ハニー

前編

 プロデュエリスト。その世界は見るものを惹きつけて止まない華やかな場所に見えるけれど、実際はスポンサーの存在なしではやっていけないほど厳しく、不安定な職業だ。そのスポンサーにも、付くだけに見合う実力と、デュエルに『華』がなければ認めてもらうのは難しい。それでも私がそんな世界を目指したのは、付き人と言う存在を見つけたから。自らが輝きを放つ場所に立つのではなく、彼らを裏で支えたいと、心から思ったからだった。
 そうして飛び付いた付き人と言う仕事は、はっきり言って激務以外の何物でもない。デュエリストのスケジュール調整もさることながら、体調管理も大切な仕事だし、デュエリストがつつがなく仕事をこなしていけるように全て取り計らうのだから、気が休まることはほとんどない。オファーはいつやってくるか分からないからだ。あるいは、こちらからつかみ取りに行くことだってある。
 それでもそんな激動の生活を五年間も過ごしてこられたのは、付いた人の人柄が、とんでもなくよかったからだ。それでなくても代わりのきく付き人と違い、プロデュエリストは原則、代行などいない唯一の存在だ。私だけ休みをもらうわけにはいかないと思ったのもある。その程度にはいろんな苦楽を共にしてきた。恐らくは、家族以上に。
 それほどの間、一人の人に付けてこられたのは幸運としか言いようがない。励まし、支え合うほどの信頼関係が築けたと、私は思っている。給料以上に与えられる満足感は計り知れなかった。
 ――信頼が、尊敬が、愛情に代わるまでに時間はかからなかった。あるいはもしかすると、出会ったその時から彼を好いていたのではないかと思うほどに。相手が相手だから、ある種それは必然だったのかもしれない。勿論そんなことは口が裂けても言えないけれど、彼に出来ることなら何でもしてきた。今までの原動力は全て、彼への愛からだと言ってしまえるほど、精力的に。
 そんな誰よりも大切なパートナーが今、苦悶の表情を浮かべ唸っている。頭まで抱え、はっきり言って常の彼からはあり得ないほどだ。
「……どうかされたんですか、万丈目さん」
 声を掛けると、今度は腕を組んで、大きなため息を。
「兄さんたちに見合いを勧められてな……」
「お兄様方に?」
「ああ。そろそろそういう時期だと」
 このパートナー、万丈目準と言えば、かの有名な万丈目財閥の三男坊だ。彼が二人のお兄様を大事に思っていることは知っている。彼の話によれば、昔は兄弟仲は良好とは言い難かったものの、現在は彼の思うようにしろと応援してもらっていて、彼もそれに応えたいというなんとも良い兄弟愛で結ばれているらしい。お兄様方はいい意味で彼の進む道に干渉することはないし、彼もまたお兄様方の権力と財力を頼ったことはないと聞いている。実際、私の知る限りではその通りだ。
「気遣ってもらうのはありがたいんだが……」
「確か、万丈目さんには想い人がいらっしゃいましたよね」
 言うと、彼の白い頬が赤くなる。普段なら絶対見られない顔だ。はっきり言って、その辺の女性より愛らしいとこっそり思っている。彼は恋愛の話になるとこうなるのだ。頭の中で『乙女モード』と呼んでいることは、私だけの秘密である。
「……そうだ。それを兄さんたちに言ったことはないが……。今回の件は、俺に相手がいれば何とか回避できる」
「お相手、ですか?」
 全く自慢にならないが、彼を慕う人、つまり彼のファンたちのおよそ九割以上は男性だ。また、彼自身も女性をとっかえひっかえするタイプではないのは言うまでもなく、想い人一筋の彼に、当てがあるとはとても思えない。まさかファンに頼むような人でない事は私がよく知っているし。もしや思い切ってその想い人に……と想像を巡らせている私に、思いもしない発言が投げられた。
佳代。恥を忍んで君に頼みたい。少しの間……少し先に開かれる海馬コーポレーションによるチャリティ・パーティに俺が参加するのは知っての通りだ。アレに兄さんたちも行くと言っていてな。飽くまで身内としてではなく参加者としてなんだが……その前日、挨拶に行こうと思っている。その時、君を恋人として紹介させてくれ」
「……は?」
「迷惑と負担を掛けてしまうのは重々承知している。しかしこんな事を頼めるのは君を置いて他にいないんだ」
 すまない。謝罪を伴ったその言葉を、私はどうやって受け入れたらよかったのだろう。きっぱりと断るべきだったんだろうか。それとも、これを機に告白でもすればよかった?
 不安そうな顔で私を見つめてくる彼は、こんなことまで付き人に頼るのは非常識だと分かっているようだった。当然だろう。元々何でも一人でやろうとしてしまう人だから、きっと彼も心中穏やかではないはずだ。だからこそ、彼のこの発言は私にとっても予想外だった。
「……申し訳ありません。あの、私ではお力にはなれないかと思います。その、外見と申しますか、あらゆる面において」
「そんなことはない。俺が言うんだからそこは間違いないぞ」
「ですが……あの、お見合いのお話そのものを受ける位ならよろしいのでは?そのまま即結婚というわけではないのでしょう?」
「それは、そうだが。何せ相手がいることだろう。こちらにその気が全くないのだから、そういうことは」
 渋い顔に、らしさを感じる。彼はいつだって自分に対して誠実だ。彼が彼であるために、胸を張っていられるように。不器用だと、人は言うかもしれないけれど、そんな彼だから今日までこの人の付き人でいられた。見ているこっちまで、彼の様にありたいと思わせる力を持っているのだ。
「あら、相手の女性のためなら、私に仮初めの関係を強いてもよいと?」
「ッ!……さっきも言ったが、この件で頭を下げられるのは君だけなんだ。この件に関して君に野蛮な真似はしないと約束する。飽くまで俺には恋人がいるのだと、兄さんたちに分かってもらえればそれでいいんだ」
「分かってますよ」
 私が渋ったのは、私が決して彼に愛情を持っていることを悟られないための振りだ。変に喜んで二つ返事で了承するのもおかしいし、かといって頑なに拒んでも、彼を嫌っていると捉えられかねない。それは本意ではない。でも、ちょっとでも、万が一にも彼に私が想いを寄せていることをほのめかせたら。そんな下心は気付かれたくなかった。複雑だ。彼も今複雑な思いでいるのだろうけれど、私だってきっと同じかそれ以上に落ち着かない気持ちでいる。
「そのお話、お受けいたします」
 それを殺して微笑みながら言うと、ようやく彼の顔から不安の色が消えた。
「いいのか?本当に?」
「私でよろしいのでしたら、精一杯やらせていただきます。……ただ、お兄様方にご納得いただけるような人間ではありませんので、その辺りのところはどうにも」
「いや、ありがとう。助かった」
 ほころんだ顔に、私も思わず安堵してしまっていた。彼のピンチに、私が動かないはずがないのだ。



 今回のパーティは日本で行われる。万丈目さんがそのパーティに参加するのは、その次の仕事が海馬ドームでのデュエルだからだ。原則としてデュエルは全てライブで行われるから、万が一にも遅れることがあってはならない。よって、前日か数日前にその国へ着いていた方がいい。そこで、そのタイミングに日本に滞在しているプロデュエリスト達へオファーが来たというわけだ。
 パーティは昼と夜の二部構成になっており、一日中開かれることになるわけだけれど、昼は主に子どもたちが相手になる。いやらしい話をすればその両親から寄付を募るという構図だ。子ども達はプロデュエリストと交流出来る珍しい機会であり、多くの参加者が来るだろう。そして夜は著名人を相手に開かれる。私がお兄様方に紹介されるのはその前日、つまり今日なのだけど、彼が少し前に連絡を入れたところ、私もパーティに出席するように言われてしまったらしい。それはつまり、その場所にいろ、と言うことだ。勿論圧力がかかっているわけではない。付き人としての仕事があるから、と私は断ったのだけど、彼から直接パーティを優先してほしいとまで言われてしまい、ごく限定された時間だけとはいえ、私は仕事の全てを他の人に任せることになってしまった。しかもその話自体は今日までにすでに終わってしまっていて、私に伝えられたのは今さっきだったからたまらない。
「……聞いてません」
「すまない」
 何故今までやってきた仕事を奪われなければならないのか。思わず非難めいた口をきいてしまって、私は慌てて頭を下げた。
「いえ、すみません。広義的にはこれも仕事ですし」
 本当に申し訳なさそうに謝らせてしまって、私は内心でため息をついた。いつでも彼が全力でいられるように立ちまわってきた。今日のこれも同じだし、何より自分で納得して引き受けたのだ。少々予定が変わってしまったところで、今になって文句を言うのは間違っている。
「あの、失礼ながら私、社交場に着ていくような類の服は持ってないのですが」
「問題ない。店を押さえてあるから、今からそこへ行く。そこで好きなものを選んでくれ。費用は気にしなくていい」
「そんな!そこまでしていただくなんて!」
 声をあげると、彼は薄く笑った。
「気にしないでくれ。佳代にこれ以上負担はかけるつもりはない」
 確かにあの財閥の人間に――しかも政界と財界で幅を利かせる重鎮だ――あまりにも安い服装では、とは思う。だからこそ、洋服一点にかかるお金を思うと青ざめてしまいそうなのだけど、彼は分かってないようだった。かといって、それを説く時間もなく、店に着くなり店員にがっちり脇を固められ、攫われるように店の奥へと連れて行かれてしまった。
 頭の先から足の先までご入用のものは全てご用意できます、と眩いばかりの笑顔を向けられた私に、もはや抵抗の二文字はなく。とにかくはしたないと思われるような格好は出来ないので、過度な露出は勘弁してくださいとお願いしておいた。今晩ご挨拶に伺う際の服と、そして明日のパーティ用のドレスと。装飾品も出来るだけ控えめに。化粧は、自分で何とか出来る範囲で留めてもらった。
 ほぼ全て終わったのは店に入ってから一時間以上経ってからのことで、私はやや疲れつつ彼の待つ店先まで急いだ。待合用の椅子に腰かけている姿は優雅そのもので、声を掛けることも躊躇われるほどだった。いつもなら、そう感じることなどないのだけど。
「万丈目さん、お待たせしました。こんなにかかってしまうとは思っておりませんでしたので」
「いや」
 私の声を受けて、彼の眼がこちらへ向けられる。その顔が驚きに染まっていくのを、ただ見ていた。そのまま、笑顔へと変わってゆくのも。
「よく似合っている」
「……そうですか?万丈目さんに恥をかかせるわけにはまいりませんから、お気に召したようなら幸いです」
「普段からそのほうがいいぞ」
「生憎時間がありません。……あの、最低限の身だしなみには気を使ってるつもりなんですが」
「言葉の文だ。君が俺の為に動いてくれているのは良く知ってる。……それより、言葉遣いをどうにかするか」
 俺の名を言えるか、と聞かれ、私はおずおずと、それを口にした。
「準、さん」
「……まあ、いいだろう。出来れば敬語もない方がいいと思うんだが……」
 私の反応を伺うように視線が注がれる。正直、名前も遠慮したい位なのに、これ以上なんてとんでもない話だ。飽くまで私は彼を尊敬しているのだと言い聞かせるための敬語でもあるのだから。
 サンダーと呼べ、敬語もなしだ。いいえ、了承しかねます。
 何度そうやってやり取りをしてきたことか。それを忘れたわけでもないだろうに。
「念の為聞くが」
「お断りします」
「……まだ何も言ってない」
 やれやれとため息をついた後、彼は中身は変わらんな、と笑った。そしてさりげなく肘を差し出され、私は躊躇いがちに彼の腕に手を添えた。
「あの、ま……準さん」
「なんだ」
「私、あまりこう言ったことには慣れておりませんので……期待しないでくださいね」
「俺も慣れてるわけじゃない。そう不安がるな」
 言葉とは裏腹に、彼は慣れた手つきで車のドアを開け、私を中へと促す。握った手が熱かった。



 挨拶に、と通されたのは高級ホテルだった。万丈目グループのホテルだから気兼ねしないようにと言われたけれど、私が身体を強張らせてしまったのはそこではなかった。遅めの夕食をご一緒したことでもなく、お兄様の、正司様から出たとんでもない発言に対してだった。ちなみに長男の長作様は時間の調整が出来ず、明日の夜にお会いすることになった。
「明日、お前たちの関係を公表しろ」
 恋人だと言って、意外にすんなりと信じてもらえたのは良かった。けれど、正司様の発言には固まらざるを得ず、私たち二人は少しの間口がきけなかった。
「正司兄さん、それは……」
「どうした?別にかまわんだろう。万丈目に取り入ろうとするやつは五万といるからな。早々に身の回りは固めておけ。利用されずに済む」
 正司様からするとこれは助言なのだろうけれど、さすがにそれをのむわけにはいかない。
「俺と佳代は、その、まだ婚約しているわけでは」
「それなら、明日すればいい。丁度いい機会だ」
「しかしパーティの目的はそんなことでは!」
「ついでだ」
 嫌に楽しそうな正司様と違い、私たちは冷や汗が止まらない。私は場違いだとは思いながら、あの、と口を開いた。二人から視線を受け、たじろぎかける。でも、ここで引くわけにもいかない。
「差し出がましいことは重々承知しております。ですが……お恥ずかしながら、私たちは恋人と胸を張れるようなものではありません」
「!佳代
 何を言うのか、と彼が焦ったように私を呼ぶが、私は彼を一瞥すると正司様を見た。
「と、申しますのも、こういった職業ですとなかなか恋人としての時間も取れず、デートなどと言うことも一切したことはありません。私に不満はありませんし、だからこそ今まで準さんのお側にいることが出来ました。……あの、ですから、私たちが恋人らしくなれるまで、お待ちいただくわけにはまいりませんか」
 まあ、意訳すれば『私たちのことは放っておいてくれ』と言うことなのだけど、正司様は納得したご様子だった。――と言うよりも、何処かひどく満足そうに笑ってらした。
「プロデュエリストと付き人は相当な激務をこなすと聞くしな。ならば今日は二人でゆっくり休むと良い。部屋もスイートに変更しておこう」
「え?」
「……は?」
「それでは良い夜を」
 正司様が手をあげると、どこからともなくボーイが現れて、私たちはあれよあれよと言う間に部屋まで案内されてしまっていた。とにかく棒立ちになり、たっぷり十数秒間を置いて、私が口に出来たのは謝罪の言葉だった。
「申し訳ありません……」
「いや。……とにかく明日の公表は免れたようだから、感謝しているくらいだ」
 疲労の浮かぶその上に笑顔を上乗せして、万丈目さんはそう言ってくれる。私はひとまず休ませねばと彼の上着をハンガーにかけた。その間に、彼は寝室へのドアを開ける。
「ベッドは一つか」
「ま……準さんが使ってください。私は居間のソファで十分ですので」
「そういうわけにはいかん。佳代が使うんだ」
「ダメです」
佳代
「……準さんが使うことを前提にするなら」
「自分が何を言っているのか分かってるのか?」
「当然でしょう」
 眉をひそめる彼に私もつられる。
「あなたには休息が必要です。より安らげる環境で眠っていただきませんと。私のことはお気になさらず」
「そういうわけにはいかないとさっき言っただろう」
「ご納得いただけないのでしたら、今からでも正司様に本当のことをお話して、別の部屋を用意していただきましょう」
 きっと彼は女性を差し置いてベッドを使うことを許せないだろう。かといって私も引くつもりは毛頭ない。彼も自分の体調を把握できているからこそ、ベッド以外の場所で寝ると強く言ってこれない。彼の身体は彼一人のものではなくなってしまったから、こんなことで身体の調子を崩せるわけがない。
 折れたのは、勿論彼の方だった。
「では、窓側は俺が使わせてもらう。君はドア側だ」
「かしこまりました」
 最後の気遣いだけはありがたく受け取った。こと異性への振る舞いについてはひどく紳士なのだ。五年もの間、私たちの関係がプロデュエリストと付き人の域を超えなかったことが何より彼の紳士さを証明している。……私にそれだけの魅力がないということかもしれないけれど、彼はあくまで私を異性として扱っていることを踏まえれば、どれほど私が恵まれているか分かるというものだ。
 彼は私を裏切らない。だから、私は今ここにいられる。今回のことは完全に彼のプライベートな問題だけれど、だからと言って普段と態度を変える彼ではない。
 目を閉じると、すぐ眠りに落ちた。
 ベッドが素晴らしく柔らかかったからかもしれない。久々に夢を見た。彼に名を呼ばれ、ベッドの中で抱き寄せられる夢だった。声も匂いも、現実のもののようで、けれどあんまりにも心地よくて、これは夢なのだと分かる。そして夢の中でもう一度、私は意識を手放した。
「――……」
 うっすらと目を開けると、窓から柔らかい光が差し込んでいた。あまりに穏やかな朝に、しばらくそのままでゆっくりと瞬いた。そこで何か足りないことに気付く。遅い動作で居間へのドアを開くと、部屋の明かりがすでについていた。
「おはよう」
 声を掛けられ、ソファへ視線を移すと、そこで万丈目さんが紅茶片手にくつろいでいた。そうだ、窓側を見たのにベッドに彼がいなかったのだ。それだけじゃない。私が目を覚ましたのはベッドの真ん中だった。
「お、おはようございます……」
「朝はコーヒーだったな。今淹れる」
 彼がソファから立ち上がり、穏やかに、上品な動作で彼がポットの上にドリップを乗せ、コーヒーフィルターと豆を出してセットするのを、私は茫然と見ていた。彼がケトルを火にかけた次の瞬間、真っ青になって駆け出す。
「あっ、あの!!」
「どうした?」
「万丈目さんより遅く起きてしまったのにあまつさえコーヒーまで淹れていただくなんて……!!って!そうではなく!昨晩、本当にちゃんとベッドで寝ていただいてましたよね!?まさか途中抜け出してソファがどこかで眠ったなんてことはありませんね!?」
 彼の側まで言って問い詰めると、彼が言葉に詰まったのが分かった。あれほど言ったのに、と更に口を開こうとすると、手で制止されてしまう。
「俺はちゃんと朝までベッドで眠った。たまたま早くに目が覚めたから、ソファに座っていただけだ」
「……ではどうして私が真中に寝てるんです?」
 私はそんなに動く方ではない。
「俺は嘘はついてないぞ」
「ええ。嘘はついてないでしょうが、何か私に言ってないことがありますね?」
「う」
 デュエルでは大胆不敵、時には演技さえするのに、普段の彼は何かを隠すのがとても下手だ。
「で、私がベッドを占拠していた件について、ご説明がまだですが」
「……君があまりにも端で寝ていたから、落ちると思ってもっと真ん中に寄ってくるように言おうとしたんだ。それで起こそうとして手を伸ばしたらその上に君が寝がえりを打ってだな……。とにかく真ん中へと思って移動したら、その、そのまま服を掴まれて、外すに外せなくなり……」
 徐々に顔を赤らめていく彼に、私もつられて赤くなってしまう、かろうじて口が開けたのは幸いだった。
「それは……何と申し上げれば……いえ、申し訳ありません。あの、睡眠時間の方は……?」
「眠るのは眠った。本当に早く目が覚めただけだ。目覚めも良かったからそのまま起きていた」
 困ったように微笑む彼の頬はまだ赤みが引かず、愛らしく見えた。寝ていたとはいえ、乙女の彼には酷なことをしてしまった。申し訳ない思いでいると、彼が気を取り直すように笑った。
「モーニングを頼んでおこう。その間に身支度を整えてくれ。……まさかコーヒーだけでは足りんだろう?」
「あ、はい。ありがとうございます。あの……」
「?」
「すみません、こんなことは本来なら私が」
 しなければ、と続けようとすると、また制されてしまった。火を止めて、コーヒーを淹れながら彼が笑う。
「構わん。いつも俺が世話になっているのだからな。……休暇とは言えないが、今回はなるべく君も休んでくれ。君には契約以上のことをやってもらっている」
 あと、すみませんは要らん。礼だけで十分だ。
 続けられた言葉に、私は深く頭を下げた。これだから、この人が好きなのだ。

2010/07/11 : UP

Next»