錯綜バイオレット

その腕に抱くもの・中

 久々にゆっくりと寝たような気がする。するり、と眠気の幕をかいくぐるようにして私は目を開けた。それは心地いいほどの目覚めだった。
 目を開けた先の部屋はもう暗く、私は手探りで枕元の明かりをつけた。時計を見るともう夕食が始まっている時間帯だ。というか、そろそろ終わりそうだ。
 慌てて起きると、にゃん、と鳴く声が聞こえた。そうだった、猫と一緒に眠ったんだった。おはよう、と声をかけると、なあう、と返事のような鳴き声が返ってくる。
「……ご飯食べに行こうか。おなか減ってる?」
「にゃあ」
 まるで会話をするような猫の声に微笑んで、私はそっと黒猫を抱きかかえてレッド寮の食堂まで歩きだした。星がよく見えて、自然と空を仰ぐ。最近の睡眠状態を考えると今日はよく眠れたほうだ。どことなくすっきりした頭で、万丈目の無事を思う。きっと大丈夫だ。アイツが動けない状態なら、私が見つけ出せばいい。ノース校に出ていった時だってさんざん危ない真似をしたようだったから、きっと、きっと今回も大丈夫だ。
 言い聞かせるようにしながら食堂に入ると、もう誰もいなかった。ただ私の分に、と誰かが残しておいてくれたのだろうエビフライやら焼き魚、ご飯やらサラダやらがラップをして机に置いてあった。エビフライと焼き魚の組み合わせはどうしたのかと考えたけど、たくましいレッド生なら釣りでもしてきて捌いて調理する位わけないのかもしれない。
 猫を椅子に置いて私も座る。ラップを外すと、まだ温かいのかほのかに良い匂いが漂った。
 いただきます、と手を合わせる。いきなりエビフライは胃に優しくないかも、と思ってサラダから食べていると、猫が物欲しそうに私の膝を前足で叩き、鳴いた。さすがにエビフライは脂っぽ過ぎるんじゃないか、と逡巡して、そう言えばすでにステーキパンやらなんやらを食べさせていることに気付いた。アレルギー体質の生徒の為に例えレッド寮であろうと食品管理はしっかりとしていると聞いたことがある。でも猫に与えてもいいのだろうか。
 迷っていると、猫の鳴き声が激しさを増した。なんていうか、俺にもくれ、だったのが、寄越せ、になって来ているような。
 まず焼き魚を椅子の上に置いてやると、黒猫はじっと私を見上げてくる。そうじゃないだろ?とでも言いたそうだ。最後まで迷いながらエビフライを一つ焼き魚のお皿に乗せてやると、器用に身の部分だけをぺろりと食べた。
 なんて贅沢な、と思いながらも、今脂っぽいものを食べて身体を壊しそうなのは私の方だったから、もう一つ置いてやる。それも尻尾を残してきれいに食べてしまった。そして、エビフライはもういいのか焼き魚も器用に食べていく。私はそれを横目に、細々とサラダとご飯を噛みしめた。
 ここのところ食欲がなかったから、私にはこの位でよさそうだ。全て食べ終えて、自分の分のついでに猫用に水をくむ。それをやっぱり椅子の上に置いて、代わりに食器を下げようとしていたら、焼き魚がえらく散らかった状態で発見された。
「あーあー……。もう、骨食べないの?」
「にゃぁん」
 ご機嫌そうに鳴いて水をなめる猫を見つつ、私はまだ食べられる身の部分をそぎ落として、もう一度猫の脇に置いてやった。さすがに猫が食べた残りを食べはしない。猫は私が集めた身の部分もぺろりと食べきると、汚れた口周りを舌で何度もなめとっていた。ごちそうさまの挨拶をして食器を片づける。まだ物足りない、とでも言いたそうに何度も鳴かれたけど、これ以上はないのだから仕方がない。今の時間はもう購買だって閉まっているだろう。
「今日はもう我慢してね」
 言いながら抱き上げると、唸り声を上げられてしまった。それも一瞬だったけど、よく食べる猫だ。今がちょうど食べざかりなのかもしれない。
 抱っこをすると猫の温かさがよく分かる。今は外にいるから少し暑い位だけど、万丈目の部屋では心地いい。
 自分の部屋に戻る気がしなくて、私はまた万丈目の部屋に向かっていた。別に悪いことをしてるわけじゃない。アイツと一緒に寝るわけでも、何かを盗むわけでもないのだし、本来の住人がいないのだから別に私一人寝たって構わないだろう。
 言い訳をしながら思うのはあのベッドの柔らかさと温かさだ。部屋の温度が低めに設定してあるから余計に居心地がいい。そして何より、アイツに抱かれているような気がして、胸がいっぱいになる。不安を紛らわせてくれるのだ。まるでそこにアイツがいるような。――実際にいないということが余計に虚しさをかきたてるということには、今は気付きたくない。
 部屋に入ると、やっぱり涼しい位で気持ちがよかった。猫をおろしてやると、その足でベッドまで駆けていく。余程気に入ったらしい。
 食べたばかりだけど私もその中に潜り込んだ。夜中に出歩くのは危ないし、これ以上柚月たちに心配をかけるわけにはいかない。また明日授業が終わったら探しにでも行こう。空き時間までじっとはしていられないだろうから。
 さっきと同じように胸元まで布団を開けてやると、猫は私の腕に頭を乗せて寝そべった。それを引き寄せると、何故か嫌そうに抜け出してしまう。
「……嫌なの?」
 訊いても、勿論答えてくれるわけじゃない。嫌なら仕方ないかと思っていると、猫は恐る恐るといった感じで私のお腹あたりに潜り込んできた。ひょこり、と顔を胸元まで出して、私を見る。こっちから顔をすり寄せてやると、咽喉を鳴らして受け入れてくれた。
「おやすみ」
 呟くように告げて、目を閉じる。猫の身体はやっぱり暖かくて、私はまたすぐに眠ることが出来た。


 布団は暖かくて、今はいない人間の匂いがする。抱きついたり意図的に匂いを嗅いだことがあるわけではないけれど、私ではない人の匂いだ。
 そして、私とは違う体温。
 暖かさをもっと感じたくて、それを抱きしめる。私の名前を呼ぶ声が落ちてきた。
、おい、起きろ」
 まごうことなき万丈目の声だった。けれど、まさか部屋にいるはずがない。今万丈目の部屋にいるのは私と黒い猫だけなのだ。でも、こんな夢でも今なら素直に受け入れることが出来る。――すがりつくほどに。
「まん、じょうめ」
 思いきって出した声はかすれていた。咽喉の突っかかりさえもリアルで、私は薄く目を開ける。匂いとともに視界に入ってくるのは確かに万丈目の着ている制服のインナーだった。
 そろそろと視線を上げていく。そこには思いのほか近い距離で、万丈目の顔があった。赤い顔をして、困ったような、そんな顔をしている。
 どうしてこんなに近いのだろう、と思って手を動かすと、しっかりと私が抱きついているせいだと気づく。その感覚もしっかりとしていて、夢なのか現実なのか分からなくなる。
 そっとまわしていた腕を外して、万丈目の顔を触る。両手で包みこむように頬を抑える。そのままぺたぺたと無遠慮に手を当てていく。首や胸板辺りまで一度下がり、また頭を抱えるように手を伸ばす。
「お、い、
 戸惑うような声がその口から洩れる。……これは、夢じゃないのだろうか。
「万丈目……。ほんとに、万丈目?夢じゃないよね?」
 徐々に覚めてきた頭でしっかりと万丈目を見つめると、そうだ、と少し怒ったような声が上がった。
、貴様何故俺様の部屋で寝ているんだっ」
 焦ったような声に、私は一度勢いよく身を起こして今日の日付を確認した。うん、私が寝ぼけているわけじゃなくて、今日は万丈目の姿を見なくなってから八日目だ。
「万丈目、帰ってきたの?いつ?ここにいた猫は?」
「……、寝ぼけるのもいい加減にしろ。あと、万丈目『さん』だ。俺はいつも通り起きただけだ。そうしたら貴様が」
「嘘!」
 声を張り上げると、万丈目がむっとした表情をした。嘘なんてつくはずがないだろう、とでも言いたそうだし、実際万丈目はそう思っているのだろう。でも、そんなはずはないのだ。だって確かに一週間、私はコイツを心配して心配して、十代たちに心配をかける位心配して、今日だって探しに行かずにはいられないと思っていたのに。
 でも、いる。確かにいる。
 もう一度確認のために触ると、鬱陶しいからやめんか!と怒鳴られた。
 確かに万丈目だ。眉間に出来た皺も、白い肌も、黒い服も、匂いも、声も、私が感じられるだけの全てが目の前にいるのは万丈目だと主張している。
 ふと気が抜けて、私はベッドの上にへたり込んだ。
「大体いつの間に俺の服を勝手に着て」
 ぶつくさと文句を言う万丈目の動きが止まる。その顔が驚き一色に染まって、そこで私の視界は歪んでしまった。
 はら、と何かが落ちたのを感じる。私の涙だった。
「……ッおい、俺はそんなキツく言ったつもりは」
 放っておくと嗚咽が漏れそうで、私は口元を手で覆った。本物だ。本物がいる。
 アンタのせいでどれだけの人に迷惑がかかったのか、分かってるの?
 そう問い詰めてやりたいけど、そんな言葉も出てきやしない。冷静になってみれば、勝手に心配してみんなに迷惑をかけていたのはむしろ私の方だったし。だからといってまさか、どれだけ心配したか、なんて言えるはずもない。私とコイツは喧嘩友達でしかなくて、私に心配されたってコイツには何でもないだろう。誰も心配しろと頼んでなどいないというに違いない。
 そう思うと余計に言う言葉もなくて、ただこぼれてしまう涙を指で拭った。
「ええい、いきなり泣くな。どうすればいいか分からんだろうが」
 煩わしそうな、でも焦ったような声が耳に飛び込んでくる。そう言われたって言葉が浮かばないのだ。
「う、うるさい、ばかっ」
「なんだと!」
「男なら、だ、だまって、泣いてるっ、お、おん、女の子を抱きしめる位、しなさいよっ、この、甲斐性なし!」
 ようやく文句が言えた。うえ、だかげほ、だかで詰まりながら嗚咽が酷くなる私を、万丈目は舌打ち一つで許してくれた。
「誰が甲斐性なしだ……っ」
 渋々ながらの声で私の肩を抱き寄せる。万丈目の肩口に顔をうずめながら、私は嗚咽が納まるのを待った。暖かい腕を肩に感じる。柚月の手よりも大きくて、しっかりとしていた。
 もう片方の指が、私の髪をすくようにして後ろへ流して行く。不意に万丈目の唇が近づいてくるのが見えて思わず身を引くと、アイツは少し面食らった顔をした。まるで、自分が何をしようとしたのが理解できない、と言いたそうな眼をして。
「……、すまん」
「う、ううん、吃驚したけど、うん、えっと」
 会話としてはおかしいだろう言葉を交わす。
「そう、そうだ!アンタがいなくなって、一週間も経ってたんだから」
「……なんだと?」
「だから私、心配して、……。……み、みんな心配して探してたのよ!」
 みんな、と言うのは間違いだけど、まあ良いだろう。私が言うと、万丈目はいよいよ驚いて目を見開いた。
「そんなはずが……。いや、」
 戸惑う万丈目が、心当たりがあるように何事か考えだす。
「……何か思いだしたの?」
 覗き込むように尋ねると、万丈目はなにかハッとしたように身体を揺らして、何でもないと顔をそらした。
「何でもないって顔じゃなかったわよ」
「うるさい。貴様には関係のないことだ」
「か、関係ないって、私だって心配したのよ!?それって行方不明になってたのと関係あるんでしょ?なら私には聞く権利があると思うわ」
「俺にだって言う権利と言うものがある。が、義務ではなかろう」
 言われ、私は言葉に詰まる。私からすればそれは義務だと言いたいけど、実際のところ言いたくないことを無理に訊き出せるような間柄じゃない。
「……確かに貴様に酷く心配をかけたことは、謝らねばならんだろうな。だが、それとこれとは別問題だ」
「そうよ、だから、……え?」
「顔色が最悪だぞ。あまり興奮するな。それと……心配するのは勝手だが、その相手に心配されるようではまだまだだ」
 万丈目の指が、私の濡れた頬を滑った。
「……貴様に心配を掛けること自体、俺様もまだまだだということか」
 何やら一人納得している様子の万丈目についていけず、私はポカンとヤツの顔を見つめるしかなかった。てっきりいつものように喧嘩になってしまう流れかと思ったのに、思いがけずアイツが一歩引いたせいで肩透かしを食らったような気分になった。……これは、本当に万丈目なんだろうか。
「とにかく!この通り俺様はここにいるのだから、それで構わんだろうが」
 だから泣き止め、とヤツは言う。このぞんざいな言い方はまさしく万丈目準だ。
 安心して吹き出すと、万丈目も口の端を持ち上げて笑みをつくった。
 ――確かに、こうして目の前にいる。戻ってきた。それだけでいいのかもしれない。でもまたいつかどんなことでいなくなってしまうか分からないことは気がかりでもあった。
「……それで、どうしても教えてくれないわけ」
「精霊関係のゴタゴタに巻き込まれてな。……結果的に、貴様のおかげで無事戻れたようなものだ。謝罪ついでに感謝するぞ」
「……はぁ?意味が分からないんだけど」
「分からんでいい」
 薄目で睨むと不意に嫌に優しげな目で見つめられ、私は思わず目をそらした。顔が赤くなっていたかもしれないけど、何故かアイツは突っ込んでは来なかった。ただその表情で私の頭をくしゃくしゃと撫でつけた。
 私からすると全く万丈目の身に起こったらしい出来事の全貌を掴ませない、無視にも近いあしらわれ方だというのに、それ以上強く言ってしまえばこの顔が消えてしまうのかと惜しい気持ちにさせられてしまって、私は口をつぐんでしまった。……卑怯すぎる。
「さあ朝食だ。、その服は貴様にやるからさっさと着替えでも済ませてこい」
 意気揚々と言う姿が何処か晴々しく映って、私は目を細めた。
「私、おなか減ってるの。アンタの分も寄越しなさいよ」
「ふざけるな。……だが野菜なら恵んでやらんでもない」
「素直に食べてくださいって言いなさいよ!」
 言い合いながら部屋を出る。そう言えば黒猫の姿が見えなかった。
「ねえ、万丈目は黒猫、知らない?一緒に寝てたんだけど」
「だから『さん』をつけろ。……知らんな。猫は気紛れだからな。大方飽きて、勝手に出て行ったのだろう」
「……あれ?猫があそこ気に入ってたの、知ってるの?」
「ッ、知るわけ無かろうが」
「でもなんだか知ったような口ぶりに聞こえたけど……」
「知らんと言ったら知らんのだ!さっさとせんと貴様の朝食も頂くぞ!」
「なによ!ちょっと気になっただけじゃない!」
 やけにむきになる万丈目に、私はむくれながら自分の部屋へと戻った。ふと部屋に入る直前、万丈目を振り返る。そこには確かにアイツが立っていて、早くしろ、と言いたそうにその場で待っていてくれた。
 その姿を目に留められるだけでこんなにも嬉しい。だから、黙っていなくならないで、と言葉に込めた。
「先に行ったら許さないからね」
「ならば早くせんか!俺だって腹が減ってるんだ!」
 声を張り上げると、怒鳴るような声が返ってくる。まさかそれに安心する日が来ようとは、と自分でも苦笑してしまう。
「静かにしないと、他のみんなに怒られちゃうわよ」
 う、と言葉に詰まった万丈目に、私は耐えきれずに顔を破綻させる直前、アイツから顔を隠すようにドアを閉めた。

 それから、『猫にデュエルを挑まれ、負けると猫にされてしまう』なんていう七不思議みたいな話が流行り出すのはしばらくしてからだ。

2010/08/17 : UP

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