FUCK YOU GOD!
全くこれだからお前ってヤツは!
21ST STAGE: You always touch my heartstrings.
頬にさした痛みに一瞬全てが吹き飛んでただ何も分からない中でただ一つはっきりとしていたのは酷く屈辱的だったと言うことだ。痛みは大したことはない。ただまともにそれを受けた自分が恥ずかしくて煩わしくて惨めな気がして、それが『屈辱だ』と感じる心を更に刺激していた。
心臓がタールで黒くなった様に感じた。
人の気配がする。それはさっきからしていたもので見事に私を囲う様に円形になりまるで円形劇場の舞台に立ったみたいにして私は、そう、とても滑稽だった。兎に角、滑稽だった。
先ほどまでしていた心配するやら焚き付けるやらここぞとばかりに野次を飛ばしてくる声は静まり返り、嫌な視線を投げかけてくる奴らのそれもその意図が吹き飛ぶほど、今は兎に角静かだった。
じん、と漸く叩かれた頬が私に語りかけてくる。
「……ぁ」
掠れた声が空気を震わせた。目の前にいるのはリナリーだ。彼女は私の頬をさしたその手を庇うように、戒めるように片方の手で覆っていた。表情は困惑しているような悲しんでいるような表情をして私を見ていた。
「……。気は、済んだか」
呟くと、ぐ、と言葉に詰まる彼女に構わず大きく息をついた。それから踵を返し、歩き出す。取り囲んでいた群衆は面白いように分かれまるでそれは聖書の出エジプトのようで、しかしふと私は何からの脱出に成功するのだろうと考えた。
黒いヘドロが皮下脂肪のように私の内臓にこびり付いている気がした。何もかもが煩わしい。
背後からは再び世界に音が戻ったが、私の周囲には私の靴音しか戻ってこなかった。
その時の私の心境は、とても五月蝿い奴が帰ってきた、だった。彼の帰還は数日前に知ったが、彼と顔を合わせることもなかった。しかし私とリナリーの件は既に耳に入っているだろう。お喋りはどこの世界にも五万と居るものだ。
そして現に私の視界に入ってきたその姿。私はお帰りと言うこともなく無かったことにするように背を向け歩き出す。しかし既に彼とは目が合っていて、彼は当然のように私の背に声を飛ばしてきた。
「鞠夜!待って下さい、鞠夜!」
「報告書さっさとまとめろよ、アル」
背を向けたままひらひらと手を振るだけで応えると、しかしアレンは尚も食いついてきた。
「鞠夜!」
私を追い越して、アレンは私を引き留めた。表情が直に彼に伝わってしまう所為で私は一つ舌打ちをする。
歩みを止めると、アレンは面白いくらいにほっとした表情を見せて
「何か用」
「そんなにつんけんしないで下さい。カンダみたいに眉間に皺が寄っちゃったまま跡が取れなくなりますよ?」
「……」
わざと和ませるような気の利いた言葉に反応する気も起きなかった。
「リナリーのことなんですけど、リナリーは」
「知ってる」
暗に何が言いたいのか察して私はアレンの言葉を遮った。
知っている。リナリーは、いや、この教団にいる、私が今まで接したことのあるエクソシストという人々は決して、断じて、むやみやたらに力を行使しないことなど。それが何を意味するのかなど私が知るはずもない。ただ『力』ある者の弁えとしか捉えていない。
とりわけ血の気の多いユウとは異なり、くわえて女である為か肉弾戦向きのリナリーは全くと言っていいほど手をあげない。いつも言葉で窘めるのが彼女流のやり方で、それが彼女にとっては意図的なものではなくごく自然な方法であることくらい、知っている。
何よりも仲間割れが起こるのを窘め続ける彼女を見れば、いつも仲間を心配している彼女を見れば、それが何故なのかなど明白すぎて、今更言葉に出すなどナンセンスだ。
だから私は、手をあげなかった。
代わりに虫の居所は頗る悪くなったが、あの瞬間、激昂しそうになった湧き上がる怒りは逆に私の頭を絶対零度にまで冷やしていた。あの状況で私が手を出せば立派な暴動になっていただろう。リナリーがそれに対して傷つき自責の念に駆られすぎることも直ぐに分かる。
リナリーに傷一つつけたくなかった。私の感情にまかせた暴力で、綺麗なリナリーを汚したくなかった。
「言うなよ。分かってるから。……だから、アルは早くコムイさんのトコに帰還報告してこい」
私はそれだけを言うと、アレンの横をすり抜けた。
分かってるんだ。知っている。
だから言うな。私が分からないとでも言うのか。そう思われているのか。そんなの、言われてしまったら、私はもっと惨めじゃないか。
優しさは優しいだけではいられない。優しさは何処かで誰かの自尊心を傷つけて、気遣いは失望を買い、そして嫌悪感を生み出すことだってある。或いは憎しみさえも。
「待って下さい」
そこで立ち止まってばかりいると思っていたアレンの手が私の手を掴む。驚いて振り返ると、そこには苦笑しているアレンの顔があった。
「原因は、何だったんですか?」
「……聞いてないのか」
「いいえ、みんな意見が偏ってて困ってるんです。原因を聞くと必ず自分の主観しか言ってくれないんですよ。ね、困るでしょ?」
おかしそうな、穏やかな苦笑に私は少し肩で息をした。
事の発端は極些細な意見のずれだ。大して取り上げるほどのことでもない。
私は全ての人間が救われる世界なんて存在しないと言って、そしてそれを目指している人間は傲慢だと言っただけだ。願う気持ちも良く分からなかった。何故赤の他人のことまで気にかけるのか。世界の人口のうち、一体どれだけの人間と接触出来ると思っているのだろうか。九割九分九厘が、一生のうちに関わり合いを持たない人間に決まっている。ただでさえ他人の為に懸命になるその気持ちが理解出来ないのに、世界規模の話なんて正直頭が回らない。
しかしリナリーはそれを願っていた。だから言った。犠牲のない争いはないし、勝敗が付くなら必ずそこには生き残る人間と負ける人間が居て、巻き込まれる人間が居るのだ。ノアだって人間だ。全ての人間が、と願うならばそれにはノアも含まれているはずで、だから全ての人間が救われるなんて有り得ないと思った。そもそも悪や正義を当てはめること自体が意味のないことだと、そう言った。
誰だって、自分を正当化して生きているじゃないか。それは集団になっても同じ事だ。そして、強い方が正義になれる。その力が大きければ大きいほど、正義を語ることを許される。
救われる方法は人類の滅亡しかない。と、最終的に私は言った。不謹慎だとか、私の立場で言う言葉じゃないとか、そう言ったことは考えていなかった。
勿論、それだけでリナリーが手を出すはずが無く、他にも色んな話をしていた。私とリナリーにはどうやらかなり激しい温度差があって、探索部隊の立場であるとか、黒の教団に対する見方であるとか、そう言うものに対しては特に際立っていた。
そのトリが、『人類滅亡』だったわけだ。
理由を話すと、アレンは私の手を放した。そうして、言う。
「それで、リナリーが……?」
「ああ」
今回飽くまで中立の立場である彼はどうやら、何故そこでリナリーが平手打ちをしたのか分かっていないらしい。
「分かってないのは、アルの方だろ」
「え?」
あの時リナリーが私の頬を叩いたのは、恐らくは自分を二の次にしてでも仲間を思うことが出来る彼女にとって、私の発言が辛かったからだろう。
『鞠夜の言う人類滅亡の中には、鞠夜だって含まれているじゃないの!だから、そんな寂しいこと言わないで』。と、私はリナリーはそう言う気持ちを込めていたのだと勝手に解釈している。きっと彼女ならこう言うと思ったから。これが一番適切な気がして。
厳密に言えば、リナリーは、私の意見そのものに対してあんな行動をしたんじゃない。その中にある、私を、叱咤したのだ。そんな気がする。
リナリーの考えに共感することはできないし、正直理解もできない。でも、何となく彼女はそう言う人間なのだと言うことは把握していた。
「今は互いに頭冷やしてる、ッて所かな」
もしかすると、アレンが聞いた話では尾びれ背びれがつきまくって居たのかも知れない。リナリーの平手打ちは叫くほど凄いものでもなかった。ただ、じん、とする程度には痛かったけど。
アレンの呆けた顔を見るとそう思う。
「……お節介だったみたいですね」
「ま、アルは元々そう言うところあるけどな」
したり顔で言ってやると、アレンは不満そうに少しふくれっ面をした。私はまたそれに笑う。
「おかえり」
「……ただいま帰りました」
そしてアレンがはにかんだ頃には、苛立ちのような嫌悪は消え去って、また明日へと続いてゆくのだろう日常というものがもどっていた。
2007/04/15 : UP