錯綜バイオレット
その腕に抱くもの・下
ドアの向こうへ消えて行った歩の姿を無事見送って、俺はため息をついた。
確かに黙って一週間もの間いなくなってしまったことには俺にも非がある。だが、俺とて何かしらの方法でそれを伝えようとしても出来なかった、と言うことは弁解しておかねばなるまい。
先程は寝起きで少しばかり寝ぼけていて、そしてそれ以上に目を開けたとたんに飛び込んできた歩の寝顔に全てが吹き飛ぶかのような驚きで満たされた揚句、ぴったりと隙間もないほど密着していた事実を認識した時の衝撃で記憶が一時的に吹き飛んでいたのだ。それどころではなかったと言うべきか。歩の身体が存外柔らかく――……いや、何を考えているんだ俺はっ。
とにかくそのショックも落ち着き始めた今ならば、この一週間己が何をしていたのか思い出すことが出来る。……普段から口喧嘩の絶えない歩が酷く取り乱していたことも含めて。
その歩の泣き顔が頭の中に再び甦り、俺は知らず舌打ちをしていた。
こうなったのも、もとはと言えば妙なカードの精霊のせいなのだ。一年の頃兄さんとのデュエルの為に手に入れたカードの中に、猫のカードがあった。マタタビキャットとは異なる――レアだが、はっきり言ってしまうと本当に誰がデュエルでこのカードを使うのか、そもそもなぜこんなカートが造られたのか疑問に思うようなものだった。攻撃力、守備力は言うに及ばず、かと言って特別強力な効果があるわけでもない。存在意義を問わずにはいられないそんな奴に、デュエルを挑まれたのだ。井戸から救ってくれた礼がしたいのだと、そんなことをぬかして。
勝てば『真実の愛』なるものを献上する、などと言う戯言に乗ってしまった俺にも落ち度はあった。デュエルは挑まれれば受けるのが常識だったし、負けるつもりも毛頭なかったのだが、結果は、俺の敗北だった。
気落ちしない訳はなかった。それでも、負けた時の条件は提示されてなかったし、俺は早々にデュエルディスクを外して気分を切り替えるつもりだった。そもそも『真実の愛』などそう簡単に手に入れるものでもあるまい。そう思っていると、その精霊は不愉快なほどにたにたと笑い――
「初めからどちらが勝つかは決めてないのニャ。よって、約束通りマスターに『真実の愛』をプレゼントするのニャ!」
誰かを思わせるようないけ好かない語尾でもって高らかに宣言すると、次の瞬間、俺は黒猫へと姿を変えていた。
「貴様!これはどう言うことだ!」
「どうもこうも、マスター。これがぼくの力を出せる条件なんだニャ。約束ごとをあらかじめ宣言し、デュエルを挑んで、それを勝敗が決するまで行う。だからぼくは約束通りにしたんだニャン」
嫌に楽しそうな声に苛立ちながら、俺はふざけるな、と怒鳴っていた。
「早く戻せ!」
「出来ないのニャ。約束が無事満たされるまで戻ることは無理ニャ」
「なんだと……」
それでいくと、それを見つけられなければいつまで経っても戻れはしないと言うことだ。
「さあ、愛を探す旅に出るのニャ、マスター!」
愛を口にするからにはそれなりのロマンチストなのかもしれないが正直言って不釣り合いだ、と現実を見たくないせいなのかまるで場にそぐわない事を考えた。そのせいで俺はそれ以上文句を言うことも叶わず、猫の姿で放浪する羽目になったのだった。
真実の愛、と抽象的に言われ、己の都合の良いように――具体的に俺が何を想像したのかについては自分の胸だけに秘めておきたいとでも言えば大方予想はつくだろうが――勝手に解釈したのがいけなかったのだ。ヤツはそれ以上のことは何も言わなかったのだから、疑ってかかるべきだった。恋は盲目とはよく言ったものだ。
故に、この俺がそんな隙を見せてしまった経緯など、口が裂けても歩に言えるはずがなかった。言ったが最後、勝気な瞳と鬼の首でも取ったかのような語気で馬鹿にされるに決まっている。
……しかし、今にして思えば確かにあの精霊の言っていたことは真実だったのだろう。歩が俺をあんな風に心配するなど、こんな珍事の際でなければ知り得なかったに違いないのだから。大体『愛』というのも酷く曖昧な言葉だ。親愛、友愛、家族愛。恋愛が意味するそれとは種類が異なる愛と言う感情は多い。歩が見せたのもきっとその類なのだろう。とにかく歩の健気なまでの姿が俺の目には愛として映ったことは間違いない。だからこうして無事に人間として二本足で立っていられるのだ。
いつから歩がそうだったのか、とふと考え、俺は腕を組んだ。
猫になってしまったその理由も含め、ばれるわけにはいかない。俺のプライドが許さない。そう思って部屋を飛び出したのが一週間前だ。まさかその日一日姿が見えない程度であんなに歩がぼろぼろになるとは考えにくいが、昨日見た時は相当酷い状態だったのはその姿を見た瞬間に分かった。
森の中で過ごすよりも部屋の中にいたほうが安全だと気付いたのは少ししてからだったが、俺はプライドを優先させた。その後数日間のサバイバル生活についてはあまり思い返したくもないが、悲惨だったと言うよりほかない。結局背に腹は代えられんと言うことで身の安全を優先しレッド寮に戻ってきたところを、運悪くデブ猫に見つかった。威嚇され、俺もやけになって対抗したのだがどう考えても分が悪いのは明白だった。そこに十代がやって来て、一発で俺だと認めた時は驚かざるを得なかったが、ヤツには俺の声がはっきりと聞き取れたらしい。
そして、そのあとすぐにやってきたのが歩だった。細くなった、と思ったのは正しく、いつもならば強情さや勝ち気な性格が一目見てとれると言うのに、昨日に限ってはどこか疲れ切ったような気だるさを全身に纏っていたのだ。――まあそれを心配するより先に歩が手にちらつかせたのがステーキパンだと匂いで分かり、空腹も手伝ってそれしか見えていなかった、と言うことは俺だけが知っていることだ。
そしてそのあと十代の口から、歩が俺を探してやつれているのだとその原因を知ることになった。普段の様子を知っているだけに信じられず、俺が驚いたのは言うまでもないだろう。ただ、猫の俺を扱う手つきは本当に歩かと思うほど繊細で、何処か納得する自分もいた。流石に丸みを帯びた胸に抱かれるだとか、雌雄を平然と確認された時は婿に行けない、とまで思ったが。少々無頓着ではないかと思うものの、歩も猫が俺だと知っていたらそんな真似はしなかっただろう。とにかく彼女が情に篤いと言うことは猫になっている間に分かったのだ。
俺を撫でるときも、洗う時も、乾かす時も、ブラッシングに至るまで歩の手は終始優しかったのを思い出す。もしや人間の俺にだけあんなに当たりがきついのかと思うと少しばかり気分が悪くなったが、意外な一面を見ることが出来たのは役得だったと言えた。
とにかく歩の心配ぶりを十代から、そして部屋にいる精霊たちからも切々と聞かされた俺は捨て鉢になって吐き捨てたのだ。
「俺を責めても人間に戻れるわけじゃないんだぞ!」
どうすることも出来んのだから今は黙せ、と言いたかったのは伝わったらしい。だが、言い訳にすぎないのは承知していた。もとはと言えば己がまいた種であり、己の軽率な行動が招いた結果だったからだ。たとえそれが意外にも歩に現れているのだとしても変わることはない。
だが、俺はその時不謹慎にも喜んでいた。十代の話を聞いた時点では、正直そこまで誰かに思われていることが気持ちよくすらあったからだ。それが歩となれば尚のこと悪い気はしない。だから、いつからそんなにも想われていたのかなどと考えることはなかったのだ。そして歩がどれほど体力も神経もすり減らしていたのかなど。
柚月が来て何かが切れたように泣き出した歩を見たときは、頭から冷水をかぶったがごとく目が覚めていく思いがした。泣かせたのは間違いなく俺だ。否、それどころかそこまで歩を弱らせてしまったのは。
眠る前も歩の涙は止まることはなかった。どうせ猫なのだから、といよいよ腹をくくってその涙をなめた俺の葛藤がどんなものだったか、歩は知らないだろう。人間だったらすぐに安心させてやれた。涙も簡単にぬぐってやれたし、肩を抱いてやることだって出来た。そもそも歩がそんな風にはならなかった。
歩が弱りきった姿は思いのほかこたえた。俺のせいだ、と思う気持ちがあったのも確かだが、自分が周囲に与える影響について自覚したのはこれが初めになるのかもしれない。
もう、そんな思いはさせまい。
そう決めたところで、歩が部屋からけたたましくドアを閉め走ってきた。まるで一度人間に捨てられたトラウマのある犬のように。まあ、間違いではないのかもしれないが。
「上着はどうした」
「アンタの部屋に干しっぱなしなの。昨日濡れちゃったから」
「もう乾いているだろう。取ってこい」
「後で良いわ。おなか減ってるし、早く朝ごはん食べようよ」
言いながらも自分で二の腕を抑える様はどう考えても寒いと言っている以外ない。俺から離れたくないのだと暗に言われているような気になり、俺は自分のコートを掛けてやった。朝はまだ冷える。
歩は腐抜けた顔で俺を見上げてから、酸素を欲しがる魚のように口を動かした。それを見ていると、自然と笑いがこみあげて来て口元が歪む。
「何笑ってるのよ」
「いや。……コートは詫びだ」
「なにそれ!こんなんじゃとてもじゃないけど足りないわよ?」
「貴様に心配を掛けさせると高くつくと言うことは覚えておこう」
肩をすくめると、歩はまだ不機嫌そうな顔をしながらも俺のコートに腕を通した。こうして見ると素直な奴だ、とまた新たな発見をする。歩の動きを待って食堂へと足を向けると腕を掴まれた。振り返ればまるでサイズのあっていない俺のコートに着せられた歩が、俺を睨みつけていた。
「……今度からは一言でも良いから、書き置きでも良いから何か言ってからにしてよね。そしたら行方不明にでもなんでも好きにすればいいわ」
「言ってることが支離滅裂だぞ」
「うるさい!返事!」
掴まれた腕に込められている力がこそばゆい。それでも必死に睨んでくる瞳を見ているとまた涙があふれて来るのではないかと言う気にさせられて、今回は茶化さず引いてやることにした。
「胆に銘じておく」
大人しく頷いてやると、歩はゆるく息を吐いた。慕われるのには慣れているが、こんな風に怒りながらあれこれと口出ししてくるのは歩くらいだろう。今までは煩わしいと思っていたが、今は妙なことにもう少しくらいなら小言を聞いてやってもいいとすら思える。
気分がよくなって、僅かに乱れている歩の髪を手櫛で直してやった。指通りの良さに意味もなく直す振りを続けたが、歩は気付いていないだろう。
「な、何よ、自分で出来るわ」
むくれながら顔を赤くする彼女を見て、恋人でもない女子相手に配慮がなかったかとまで思った己に苦笑が漏れた。
歩の取り乱した姿を見て優位に立ったつもりもないのだが、どうも構ってやる気になってしまうのだ。そうされれば喜ぶのではないかと。俺の気のせいなのだろうか。口先では文句を言いながら実力行使とばかりに拒んでこないあたり、いろいろと透けて見えてくる気さえするというのに。多分歩は隠しているのだろうから気付かないふりをしたやったほうがいいのだろう。
俺もついに焼きが回ったのだろうか。相手はあの歩だ。小憎たらしいとは思っても、それを上回る勢いをもって胸の内からあふれだしてくるもの。これが『真実の愛』だと言うのなら、相応しい気がした。見つけることが出来るとあの精霊が言ったのは、歩が俺を真に思う姿を見る、と言うことではなく、俺自身が己の内に見出すと言うことだったのか。
「万丈目、アンタ今日おかしいわよ?本当に本物なんでしょうね?」
「万丈目『さん』だ」
全く失礼な奴だが、俺は俺自身今までとは違う目で歩を見ているという自覚があった。少々癪だが、どうも俺はこの少女をいたく気に入り、そして大切に思っているらしい。いじらしく、愛おしいとも。
悔しさも相まってゆるく頬をつまむと、歩の口からは妙な声が漏れた。
「行くぞ」
「あ」
再び文句が飛び出す前に歩きだす。歩は手を放すタイミングを失ったようだが、俺は気にならなかった。
「ま、万丈目」
「『さん』だ。弱っている貴様に、特別に俺様の腕を貸してやろう」
「……アンタに支えてもらわなくたって、一人でも歩けるもん!」
投げつけるように振り払われ、俺はさすがに眉を寄せた。
「貴様も女なら男の厚意を素直に受け取らんか」
「どうせ可愛くないわよ」
「誰もそんなことは言ってない」
「そういう意味で言ったクセに」
そうしてヒネた方へ解釈することこそ可愛くないのだ、と余程言ってやりたかったが、不毛すぎるのと空腹のせいでむしろ冷静になることが出来た。朝食を取りに行くだけでなぜこんなに時間がかかっているのか。
口を開くのも面倒になったが、好きにしろ、と半ば言い逃げのように吐き捨てて先を行く。数歩離れた後ろ辺りを歩が歩いているのが分かり、俺は妙な心地を覚えた。
惜しいのだ、とその感情に気付いた時、左手が暖かいものに包まれた。
見ると、不本意……否、どこか不服そうな顔を隠しもしないままで、歩が俺の手を握っていた。握り返すと柔らかさがよく分かる。女子特有の手だった。
「好きにしろって言ったのは、アンタの方だから」
だから文句は言わせない、と呟くように紡がれた言葉に目から力が抜けていく。俺は黙って歩に合わせて歩いた。
味噌汁の匂いが辺りに漂っている。食堂までは遠くない。
2010/08/18 : UP