声鳴いた。
「……お水飲む?」
 さっきの食べっぷりからして水も飲みたいのではなかろうか。ステーキだったし、そもそもパンだし。そう思って底の浅い平たい食器に水をいれる。それを床に置いてやると、猫は顔を突っ込む勢いで水をなめ出した。
 一心不乱に、という言葉がぴったりだ。時折私を気にするように見るけれど、すぐにまた水をなめ出す。パンもそうだけれど、何も食べてなかったのかもしれない。
 ついでだから体も綺麗にしてあげよう。嫌がったら仕方がないけど、浴槽に少しだけ水をはる。……ここ最近使った形跡がないのが、妙に目に痛い。いや、アイツは元々風呂が好きじゃなかったんだから、別に一週間位使ってないみたいだからと言っていつもと変わらないはずだ。ただアイツだけが、ぽっかりと穴が開いたように足りないのだ。
 意識を飛ばしていると、急に視界の中に黒いものが動いて私は自分でも驚くほどびくりと身体を震わせてしまった。万丈目なんじゃないか、と思ってしまったのが恥ずかしい。黒猫にきまっている。私が驚いてしまったのが移ったのか黒猫も驚いた顔で私を見上げていた。また頭を撫でて取り繕うと、シャワーのコックをひねって洗面器にも水をためた。
「さあ、今から身体を綺麗にするんだよ」
 シャワーの勢いを緩める。怖がるかと思ったけど、黒猫はおおむね大人しくしてくれた。ファラオに使ってるのと同じシャンプーを使う。猫用だから大丈夫だろう。目や耳に入らないように気をつけながら、背中から洗っていく。お腹と前足もよく洗う。そして後ろ足と尻尾も。
「……あ、やっぱりあなた男の子なんだ」
 女の子ならファラオだってあんなに興奮しないもんね。どう考えても威嚇してたし。
 そう思っていると、何故か機嫌が悪くなった黒猫に後ろ足で蹴られてしまった。
「あいた!」
「ふーっ!」
 そんなに機嫌を損なうような乱暴な洗い方じゃなかったと思うのだけど、猫はフンと鼻を鳴らすと、泡が気持ち悪いのか早々に洗面器の中に入ってしまった。
「もうちょっとじっとして」
 なうー、とちょっと不機嫌そうな声で返事をされる。早くしろと言われているみたいで、私は少し笑ってしまいつつもゆるいシャワーで泡を落として行く。まるで誰かさんみたいだ。……アイツ相手なら、こんなこと絶対にしないだろうけれど。
 丁寧に流して行くと、なんとも心地よさそうな顔で猫が目を閉じている。猫でもこんな風な表情をするのかと少し気分が浮いた。
「さあ、綺麗になったよ」
 シャワーは止めず浴槽に入れて、上着を脱ぐ。黒猫を抱き上げた時に汚れてしまったから、ついでに洗ってしまおうと上着もそこへ放り込む。もみ洗いは後でするとして、先に猫を乾かしてやろうと思った矢先、身震いをした際の水を全身に浴びてしまった。量は大したことがないのだけど、どうせなら上着を脱ぐ前にしてほしかった。まあ、怒っても猫だし、私が勝手にしたことだからこの子がどう振る舞おうとこの子の自由だし、何も言葉が出ない。ただ唖然とする私を見上げてなうーと鳴く姿は小憎たらしい以上に可愛くて、今すぐ撫でまわしたくなる衝動を必死に抑えた。
 気を取り直して脱衣所でバスタオルを取って、ついてくるように出てきた猫をくるんでやった。シャワーが怖くないならドライヤーも平気かも知れない。
、ドローパン持ってきたぜ」
 洗面台に猫を乗せてドライヤーを手に取ろうとしたところで十代が入ってきた。十代の持つパンに猫が反応する。やっぱりまだ食べ足りないのか。
 猫はそいつをこっちに渡せ、とばかりに前足でかき込む動きをしながらパンを見つめている。さっき私にしたみたいに強請るような愛らしい鳴き声ではなくて、妙に低い声だけど……
「十代、この子に嫌われるようなことでもしたの?」
「まさか!最初っからこんなだぜ?には随分懐いたんだな」
 十代は肩をすくめて、嫌がらせのようにドローパンをひっこめた。瞬間、猫の頭が低くなり、本格的に威嚇するような唸り声を上げる。
「ちょ、ちょっと」
「コイツは後のお楽しみだぜ。先にに身体乾かしてもらえよ」
 すぐ食えるように用意しといてやるから、と十代は洗面所から出ていく。私は黒猫がその後を追いかけずに大人しくしていてくれたのにホッとしてドライヤーのスイッチを入れた。
 音はうるさいようだけど、やっぱりじっとしていてくれる。バスタオルで拭きながら水気を取っていくと毛並みが良いことが分かってきた。尻尾も長くて目も切れ長だし、堂々としている様はカッコイイ。ブラシで整えれば美男子の完成だ。
「……はい、出来た」
 抱っこで十代のところまで、と下心を持っていると、黒猫は私がブラシを置いた途端にサッサと台から降りて出て行ってしまった。……残念。
 猫の後に出ていくと、既に十代が開けておいたらしいドローパンにかぶりついていた。さっき置きっぱなしだった水も十代がテーブルの側まで移動させてくれている。
「ありがと、十代」
「ん?ああ、別にいいんだけどさ。……、オマエも風呂入っとけば?濡れてるぜ」
 ソファに座る十代に指摘され、私は自分の姿を見た。さっきは大して濡れてないと思ったのだけど、万丈目の部屋はブルー並みの空調設備が整っていて昼は涼しい位に設定されている。肌寒さを覚えて、私は上着を水に浸けてしまったのはまずかったかな、と両手で身体を抱くようにして身震いをした。
「でも、着替えが」
「万丈目の服借りれば?アイツ全然私服着ないし……今の時間だと温泉もすいてるんじゃ」
 泳げるぜ、と明るく言う十代に、私は少し眉を下げた。とてもそんな気分ではないけど多分気を遣ってくれてるんだろうから応えたい。でも、そんな暇があったら森の中だろうとどこだろうと探しに行きたい。
 私の気持ちを察してくれたのか、十代がそれ以上強く言って来ることはなかった。でもたしかにお風呂には入っておかないと風邪でも引いたらことだし、何よりもしアイツが帰ってくるようなことがあった時に寝込んでるなんてカッコ悪い。
「あのさ、
 十代の厚意を無下にするのも失礼な話だな、と思った矢先、少し言い辛そうに十代が口を開いた。
「お前、眠れてないだろ?万丈目のこと心配なのは分かるけど、ちゃんと休んどかねーと」
 あんまり無理するなよ、と心配してくれる十代に、私はありがたくて目を伏せた。そのまま十代を見ていたら、泣いてしまいそうで。
「ありがと、十代。お風呂入るよ。温泉までは遠いから、この部屋の借りてもいいよね。上着も洗わなきゃいけなくて」
 何とか笑顔をつくると、食事も終えて気分がよくなったのか、黒猫が私の足元にやってきて鳴いた。その頭をそっとなでてやる。暖かくてふわふわだ。
「ほら、これで良いか?」
 クローゼットを勝手に開けて、十代が適当に見繕ってくれる。普段なら絶対こんな横着で厚かましいことはしないのだけど自分の部屋に戻る気力すらなくて、私は十代から渡された万丈目の私服を受け取った。ほのかに万丈目の匂いがする気がして私はすぐに洗面所に逃げ込む。内側からカギを閉めると、ため息が漏れた。黒猫のおかげでちょっとだけ気分は浮上したものの、アイツが帰ってきたわけでもなく、安否も、どこにいるかも分からないという状況は全く変わってないのだ。
 アイツが一年の時三沢くんに負けて宣言通りこの学園を自主退学した時、私がどんな状態だったか。授業に出席こそしていたけど、その内容はさんさんたるものだった。まさにオシリス・レッドと言うべきか。クロノス先生にもさんざん怒られた。
 その後学校としては休学扱いだったからこその復学で、三か月と言う長い間だったけれど無事に、そして元気に帰ってきてくれたからよかった。あらかじめ負けたほうが学園を去るという条件でのデュエルだったのだから、アイツが消えてしまった理由ははっきりしていたし。
 でも今はあのとき以上に酷いかもしれない。授業だってサボっているし、食欲も落ちた。十代に指摘された通り夜だって寝つきが悪くて、眠れたとしても何度も何度も目が覚める。
 深く考える暇をなくしたくて、私はさっさと服を脱ぐとお風呂場に入った。一度浴槽から上着を取り出して、水を抜く。改めてお湯を入れながらぼうっとしていると、妙なことばかり考えてしまって頭を振った。そうだ、最近すぐにこうしてぼうっとすることも多くなった。……いくらアイツが好きだからって、こんなに酷くなるなんて誰が思っただろう。私だって、こんな風になるなんて思ってなかったくらいなのに。
 先に身体と上着を洗ってしまおうとシャワーをひねる。中等部よりも長くなった髪をぬらしながら鏡を見ると、改めてアイツへの想いを自覚してしまう。
 別に明日香や柚月を意識しているつもりは――……ない、とは言えないけれど、ふと何のために髪なんか伸ばしているのだろうと思ってしまう。どうやったって私があの二人になれるはずがないのに。
 もとはと言えばアイツの指が私の髪を梳く、なんて馬鹿な妄想をしてしまったのが始まりだ。正直忘れてしまいたいけれど、そんな恥ずかしいことばかりを覚えているのは人の性だろうか。そんな日なんて来るはずがないのに。大体ここからいなくなってしまって、会って喧嘩をすることも、姿を見ることだってもう、かなわないじゃないか。
 現実は今の私には厳しい。普段ならばかばかしくて恥ずかしくて埋まってしまいたい妄想ですら、淡い思い出のような切なさに変えるほど。
 私は全てを洗い流すかのように荒く髪と身体を洗ってシャワーをかぶると、たまりつつあった湯船に勢いよく飛び込んだ。あったかい。思っていたよりも体は冷えていたらしい。
 ゆっくりと百数えて、栓を抜く。上着も適当に洗って脱衣所へと出た。嫌味な位柔らかいバスタオルを新しく引っ張り出して体を拭く。黒猫を拭いた時のタオルがまだ洗面台に放置しっぱなしなのに気付いて、一緒に洗濯かごの中に放り込んだ。
 着替えを被ると、さっき心配したような万丈目の匂いはしなかった。かわりに長い間タンスの中にしまっていたような独特の匂いがして、私はほっとするやら顔をしかめるやらで少し忙しかった。
 これ、一度干し直した方がいいんじゃないだろうか。でも他に着替えがあるわけでもない。やっぱり一度部屋に戻るべきだった。カビ臭いとまではいかないけど、これではいずれそうなるだろう。
 そんな風に僅かに後悔の念にとらわれつつ長さを調節する。万丈目の服は私が着ると大きくて、袖口と裾を大きめに折り込んだ。
 髪の毛を乾かして出ると、十代がテレビを消して立ち上がった。
、晩飯には遅れるなよ」
「え?」
「あの猫を万丈目代わりに、少し休めってこと」
 十代は妙に明るい声でそう言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。ポカンとして黒猫の姿を確認すると、猫はベッドの上で何やら騒がしくしていた。……この部屋にいるんだろう精霊を、猫も見ることが出来るんだろうか。なにやら、格闘しているように見えるけれど。
 上着をハンガーに干して、その辺に適当にかけておく。ベッドに腰掛けると、猫はフン、と鼻を鳴らして大人しくなった。逃げるわけでもなく、その場にじっとまるくなっている。耳だけはピンとこちらに立てて、時折尻尾が揺れた。
 十代のあの妙に楽しそうな顔はどう言う意味だったんだろう。もしかして、万丈目について何か分かったのか。でも、それなら私に教えてくれるはずだ。
 少し気が抜けた。もう、何も考えて居たくない。疲れるし。でも考えてしまう。どうすればこの状態から抜け出せるのだろうと上半身をベッドに倒した。僅かにベッドがはねて、咎めるような猫の目が見えた。尻尾が揺れている。手を伸ばして撫でると、じっとしていてくれた。ぱた、と手を落とすと、前足でつつかれる。
 この猫、人慣れしてるんだろうか。抱いた時は慣れてなさそうだったけど、もしかすると私が知らないだけでアカデミア近くを縄張りにしていて、生徒から食べ物をもらいながら暮らしているとか。きっと食べ物をもらうときだけ人の側に寄ってくるのかもしれない。万丈目も食べ物で釣れればいいのに。
 疲れているからなのか、また思考が変なところに飛んでしまう。
「こんな所にいたのね」
 ふと柚月の声がして、首だけを起こした。部屋の入り口から柚月が歩いてくるのが見える、今日の授業は終わったようだ。……それはそうか、十代だって寮にいたんだし。
 どうしたの、と言ってみたけど、聞こえた自分の声は思いのほか力がなかった。柚月はこれ見よがしに大きくため息を。
「十代から聞いて来てみれば……アンタまでいなくならないでよ?シャレになんないから」
「万丈目一人でもシャレになってないんだけど」
「それはアンタだけよ。まあ、確かにの今の状態はシャレになってないけど」
 やれやれ、と肩をすくめる柚月とは温度差を感じるけど、柚月なりにいろいろ調べてくれていることは知っているから言葉に詰まってしまう。身を起こすと、柚月が私の隣に座る。黒猫が不本意そうに柚月を避けて、私の隣に座りなおした。
「ただでさえこの学園じゃ行方不明者が続出するんだから」
「……あのね、柚月。万丈目ってなんだかんだ言ってもお坊ちゃんじゃない?もしかして誘拐、とか……そういう可能性だってあるんじゃない?お兄さんたちに知らせなくてもいいのかな」
「……、アンタ今自分が何を口走ってるのか分かってるの?」
「だって一週間も全く姿が見えないなんて」
 悪い方にばかり考えてしまうし、最悪の結果がふとよぎって、私は頭の中にあるそれを吐きだすようにひたすら口を動かしていた。
「もし、何処か森の中で足踏み外したりして死」
「それ以上馬鹿なことが言いたいなら、一度休みなさい。大体万丈目がそんなドジ踏むわけないでしょう」
 もしそうなってもプライドで生き返るに決まってるわ、と柚月には珍しくトンデモな発言が飛び出したのだけど、軽くパニックになりかけていた私はそれもそうかと納得してしまった。
 すとん、と落ち着くと、今度はわけも分からず泣きたくなって、私はごめんと呟いた。疲れてるのよ、と柚月は優しく頭を撫でてくれる。その掌が暖かくて、零れそうだったところで我慢していた涙がこぼれて落ちてしまった。本当に疲れているのかもしれない。
「……倒れないように、ちゃんと寝たほうがいいわ。眠れなくても、目を閉じて。今、自分がどんな顔してるか分かってるの?」
 頭を寄せあうと、柚月の優しい香水の匂いがした。
「……うん。十代にも心配された」
「よく休んで。それから、授業にも出て来てよ。がいないとつまらないわ」
「……ありがと」
 私が万丈目を心配しているように、柚月も私を心配してくれている。明日からは、柚月の為にも授業には出るようにしよう。
「アイツが帰ってきたらしっかりケンカできるように、コンディションは最上を保ってなきゃね」
 笑みを帯びた声に、私は一つ頷きを。
「それとも、今度こそ素直になる?アイツがまたいなくならないうちに」
 柚月の声が優しいものから意地の悪いものに変わる。私はゆるく首を横に振った。そんな勇気はとてもじゃないけど、ない。
「アイツが戻ってきてもしまたいなくなるようなことがあっても、また、心配するだけだもん。大丈夫。万丈目は、不死鳥だから。……大丈夫、だよね?」
 すがるような言葉だったけれど、柚月は頷いてくれた。
「大丈夫。大丈夫よ。十代に負けっぱなしのあいつが、このままでいるはずないじゃないの。必ず戻ってくるわ」
「うん」
 頭から背中に移動した柚月の手は相変わらず暖かい。万丈目の部屋のベッドは寝やすいだろうから、とそのまま横になるように促されて、私も逆らうことなく横になった。黒猫がそろそろと枕元までやってくる。
「あ、柚月、この猫ファラオと会わないようにして放してあげてくれる?」
 顎もとを撫でながら頼むと、猫は柚月の手を嫌がるように距離を取った。柚月はいい子だからこっち来なさいと言いながら、猫を上回る程慣れた手つきで抱き上げた。
「じゃあ、ゆっくり休むのよ」
「うん」
 柚月の背中を見送る。ドアが開く音と同時に、あ、という柚月の声が聞こえてどうも彼女の腕から逃げ出したらしい黒猫が、ベッドの上に戻ってきた。
「……好きにさせたほうがよさそうね?」
 空調もきいてるから居心地がいいのだろうと柚月は言って、そのまま静かに出て行った。黒猫はそっと私の腰の横で丸くなると、そのままそこで目を閉じた。随分とこのベッドが気に入ったのか。腕を出して猫を手の甲で撫でる。全く嫌がる様子もない。
 室内は電気を消していてもまだ明るくて、私はしばらく横になったまま天上を見つめていた。
 万丈目の姿が浮かんでは消える。長い間アイツを見てきたけれど、こんな時にはっきりと思い出せない位人の記憶はもろいのかと気付かされた気がして、涙がこぼれそうになった。
 ぐす、と鼻をすすると、猫が動く気配がする。ふと視線を動かすと、黒猫がすぐそこまでやって来ていた。控えめに一つにゃん、と鳴く。顔を向けると、目の端から涙が流れた。それを、猫にすくわれる。
「わ」
 ざらりとした感触に目を閉じる。たまりかねて手で押さえて目を開けると、猫の綺麗な目が私を見つめていた。身体全体を横向けにして布団を少し開けると、空いたスペースに猫が入ってくる。私の掌をまくら代わりにして寝そべると、猫が黙ったまままた目を閉じた。あやされている子どもの様な気分だけど、間違いじゃないのだろう。私はそのまま目を閉じた。
 猫の温かさとベッドから嫌でも感じる万丈目の匂いに抱かれるようにして、私は手を引かれるように眠りに落ちて行った。

2010/08/17 : UP

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