お嬢様とお坊ちゃま

 ――海馬ドーム中に、地鳴りのような歓声が響いていた。鼓膜を震え上がらせ、肌を刺すほどの。
 その中央に立つのは紛れもない最愛の人。漆黒の衣装に透き通るような白い肌が映えている。学生時代と変わらないスタイルに、私は昔を重ねていた。


「婚約の話は白紙に戻す。オレ自身に価値がないのでな。――好きに生きろ」
 言葉の割にその声は今まで聞いた中で一番力強く、ゆるぎなかった。親同士で決められた婚約関係。よくある話。しかし高校に入学した年の夏休み、突然の彼の訪問は予想外であり、黒くすりきれたコートに身を包んだ彼が放った言葉もまた、私の思考の遥か上をいっていた。元々この関係にまで至ったのは互いの家の、利害の一致による。と言っても我が家は生粋の上流階級ではない。バブル時代成功しただけの言わば成金であり、中身は特別野心に燃えるわけでもない平凡な一般家庭と変わらない。そんな中育った私と、万丈目グループの三男坊との婚約話が持ち上がったのは、相手側のアプローチによるものだ。万丈目グループの野望のため、私に――私と彼に、と言うべきだろうか――白羽の矢が立った。私が海馬コーポレーション系列の会社社長の娘だったから。ただそれだけの理由だった。断るなどと言う選択肢は握りつぶされる。受けるしかなかった。
 それでも私にとって、それは何よりのチャンスだった。相手の三男坊、万丈目準の中に薄暗いものを感じて、私は思ったのだ。付け入り、依存させる隙があると。当時は威張り散らしながらもどこか危うげな気配を見せる彼を支えたいと思っていたつもりだったけれど、要はそういうことだ。獰猛な獣を手懐けることで、私は自分の価値を高めたかったのだ。それは紛れもなく支配欲だった。『飢え』をにじませる瞳。彼が持つそれを満たすことで、私もまた、優位に立ちたかった。その部分において、私と彼は似ていたのかもしれない。
 だから、一方的な婚約を突きつけられても、私は全く気にしなかった。むしろ否定的だったのは父の方で、自由恋愛派の父はよく私を気遣ってくれた。そしてやはり一方的な婚約解消に父が戸惑いながらも安堵した時こそが、私が最大にショックを受けた時だったのだ。父の喜びにも似た慰めの手のひらを背に感じながら、私はただ呆然と我が家をあとにする彼を見送った。私が彼に抱いていたあらゆる想いを少しも外に漏らさなかったのは、果たして良かったのか。それは今でもわからない。
 万丈目家に振り回された私の環境を憐れんだ父は、すぐに手を尽くそうとしてくれた。具体的にはアメリカ・デュエルアカデミアから一般高校への編入を。けれど私はその話をこそ蹴って、そこに留まった。ソリッド・ビジョン・システムに興味があったからだ。父には私が自分のプライドのために意地になっていると思われていただろうけれど、それでも良かった。そのわずかな興味がなければきっと私は自暴自棄になっていただろうから、理由が違うだけで、その本質は同じだった。
 獣を手懐けるのは難しく、私と彼が知りあった時、すでに虚栄は彼の皮膚と化していた。それでも時間を掛ければいつかは、と私の心はより彼の心を得るということにばかり囚われていた。今思えば、見事にミイラ取りがミイラになっていた。――だからこそ、もう一生それを達成する権利も、機会さえも失ってしまったことは衝撃だった。悲しさ、悔しさ、惨めさ、憤り、どれでもない。私の胸に確かに存在していたのは、どうしようもなく強い喪失感だけだった。
 失意の日々。心の中にくすぶり続ける物足りなさを埋めるように学業に精を出した。そんなことで埋められるようなものではないと知りながら、私に残された方法はもう、それしかなかった。それでも同時にそんな自分を憐れんでいた程度には、私は冷静だった。想いと思考を分断しなければやってられなかったのかもしれない。埋めるように、と言うよりは、私自身が埋もれたかったのだ。
 そんな私の行動は思いがけない転機を与えてくれた。ソリッド・ビジョン・システムの開発元は海馬コーポレーションで、その技術開発は今もなお本社のある日本で行われている。同様に、技術を学ぶ場でもあるアカデミアにおいても、その内容は日本の方が進み、優れている。
 留学しなさい、と教師に言われたのは二年に上がる直前。きっと今以上に素晴らしく成長できるだろうと推薦をもらって、私は万丈目準のいる日本のデュエル・アカデミアへの留学を果たした。日本人でありながらアメリカのスクールへ入学したのはコネ作りと語学留学を兼ねていたからで、それ以上の理由もなかった私は反対する理由もなかった。教師は純粋に、語学で不自由がない分、日本でも思い切り勉強できるはずだと思ったんだろう。驚くほど何の障害もなく、話は滞りなく進められた。
 再び手に入れたチャンス。それを、私は自分で手放した。
 だって日本で見た彼は、すでにあの危うげな空気など、かけらも残していなかったから。自分の芯となる、確固たるものを見出し、手に入れた顔を、姿をしていたから。
 彼に価値がないのではない。価値がないのは私の方なのだと知ってしまった。
 それを認めた瞬間、胸に走った痛みに、失恋をしたのだと自覚した。そしてその時まで彼に恋をしていたわけではなかったのだと知った。私は失恋してから、同時に、恋をした。その言い方はおかしいかもしれないけれど、理解した順番をたどればそういうことになる。私は今までの彼ではなく、黒いコートを身にまとい、私の家に婚約解消を言いに来た時と同じ姿で立つその時の彼に、恋をしたのだ。だからこそ今まで彼に対して抱いていたものが単なる下心であると気付いたのだけれど、何もかもが遅かったのは明白だった。
 彼と婚約していたことは他の皆には明かさなかった。既に終わった話なのに、わざわざ掘り返すこともない。それに、分かったのだ。彼の心を捉えた存在が。
 遊城十代、あるいは天上院明日香。それぞれ種類は違うものの、間違いなく彼が固執する人。――そのどちらもが持っているもの。デュエリストとしての強さだけではない、心の強さ。なにより、その心の温かさ。私が彼に対して抱いた下心もなく、なんのかけ値もない優しさ。私が見抜いておきながら持ち得なかったもの。彼が、欲していたもの。彼はそれをこの学園で得てしまっていた。何の価値もない私がしゃしゃり出たって、太刀打ちできるはずもない。
 たった一人留学してきた日本人とあって、私の存在は広く知られていたけれど、必要以上には関わらないようにした。いろんなものを見失って、一つだけ確かだったのは彼への想いで、それを頼りに日々を過ごしていたように思う。
 留学期間は一年。同じアカデミアとあって単位は日本でも取れた。それが終われば、またアメリカへ。寂しい、とは思わなかった。日本で授業を受けて、日本の大学院へ進もう、と決めることが出来たから。
 好きに生きろ、と彼は言った。もとよりそのつもりだ。ただ、彼を好きになってしまうとは思わなかったけれど。
「随分と人気だな」
 帰国を控えたある日、灯台に立っていたところを彼に捉った。捉ったというよりは、声を掛けられたと言った方が正しかったのか。何人目かになる、告白の呼び出しを受けた後のことだった。
「私がアメリカに帰るから、その記念ですよ。きっと」
 答えると、少しだけ彼の顔が曇った。彼に対する敬語が抜けないのは癖なのだけど、この学園に来て彼はそれを嫌がっていたからそのせいだ。もっとも、人の好意に対する無礼さに気を悪くしたというのもあるだろうけれど。
 実際、そう思っているわけじゃない。度々ある告白に、なるべく丁寧に言葉を重ねて断ってきたつもりだ。想いが通じない辛さを、切なさを知っているから。でも、彼の言葉にはどう返せばいいか分からなかったのだ。
「その記念には付き合ってやれんようだな」
「そうですね。……私にも、想う人がいますので」
 彼は私の隣に立ち、私と同じように海を見つめた。その顔からはどんな感情も読み取れない。
「貴様との婚約解消は正解だったか。アレはオレの為にも、そして貴様の為にもよかったというわけだ」
 それは、彼なりの祝福の言葉だった。オレの為にも、と言うのは彼もまた天上院明日香を好いていたからだろう。去年ラブ・デュエルを仕掛けて恋にもデュエルにも破れてしまった、と言うのは日本に来てからそれとなく耳に入ってきていたものだから、私は今さらそのことには触れなかった。
「そうですか?私は、あなた以外に男を知りませんのに」
「そういう言い方はやめんかッ」
 顔を赤らめて語気を強める彼を見て、私は自然と笑っていた。こんな風に表情が豊かになったところを見ると、心がざわめく。愛おしい、と思うと共に、自分が彼を変えたわけではないことに僅かばかり心がささくれ立つのだ。それが独占欲だと気づくまでに、私はかなりの時間を要していた。
「私の胸にいるのは、今も昔も、準。あなた以外にいないんですよ」
 そういう意味です、と言うと、彼はまた表情を消した。私の前では基本的に感情を消す人なのだ。今までは何とも思わなかったけれど、何故かその時だけは妙に淋しく思えた。
 だまって、二人で海を見つめる、打ち寄せる波の音を聞く。潮風にさらされ、髪が乱れるのもかまわずに。彼がその胸に何を抱いているのかは分からなかったけれど、私は酷く落ち着いていた。
小夜子、オレは」
「いいです」
 何故彼の言葉をさえぎったのかは分からない。分かり切った答えを、ほかでもない彼によって告げられるのが怖かったからか。
「あなたの成功を願っています」
 彼に向き直る。何か言いたそうに眉を寄せる彼に、笑みがこぼれた。彼に出逢えたことは、間違いなく幸福なことだった。与えようとして与えられ、手に入れようとして奪われた。強く感情を引き出され、揺さぶられ。多くのものを彼から学んだ。
「ありがとう」
 だから、そんな言葉が『愛している』というそれよりもはるかに、相応しく思えた。



 あの時よりも大人びた彼が、壇上に立っている。それもそうか。当時高校二年だった私は、もう院生として三年の時を過ごしているのだから。あれ以来全く男っ気のなくなった私を家族は心配するのだけれど、今でも彼を思っているから、それは仕方のないことだ。
 今になっても私の頭に、胸に――心にいるのは万丈目準ただ一人きりだ。だから今日のデュエルを見るために、わざわざ海馬ドームまでやってきた。このデュエルは特別なのだ。プロデュエリストが一堂に会し、闘い、その頂点を決める。彼は最後まで残り、そしてつい今しがた栄光のトロフィーを手にした。花束が渡され、司会者によるインタビューが始まる。けれど彼はそれを無視するようにマイクを奪い取ると、一つ咳払いをした。
「まず、忘れてはならないのが、オレを応援してくれた者たちへの感謝の言葉だ。礼を言うぞ、皆の衆ッ!」
 彼の言葉に呼応するように、すこしおさまっていた歓声が再び大きくなった。ありがとう、と彼は言ったのだろうけれど、もはや聞こえない。サンダー、と彼の愛称が何度も波のように繰り返される。私は声も出せないまま、彼を見つめていた。
小夜子さん」
「!」
 この状況では仕方ないだろうけれど、気分が高揚して周りを見ていなかったせいで、私はびくりと跳ねた。振り向くと、そこには学園時代少し話をしたことがある程度の顔見知り、丸藤翔が立っていた。兄である丸藤亮とともに、新しくプロリーグをつくったと聞いたけれど……。
「どうして、え?」
「この大会、ボクはスタッフとしても動いてるから、ちょっと職権乱用して小夜子さんの席を調べさせてもらったんだ。……それより、ボクと来て」
 悪戯っぽく笑う彼だけど、PCデータの中から観客の名簿やら個人情報やらを私的に見るって、笑い事じゃないはずだ。
 目を丸くする私を引っ張って、丸藤くんは私をドームの会場から連れ出した。
「あの、まだ私外に出るつもりは」
「大丈夫、僕が来てほしいのは外なんかじゃないから」
 もっと良い所だよ、と彼は笑顔を崩さない。そのまま関係者以外立ち入り禁止のスタッフルームを通り、私はさらに首をかしげた。混乱すらしている。廊下や各部屋にそれぞれ設置されたテレビには、ライブ中継で流されているものと同じ映像が映っている。彼のアップと、凛々しい声で行われている演説。大会の締めの言葉も兼ねているのか司会者が置いてけぼりだ。
「こっちだよ」
 いつの間にか随分奥まで来ていたらしい。彼の様子ばかり気にしていた私に、にこやかな笑みで丸藤くんが道を開ける。
「ここって」
「さ、行こう」
 戸惑っていると、丸藤くんに背を押されそのまま前に連れて行かれる。その先は、まぎれもなく私たちがさっき後にした場所であり、今も彼が立っている会場だった。歓声の中、彼がこっちを見る。――目が、あった。
 ざわりざわりと何かが反応する。それを感じて、私は忘れていたのだと知った。彼がどれほど私に対して影響力を持っているのかを。
「今日、オレはこの大会を制した時言おうと思っていたことがある」
 ドーム内に響いた彼の声に、カメラのフラッシュと歓声が引く。
「ある女性に向けてだ。……小夜子
 彼のまなざしとともに、私へ、ライトが当てられた。心なしか、ドーム全ての目が私に向いている気さえする。たじろいだ私の背を受け止めたのは丸藤くんの手だった。
「返事をするのに今日ほど相応しい日はない。あの時引き留めてでも俺の気持ちを伝えなかったのは、その資格はないと思ったからだ」
 ひた、と彼に見つめられたまま、目が離せない。こんなに見つめあったのは初めてだった。
「今でも俺を想ってくれているか分からないが」
 彼が息を吸い込む。
「好きだ!オレと、結婚してくれ!」
 その時、不思議と周りの音が聞こえなくなった。ただ丸藤くんが、イエスならキスしてあげれば喜ぶよ、と耳打ちする声だけを認識すると、私ははじかれたように彼に向かって駆けていた。トロフィーを左手に掴み、その腕で花束を支え、右手にマイクを持つ彼の胸に飛び込んだ。首にすがりつき、頬にキスを。彼は照れながらも愛してる、と小さくささやいて、器用に花束で私たちの顔を隠してしまうと、私の唇に、彼のそれをしっかりと重ねた。
 ひやかすような指笛とともに歓声が戻ってくる。彼は一度私に微笑むと、すぐに観衆を見まわして、声を張り上げた。
「今日と言う日を、そしてオレの名をその胸に刻み込め!――オレの名はッ!」
「一!」
「十!」
「百!」
「千!」
「万丈目、」
「サンダーッ!!!!!!」
 ドームは、怒号にも似た声で繰り返される彼のコールで埋め尽くされた。彼は何処にそんな力があるのか、司会者にマイクを押しつけると、私を抱き上げ会場を後にした。連れて来てくれた丸藤くんと司会者が苦笑気味に肩をすくめるのを見ながら、私は彼の控室まで攫われるように連れて行かれた。
「……あの」
「ん?」
 控室で降ろされ、ようやく私の興奮で沸いてしまった頭にも冷静さが戻ってきた。スタッフは気を利かせてくれているのか、部屋には付き人すらいない。
「先ほど、返事をする資格はないとおっしゃっていたのは」
 彼の説明抜きには分からないことを尋ねると、彼は少しの間を置いて口を開いた。
「当時、オレはすでにお前に惹かれていた。しかし勝手に婚約し、その解消までした手前、そんなことは口が裂けても言えなかった。当然だろう?」
 少しばつの悪そうな顔をする彼を、私は茫然として見つめた。
「だって、あなた、天上院さんを」
 詰まる咽喉を押し切ってその名を出すと、彼は誰から聞いたんだ、と目を丸くした。女子寮で分からないゴシップと噂はないと曖昧に答えて、私は彼にその先を強請った。
「惹かれていた、それは間違いじゃない。あの学園で、お前がどれほど男の目を引いたと思ってる」
 オレもその一人だった、と告白する彼の声は明らかに苛立っていた。それは、嫉妬だと思ってもいいのだろうか。
「でも私、あからさまにその、異性の気を引くようなことをした覚えは」
「分かっている。……いつも心ここに非ずといった姿が、見ていられなかった」
 思い出しているのか、声のトーンが落ちた。その言葉の裏を感じて、私は、それは責任感からのものです、と呟いてしまっていた。気落ちしていた当時の私に庇護欲を――あるいは、私がかつて彼に対して抱いていたものと同じ支配欲を――かきたてられた人がいてもおかしくはない。
 彼は私の言葉に苦笑して、惹かれてはいたが、好きではなかったのだろう、と否定はしなかった。けれど、それは確かにきっかけだった、と。
「でも、……あなたはいつだって、私の前では強張ったような顔ばかりで」
 話を聞くにつれ、夢が覚めていくような心地がした。疑問ばかりが頭に浮かび、懐疑心が芽生えていくのを止められない。
「どうすればいいか分からなかったんだ。万丈目の名前抜きに、お前は初めから、オレという人間を見ていただろう。そんな風に、誰かに好意を向けられたのは初めてだった。だから、正直持て余していたんだ」
 はにかむ彼に、私は困惑してしまっていた。下心があったのだから、そのように振る舞うのは当然だ。けれど彼は気付いてないのか、はたまた気にしていないのか、お前の想いは知っていた、と微笑んだ。
「いつもオレの前では寂しそうな眼をしていた」
 そこで、気付く。私はもしかして初めから、彼に焦がれていたのだろうか。支配したいと思いながら、同時に支配してほしかった?
「今でもそれは変わらんようだな。……敬語の癖が抜けていないことだけは少々不服だが」
 まあ、時間ならある。と、いつかの私が考えていたのと同じことを彼が口にする。
「余所余所しいのもあるが、取巻きじゃないんだ、やめてくれ」
「……善処します」
 応えると、彼は満足そうに笑って、ポケットから何かを取りだした。
「では改めて言おう。……オレと、結婚してくれないか」
 私の前に出されたのは、エンゲージリングだった。
「今は立てこんでいてなかなか時間がとれん。式もいつになるか分からんが……それでも良いか?」
 必ず式を挙げるつもりでいる彼に、私が出来る返事など、一つしかなかった。否、きっと彼が相手だったからこそ、あのときの婚約も嫌じゃなかったのだ。
 彼はひたすら首を縦に振っているだけの私の左手を取り、そっと指輪を通す。それは、とても神聖な儀式のように思えた。
 左手の薬指で光るそこに、彼の唇が触れる。――涙がこぼれた。
「好きです」
「ああ、知っている」


 泣いてしまったのが恥ずかしくもあり、私はそう言えば、と言葉を取り繕った。
「今日私がここにいなかったら、どうするおつもりだったんですか?」
「いなくても言うつもりはしていたぞ。そうすればテレビ中継で流れるだろう。新聞にも載る。無視はできん」
「まあ」
「翔には感謝している」
 借りが出来た、という彼は酷く満足そうだ。
「なら、感謝ついでに早くここを出たほうがいいよ」
「!」
 いきなり飛び込んできた第三者の声に驚き見ると、入り口で丸藤くんが立っていた。
「記者が押し掛けてる。フォローするにも限界があるし、何よりまだボクたち裏方の仕事は終わってないから手間なんだよね。……小夜子さん、こういうの慣れてないんでしょう?今日はとりあえずこのまま二人で逃げたほうがいいよ。車なら付き人の人に手配しといてもらったから」
「恩に着るぞ」
「どういたしまして」
 世界中を飛び回るプロデュエリストさまさまと言うべきか、彼は身一つですぐに部屋を出ようとした。その間際、丸藤くんに声を掛ける。
「丸藤くん、ありがとう」
「お幸せに」
 祝福の笑顔に見送られて、私たちは控え室を後にした。記者会見楽しみにしてるから!と丸藤くんの声を背に受け、走る。力強く握られた手を、握り返した。

2010/07/21 : UP

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