錯綜バイオレット

baby boy・下

 ばたん、とオートロックのドアが閉まる。これで周囲の目や耳を気にしなくてもいい。準は一つため息をつくと、その場で帽子を脱ぎ去った。私はそれぞれ思い思いにソファに座る二人の側を横切って、キッチンの冷蔵庫へ買ったものを仕舞っていく。
「念の為聞くけど、と万丈目の子どもじゃなくて、万丈目本人だよな?」
「……そうだ。十代、貴様がここにいるのは俺の状態を含め怪奇現象について調べるためだろう。やはり精霊が関係しているのか」
「まあな。……でも万丈目ん家がやってるホテルだってのは知ってたけど、まさかお前本人と出くわすとは思ってなかったぜ」
「経営してるのは兄さんだが」
「細かいとこつつくなよ」
 久しぶりなのに息は以前以上にぴったりじゃなかろうか。十代はものすごく興味深そうに準を眺めている。私はエプロンを出して二人を背にキッチンに立った。元々手間をかけて作るつもりもなかったけど、早くしないとファーストフードで適当に買ってすませるとか言って今にも調査に乗り出してしまいそうだ。
「俺も自分の為、グループの為早急に怪奇現象を鎮静化したい」
「おう、人手はあるに越したことないしな」
 気心知れている相手といるせいか準の声はどこか弾んでいる。十代は既に数日間ここであれこれと歩きまわって情報を集めたようで、それをまとめて準に伝えていた。
 私はお米をといで炊飯器にセットし、お鍋に水を入れて昆布でだしを取る。その間に卵を割った。追加の一品はだし巻きにしようと思ったのだ。卵焼き用のフライパンもあったから一度洗って水を切り、油を引く。
「それで、このホテルの近くにそのポイントがある。十中八九その精霊のねぐらだろうから、今日はそこへ行こうとしていたんだ」
「俺も行く。ホテル内でこの姿になったんだ、他の客に手を出されては困る。元に戻るのはもちろん、交渉次第ではここから追い出さねばならん」
「ああ、こんな場所だしな。線引きする必要はある」
 準と十代の話を背中で聞きつつ、お鍋のだしをコップで一杯だけ取り出して、塩と砂糖、粉末のだしの素を足してよく混ぜる。それを卵の中に入れてよくといだ。これでだし巻きの準備は出来た。焼き始める前に味噌汁に入れる野菜を切ってお鍋に入れていく。
 多分準達について行っても私に出来ることはないだろうから、時間ならある。今日は夕飯も手料理にして仕込みがいるようなものに取り掛かるのも悪くないかもしれない。キャベツを買ったからロールキャベツでもしようかな。和風だしにして生姜を利かせれば飽きもないだろうし。今度オムライスを作る機会があれば炊き込みご飯にあんかけ、なんていうのも良いかもしれない。筑前煮やきんぴらも一度食べさせてみよう。肉じゃがは多分食べられるだろうから反応を見てみたりして。
 そう考えていくと料理も楽しく思えてくる。一人暮らしを始めてからはとにかくお腹を満たすための作業、と言う感じで食べていたから滅多に時間を掛けたものを作ることもなかった。準がいてくれると、実はありがたい。楽しみにしてくれる、食べてくれる人がいると思うと美味しいものをつくりたくなるし、食べることが楽しくなるのだ。
、何か手伝うか?」
 すぐ後ろで声がして、見ると十代と……その後ろに準が立っていた。
 今はそれほど仕込みの大変なものはつくらないから大丈夫、と言って断ると十代はあっさり下がってくれた。どうせ早く作ってもご飯が炊けないと食べられないのだし。
「準、もう少し待ってて」
「ああ」
 笑むと、準はこっくりとうなずいた。そして無自覚なのか急に無防備な笑みで顔を緩めると、たたっとソファの向こうへと隠れてしまった。私が立っている位置からはソファの背もたれで準の姿が見えない。――ただし、それは準にも言えることだ。それがありがたくもあった。
 私は準の不意打ちに顔が赤くなるのを自覚しながらも、大人の準があんな風に笑まない人でよかったと思った。自分の心臓がうるさく動いている。あの顔をテレビで見せれば瞬く間に女性ファンが増えるだろうが、恋人としてはライバルは少ない方が良いし、しょっちゅう見せられたらその内のぼせて倒れそうだと真剣に思う。
 準の顔は綺麗だ。整っている。けれど、切れ長の目は見る人によってはきつく映るかもしれない。だからこそこんな不意の、それもほころぶという言葉がぴったりな笑顔を見せられると参ってしまうのだ。悔しいけれど、完敗。そしてそんな気持ちを通り越して、溶けていく思考。
 ごまかすようにIHクッキングヒーターのスイッチを入れ、フライパンをよく熱したところでとき卵を注いでフライ返しで巻いて行く。ぷるぷるのだし巻きに満足することでなんとかさっきのたまらない感覚を振り払った。
 包丁を入れるととろりと卵が出て来る。うん、半熟具合もいい感じだ。味噌汁もそろそろいいだろう。後は余熱でも大丈夫だからスイッチを切る。炊飯器も早炊きにセットしておいたしもうすぐに出来る。
 食器を出してお箸をテーブルへ。先にだし巻きを置くと十代の目が輝いた。
「うまそう!」
「美味いに決まってるだろう」
 まるで自分が作ったかのような自信にあふれた準の言葉に苦笑する。……子供が母親の料理を自慢しているように見えた、なんて黙っていた方がよさそうだ。
「さきにこれ、食べても良いよ。ご飯まだあと少しかかるから」
 告げると、二人の手がお箸を掴んだ。やっぱりこんな風に喜んでもらえると作りがいがある。――……初めて、あまり一緒にいられないことを残念に思ったかもしれない。
「うわ、すげえうめえ!」
、何か入れたのか」
 それぞれに反応をもらって、だし巻きだからね、と答える。私も一切れつまんでみると、辛くもなく甘過ぎることもなくいい感じに仕上がっていた。思わずうん、と頷いてしまう。仲良く食べるようにと言いつけて、味噌汁を器に入れていくと、炊飯器がなった。ふたを開ければ炊きたての良い香りがする湯気に包まれる。ご飯はつやつやと輝いていた。
「準、十代、ご飯炊けたよ」
 水を入れたコップも一緒にお盆に載せて持っていくと、また嬉しそうな悲鳴が上がってくすぐったくなった。
「俺日本食久しぶり!」
「俺もだ」
 いただきます、と改めて手を合わせて昼食になる。準はまあそうかもしれないとは思っていたけれど、十代の発言に私は首をかしげた。
「十代、卒業してから外国暮らしだったの?それともサバイバル?」
「半々だな。この間は台湾をぶらぶら」
「……言葉の壁って乗り越えられるものね」
「まあなー」
 準もたくましいとは思うが、十代も相当なものだ。同年代と比べても群を抜いていると思う。
「ここへは誰かに頼まれたって言っていたけど……」
「多分万丈目がこうなったのと同じヤツの仕業じゃねえかな。その被害者だ。その人も精霊の存在を感じられる人だったんだけど、妙なやつに誘われて変なところに迷い込んだ、みたいなこと言ってたし」
 ポイントにはまりこむと言うことは誰のせいでもないが、わざとそそのかすように一般人を巻き込むのはよろしくないと十代は言う。
「悪戯好きがエスカレートして万丈目みたいなことになったんだろ。どうにかして止めさせねえとな」
 熱々のご飯をほおばりながら、十代は味噌汁を流し込む。味わって食わんか、と準が言うけれどまったく効果はなかった。
はどうする?前に精霊の世界に行ってみたいって言ってなかったか?」
「え?」
 思いがけず十代に言われ、私は手を止めた。横からそうなのか、と尋ねて来る準の視線を感じる。
「まあ、そうだけど……。今回は、良いや。ここで待ってる」
 準や十代の足を引っ張ってしまうのも嫌だし。多分十代は危険はないと思っているからそう言ってくれているんだろうけど……
「長くかかりそうなの?」
「どうなるかははっきり言えないけどある程度調べは進んでるから、あとは最終仕上げってところだな」
「……なら、夕飯の支度でもしてるわ。ロールキャべツをしようかと思ってたんだけど、いいよね?」
 他にも作るつもりでいるけど、念の為聞いておくと二人とも縦に頭を振ってくれた。ごちそうさま、とほぼ同じタイミングで十代と準の箸が置かれる。二人とも綺麗に平らげてしまっていた。そして軽く、手早く支度を済ませると、すぐに出掛けようと言うことで話がまとまった。
、……その、」
 出がけに準が私を振り返る。
「気をつけてね。……あんまり遅いと、夕飯を人参まみれにしちゃうわよ」
 お皿と言うお皿にニンジンが詰め込まれているのを想像したのか、やや準の顔が引きつった。それにくすりと笑みがこぼれる。
「一緒に食べられるの、楽しみにしてるからね」
「……ああ、分かった。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 十代に子ども扱いされて怒る準の小さな背中を見送る。ドアを閉めると、急に静かになった。食器を片づけて、一息つく。
 写真でも取っておけばよかったなあ、と今朝起きた時のことを思い出して一人にやけてしまった。私も随分と図太くなったものだ。そうならざるを得なかったのか、と考えてそんなことはなかったと首を振る。私が今まで図太くなかったことはなかった。落ち込んだ時や臆病風に吹かれた時はいつだって準がらみのことばかりだったのだ。その彼に受け入れてもらえたのだから怖いものがあるはずもない。将来について考えなければいけないのだろうけれど、準を頼って生きていくつもりはないから不安は特にない。この数年は幸せだった。もしこのまま準が万丈目家を優先するとしても特別不満はない。仮にもし別れがあったとして、私が準を好きなことに変わりはないのだし。きっといつまで経っても大切な人になるのだろう。まさか幻滅するなんてそれこそ想像できないというものだ。
 結婚、という文字を意識してないことはない。出来るのか、出来ないのか、についても考えなかったわけじゃない。ただ、どちらにしても準はきちんと自分で決められる人間だと思っている。どっちつかずになって迷走することはまずないだろう。そしてちゃんと人の気持ちも、その先のことも案じることが出来る。私はそれを待っているのだ。
 受け身なのは変わっていない。怖い、のもあるだろう。けど邪魔はしたくない。ただでさえ忙しい日々の中で余計なことを考えさせてしまうのはかわいそうだとも思う。どれも私の本音には違いない。
 相手が相手だけに胆が据わってきたのだろうか。けれど確実に言えるのは、私がこうなったのは準がいたからだ。好きになっていたのが、両想いになったのが違う人間だったらどうなっていたか分からない。彼はお金持ちで、私は庶民だ。ある程度の覚悟がなければやってられない。
 ソファに沈みながら目を閉じると、ふと今日のやり取りを思い出した。子どもに着せれば良いじゃない、といった時、準は酷くうろたえていたっけ。あれはどちらの意味だったんだろうか。準に限って独身を貫こうとするとは思えないし。私か、私じゃない人か、は言及してないからどっちにも採ることが出来る。
 ――考えても仕方のないことなのかもしれない。待つのだと決めたからには耐えるのだ。……一向にキス以上のことをされたことがなくても。
(あ、今自分で思って凹んだ)
 恋人なのだから、それなりに期待するのは仕方がないと思って欲しい。と誰ともなく言い訳をする。流石に今から夕食の準備は早過ぎるために何か暇つぶしにするものはないだろうかと立ちあがったところでノックの音を聞いた。ルームサービスは頼んでいない。
 そっとドアに近づいて覗き穴から確認すると、そこには長作さんが立っていた。驚きつつもドアを開けると、その眼がきょとんとした風に見開かれて、
「……これは失礼、部屋を間違えたようだ」
 準が出ると思ったのだろう、すぐに立ち去ろうとする長作さんを引きとめた。
「あの、準……さんの部屋でしたら、ここで間違いないです」
 声を掛けると、長作さんの目が見開かれた。そうか、君が、と呟かれ、準が私のことを話していたことがうかがえた。律儀というかなんというか。
「よろしければ中へどうぞ。準さんは今、正司さんからの頼まれごとの為に出てますけど」
「いや、……。そうだな、それでは失礼する」
 中に通し、ソファに座ってもらう。紅茶かコーヒーか聞くとコーヒーを頼まれたからドリップで出した。ありがとう、と言われて挙動不審にも身体がはねてしまった。何とかいえ、と答えて、正面に座る。
「あの、申しおくれました。私、小鳥遊と申します」
 頭を下げると、長作さんも自己紹介をしてくれた。……前に見た時より、随分丸くなった印象を受けた。あるいはそれを老けた、と言うのかもしれないけどまさか言えるはずもない。
「準から話は聞いているよ。随分支えになってもらっているそうだね」
「……」
 は、と声を上げそうになったのをこらえた。代わりに瞬きをしてしまったから、私が驚いているのは十分伝わってしまっただろう。長作さんは少し苦笑する。……準は、どんな風に私のことを伝えたのだろう。
 緊張していないことはない。ただ話すこともないしどうするべきかと悩んでいると、長作さんの方がポツリポツリと話しだしてくれた。
「あれは私の知らないところでどんどん成長していくようだ。アカデミア買収の件で敗北を喫した時もそう思ったが、この頃ますますそう思う」
「……そうですね、彼が見る見るうちに力をつけて行くのは、私も近くで見ていたのでそう思います」
 言葉を選びながら同意すると、長作さんはそうか、と少し嬉しそうに笑った。……なんだかんだで、長作さんも弟のことは好きなんじゃないだろうか。
「君は、準についてどう思う」
 尋ねられて、私は直感的に探りを入れられているのだ、と思った。準自身のことは尊敬しているけれど、とにかくあまり煌びやかな世界には馴染めそうにもないと伝える。内助の功、などと言うつもりはない。陰で動く方が自分の性分に合っていると思うのだ。私はリーダーシップを取るタイプじゃないし。
「彼はどんなに打ちのめされてもまた立ちあがることのできる強い人です。お兄さんの長作さんにこんなことを言っていいのか分かりませんけど、子どもみたいに一途で真っ直ぐで、ひたむきで、努力家で、暖かくて、優しくて、マメで、……万丈目と言う家のことを忘れたことはなかったと思います」
 他にもたくさん準についてなら言えるところを何とか切って伝えると、長作さんは僅かに頷いた。
「準には世間一般で言う兄として振る舞った記憶がない。万丈目家の人間として相応しくあれ、といつも言ってきた。正司もそうだが、年が離れていることもあって子どもに対する接し方も知らなかった」
 何かを思い出すように言葉を紡ぐ長作さんはどこか寂しそうに見えた。
「本来ならば味方になってやるべきだったのだろうが、生憎父も母も準を生み、育てた頃には歳でね。孫に接するようにしていたから、その分厳しくあたっていた私と正司の存在は畏怖の対象でしかなかっただろう」
 準は家のことをほとんど話さない。何故かは知らないけれど、その必要を感じたことはなかった。
「長作さん、私から一つ大事なことをいいですか」
 でも、長作さんが知り得ない、けれど確かな事実を、私は知っている。
「準さんは、一度も自分が万丈目家の人間であることを嫌がったりはしなかったですよ」
 自分が背負っているものの重みなど分かるまい。そういうような態度は何となく感じたけれど、家が嫌だとか逃げ出したいとか、そんな方向の弱音や愚痴を聞いたことは一度もなかった。本人もそんなことは露ほどにも思っていないだろう。寡黙でもポーカーフェイスでもないからそういう雰囲気があればすぐに分かるはずだ。
「今でも、家のことを考えてるから出て行ってるんです」
 正司さんからの件は正司さんの動画メールにあった通り長作さんも知っているだろう。君は心配じゃないのか、と聞かれ、私は首を振った。信じているのか、と聞かれ、それにも首を振った。
「彼が自分で決めたことですから。それに、他の全てを放り出していなくなってしまうほど責任感のない人じゃないことはよく知っているつもりです」
 準自身は『万丈目家の抱く野望』について触れたことはない。でも、それをどう思っていようとお兄さんたちに恩を返したいのだと零したことがある。それが私にとって確かなことなのだ。
「今朝もお兄さんたちからのメールを見て嬉しそうでした。直に帰ってくると思いますから、早ければ今日、遅くても明日には長作さんのところへご挨拶に行くと思いますよ」
 言って笑むと、長作さんの顔もほころんだ。恥ずかしくもあるのかほんの少し頬が赤く染まっているのは気のせい……かもしれない。長作さんの肌は黒いとまではいかないけれど準に比べればしっかりと焼けていて断言できない。準の肌は白すぎるくらいで頬が紅潮するのがよく分かるのだけど。
 それでも嬉しそうにしているから言ってよかったと思う。
「では、それを楽しみにしておくとしよう」
「はい」
「君とは一度話をしてみたいと思っていた。今までもそれとなく準に持ちかけたりはしていたのだが、なかなかあいつは首を縦に振らなくてな」
 丁度よかった、と長作さんは言う。
「君になら準を任せていられる。女遊びの類は一切教えてないが女性を見る目はしっかりと養われていたようだ」
 女遊び、という思いがけない言葉に私は乾いた笑いを出してしまった。政治家である以上長作さんも遊び人ではないはずだけど、若い頃はいろいろあったのかもしれない。けれど、その意見には賛成だ。彼が熱を上げ続け、そして今もなお憧れ続ける明日香と言う人は、色褪せることなく輝く素晴らしい人間だから。――私が私自身を評価するのは難しいからそこには触れないでおく。
「あれでなかなか奥手だがよろしくしてやってくれ」
「あ、あの、私こそ彼にお世話になっておりますので」
「いや、……一度家に来ると良い。準はなかなか多忙を理由に寄りつかないんだ。君が理由になってくれるのなら来ない訳にはいかないだろうからな」
 決して家族を嫌ってはいないのだけど、万丈目の後ろ盾を得ることに対して頼ってはいけないからと踏ん張っているせいだろう。準らしい。そこまで徹底しなくても良いと思うけど、お兄さんの肩書きを考えるとそうなってしまうのも無理はない気もしないではない。
「ああそうだ、家に来た時正司がいたら何か言ってくるかもしれないが、気にしなくて良い。あれでなかなか世話焼きでな。口を出さずにはいられない性分なんだ」
 苦笑気味に言う長作さんは既に私が家を訪ねることを前提で話を進めている。不愉快ではないけれど、その苦笑加減を見るに正司さんの方は結構苦戦を強いられそうだ。……どう思われているにしろそれなりに心構えをしておくように、ということだろう。
 今まで準さんはお兄さん方とは少し違うタイプの人間だと思ってたけど、違うのかもしれない。それとなく気を配るところや器の大きそうなところは長作さん譲り、面倒見のいいところは正司さん譲りと言ったところか。正司さんと言えば目元や肌の色も似てたっけ?
 考えていると、いつの間にか私も顔を緩めていたらしい。長作さんは苦笑をやめて、普通に笑っていた。
 その後少し話をしてお見送りする時になり、長作さんはふと私を見た。
「……女遊びを教えなかったのは結果として良かったかもしれないが、女性への態度については教えたほうがよかったかもしれないな」
 と呟くように言って、私が曖昧な相槌を打つとすぐに何でもないから気にしないでくれ、と言って背を向けて歩いて行った。
 私と目があったわけではなくて、長作さんの視線は私の顔よりも下の方に注がれていた。……もしかして、薬指にない指輪についてのことなのだろうか。いや、まさかね。
 私は部屋に入って時計を見て、そろそろ仕込みを始めようかと再びエプロンを取った。



 結局十代や準が帰ってきたのは日も暮れてからのことで、きちんと大人になって帰ってきた準は前よりも一層恰好よく見えた。……うん、きっと小さいのがものすごく可愛かったから、その反動のせいだろう。
 三人で賑やかに食事をして、私は二人から事の顛末を聞いた。精霊の住む世界へとつながるポイントもあったものの、それよりなにより、なんと精霊が実体化していたらしい。随分と悪戯が好きなようで好き勝手に振る舞っていたようだ。本体であるカードはその近くに捨てられており、寂しくて仕方がなかったので、と言うのが犯行理由。結果準が引き取ることで解決したようだけど、準はものすごく不本意そうだった。それでもここから帰った先で捨てたりなんてことは絶対しないだろう。今後他の人が精霊の世界に迷い込むことがないよう十代が手を加えて、無事帰ってきたそうだ。
 食事も終えて正司さんに報告のメールを送って、準はさて、と切り出した。
「十代」
「おう」
 阿吽の呼吸は良いのだけど、私には何がなんだかさっぱり分からない。二人を交互に見ていると、
「じゃあな、
 十代に肩を叩かれて、私は少しの間その顔を凝視してしまう。
「え?帰っちゃうの?」
「まあな、解決したし」
 あっさりとしたもの言いに少し肩透かしを食らう。けれど、それもそうか。十代の旅はまだ続くのだろう。と言うより、十代はまだ旅を続けるのだろう。
「今日くらいゆっくりすればいいのに」
「それなら万丈目が部屋を用意してくれたぜ」
「現金だと換金が面倒だと言ってな。十代、貴様カードの一枚くらいは持て」
「めんどくさくってさ。それに現物の方が俺には助かるんだよ」
 そう言うわけだ、と言って手を振る十代を準と見送る。その姿が見えなくなったところで、準の手が私の腰に回ってきた。引きずられるように部屋に戻され、ドアが閉まる。
「準?」
「……」
 黙ったままの抱擁に、私も口をつぐんで応えた。
「お疲れ様」
「……ああ。、今日はすまなかったな」
 申し訳なさそうな声色ではなかった。まるで、ありがとう、と言われているようだった。
「私も楽しませてもらったから、気にしなくて良いのよ」
「そう言えば、もみくちゃにされたな」
 くつりと準の咽喉が笑う。次の瞬間、私は準に抱きかかえられていた。
「ッ!わ、え、ちょ、ちょっと」
「寝るか」
 準の声は酷く楽しそうだ。……よくない予感がするのは気のせいか。
 準は私を抱えながら器用に肘で部屋の電気を消して行く。その足が向かっているのは寝室だった。
「お、お風呂は?」
 ベッドにそっと降ろされ、準を見上げるとその指が私の頬を滑った。顔が近い。
「夜は寝る時間だ」
 私の問いに答えるつもりはないのか準は不敵にもそう笑って、私にキスをひとつ。そして私の左手を取ると、薬指にも唇を落とした。

 穏やかな声が私の名前を奏でる。そのまま押し倒されるように横になると、準がベッドに腰掛け、上半身だけを私の上に乗せた。
「お前の未来を、もらって良いか」
 これを言おうと思っていたのに予定が狂ったと準は笑う。
「それを――、この先にあるものを、今欲しい」
 私はその言葉をじっくりと噛みしめるように理解すると、一つ、頷いた。
 ずっと待っていたけれど、待っていてよかったと思う。だからこそ、返事の代りに私から準の身体を引き寄せた。
 その翌朝、私の左手の薬指は朝日を受けて輝いていた。

2010/08/27 : UP

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