その後のお嬢様とお坊ちゃま

「……いいのか?本当に」
 部屋の中で散々カタログを散らかした後、婚約者が言い放ったのはなんとも愛らしい台詞だった。
「出来れば、それはベッドの中ででも聞きたいものね」
「茶化すなッ!オレは、真面目に訊いているんだぞ」
「あら、私も真剣に答えたつもりだけど?」
 残念ながら彼の多忙さと乙女さ――女性らしさというよりは思春期の女の子が好んで読むような少女漫画的展開を夢見るその性質を言いたいのだけど生憎私はこういう表現しか思い浮かばない――によって、式の準備までこぎつけた段階だというのに未だ甘い夜を過ごしたことはなく、彼をからかいがてら本音をこぼしてみたのだけれど、やはりというかなんというか、彼がそれに気づくことはなかった。いわゆるOKサインなのに、見過ごされているこちらの身にもなってほしい。
「全く……話をそらすな」
 彼はため息をつくけれど、それをしたいのは私の方だ。言いたいけれど、神経質になっている様子の彼に愛しさがこみあげて来て、本当に私はこの人抜きには立ち行かないのだと思い知らされるだけだった。ため息どころか、口元が弧を描くのを我慢できない。
「今更どうしたの?嫌になっちゃった?」
「そんなワケなかろう。しかしだな、その、今までお前に何もしてやれんかったというのに、お前はそれでもいいと思ってくれているのかと」
 もごもごと目をそらす彼に、私は随分と大切に思われているのだと気付かされる。全く、プロポーズをしたのは彼の方だというのに、彼の方がマリッジ・ブルーにかかるとは一体どういうことだろうか。しかも相手が私で良いのだろうか、という不安ではなく、私が彼を受け入れているのだろうか、というところにそれを感じるあたり、なんだかとても彼らしさを覚える。そんな可愛らしい様子を見ていると、私は不意に良いことを思いついた。
「ねえ、準」
 フローリングの上にちりばめたカタログを押しのけ彼の隣に移動し、ぴったりと寄り添うように密着する。恥ずかしいのか照れなのか、逃げる彼の腰をしっかりと両手でつかんで、その胸に顔をすりよせた。
「私がお願いすれば、何かしてくれるの?」
「オレに出来る範囲でなら何でもするぞっ」
「……本当ね?」
「男に二言はない」
 見上げると、うっすらと頬を染めながらもいつもどおり力強い瞳で私を見る彼がいた。
 ――私に向けられる表情の一つ一つが愛おしく、胸が苦しくなる。既に欲しいものはこうやってたくさんもらってしまっていることを、彼は知っているだろうか。
「じゃぁ、私、赤ちゃんが欲しいわ」
「は」
 逃げるのをあきらめた彼から手を外し、今度は首元へ持っていく。タートルネックの上から鎖骨をなぞると、彼の身体が強張った。これで、分からないなんて言わせない。
小夜子、」
「準は、嫌かしら」
 焦る彼の声に被せると、彼は答えかねたようにじっと口を閉ざした。それを開けるために口づける。何度もついばんでいると、徐々に彼の身体から力が抜けてきた。
 そのまま押し倒して胸に手を這わせると、衝撃のせいで我に返ったのか両肩を強く掴まれた。
「っ……こら」
 はっきり言って全く覇気がない。あんな派手なプロポーズをした度胸は、今はどこかへとナリを潜めているようだ。
「式の打ち合わせ中だろう」
「イヤ?」
「それもまだこんなに日が高いうちからなど」
「カーテン閉める?」
「……カタログの片づけを」
「いつでも出来るわ」
「皺などつけるわけにはいくまい」
「じゃぁベッドへ行きましょ?」
 なんとかこれ以上を避けようとする彼にキスをして追い詰めていく。彼が私を嫌がっているのではないか、という不安はない。単にこういうことに関して立場を重んじているのだ。例えば、例えお互いが好きあっていようと、恋人でない限りキスはしない、とか。誠実で紳士だとは思うけれど、今は少々じれったい。
「赤ちゃん、欲しくない?」
「そういうわけではないが……ッ。その、だな、まだ夫婦にもなっていないのにそれは」
 ほら来た。
「なら、欲しいものを変えるわ」
 淑女としての最後の砦――恥じらいなんてものは、相手が攻めてきてこそ真価を発揮するもの。今の私には無用の長物であるそれを捨てることに、何のためらいもない。
「あなたが欲しいの。キス以上のことをしてほしいの。……今すぐに」
 支配してほしい。彼以外何も入る隙間がなくなるほど。彼以外何も考えられなくなるほど。そして同じくらい、私に支配されてほしい。
 薄く開いた彼の口を、その声が漏れないうちにまたふさぐ。私の肩を掴んでいた両手が、腰に伸びた。私の口付けに、彼が応じる。私はそっと彼の下腹部を撫であげた。
「ッ!」
「あ」
 勢いよく彼が身を起こす。……念のために付け加えると、彼の上半身が、だ。抱きしめられ、彼の腕の中で目線を上げていくと、とがめるような顔で睨まれた。こら、と怒られる。
「どこでこんなことを覚えたんだッ」
「……準、私たちが成人してどのくらい経ってると思ってるの?全く知らないほうがおかしくないかしら」
 大体、保健体育の授業でだって習うことだ。その、テクニックではなくて、刺激で反応する、ということは。
 私が呆れた声をあげても、彼は何事か考えるように黙り込むだけで何も言い返してこない。かと思うと、ただじっとわたしを見つめて、それからゆっくりと、唇を寄せた。ちゅ、と音を立てて彼のそれが離れる。その瞳が潤み、かつて見た飢えにも似た熱が込められるのを認めて、私はほっと息をついた。
「……ね、不安はとれた?」
 微笑みかけると、彼が目を丸くする。そしてその双眸を細めて、酷く優しげに笑った。
「ああ」
 頬に、瞼に、鼻に、耳に、キスが降る。彼の唇が徐々に下がり、首筋で、鎖骨へ、胸のふくらみへと移動する。手は私の腰を足を這いまわり、内ももの上を中心に向かって撫でられ、声が漏れた。優しくて温かい手に、身体が強請るように動く。
 ゆっくりと彼に押し倒される。部屋の明かりがまぶしくて腕で顔に影をつくった。その手を取られて、代わりに彼の頭で影が落ち、床に縫い付けられた私は彼をじっと待つ。恥じらいが戻ってきそうなほど口づけられ、彼の手が私の服の中に入ってきたところで、大事なことに気付いてしまった。
「準、ちょっと、待って」
「……ベッドがいいか?」
「それもいいけれど、その前にお風呂に入りたいわ」
「オレは気にしないが」
「私は気にするの」
 下着も可愛くないし、と呟くと、彼が吹き出した。
「今から沸かすか」
「ええ」
「なら浴槽を洗ってくる」
 少しばかり楽しそうに、彼はすぐ風呂場へと行ってしまった。回避できてうれしい、というわけでもなさそうだったけれど……。すぐ戻ってきた彼に尋ねると、まずキスをされた。
「入れながら入ればいい」
「一緒に?」
「そうだ」
 調子が出てきたのか、彼は私を立たせると先に準備するように言って、自分は財布を手に持った。一緒に入るのではないの、と訊くと、すぐに戻る、と返された。
「子どもの件はまだしばらく待ってくれ」
 出掛け際にキスをもらって、ようやく彼が避妊具を買いに行こうとしているのだと気付いた。……私から仕掛けたとはいえ、彼がそこまで乗り気になってくれるとは思わなかった。あるいは、この隙に本当にそれでいいのか考えろ、ということだろうか?考え過ぎか。
 彼を出迎えるべく、私はタンスの引き出しを開けに奥へと引っ込んだ。今のうちに下着でもかえておこう。彼が私に与えたつもりでいる――かもしれない――猶予は、私ではなく彼自身に対するものなのだと、思い知らせてやろう。そんな取るに足らない時間は、私にとって彼を最後まで追い詰めるための仕上げにすぎないのだと。
 果たして彼がどんな顔であの買い物をするのかと思うと、私はこみあげてくる笑いを押さえられなかった。彼には悪いけれど、仕事の合間をぬっての式の打ち合わせは今日はもう無理そうだ。散らかしたカタログも、彼が本来の予定を思い出さぬよう片づけてしまおう。ほくそ笑んだ私はさぞや悪い顔をしていたことと思う。
 次に玄関が閉まった時、彼に逃げるという選択肢は消える。私はおそらく今までで一番輝いているだろう笑顔を浮かべながら、その『準備』に取り掛かった。

2010/07/23 : UP

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