FUCK YOU GOD!
その手の先に
23RD STAGE: Who did decide the judgement?
「ッ、鞠夜!!!!!」
咄嗟の緊迫したような声と届きそうにあった手。
それを殆ど反射とも言えるような動きで捉えようと大きな動きに煽られつつも身体を捻り手を伸ばした。その先にあったのは長身の男の、会って間もないとはいえ初めて見る必死の形相と、その、背後の影。
うし ろ
言おうとしてけれど自分が口を動かした感覚に対する音の一切は聞こえてこないままで、私の身体はそのまま冷え切った水の中へ落ちた。痛いほど水面に打ち付けられ、身体は軋んでそれでも勢いは殺されずに沈んでいく。
仰向けで入り込んだ蒼の世界は寧ろ薄暗く森とは違うその色に否応なく『死』と言う抽象的なものを突き付けられる心地がした。けれど身体はたぎるように熱くて仕方が無く、一切のことを感知しないままここに来てようやくAKUMAの攻撃を受けたのだと知った。
何か遠く鈍い音の次に、私が乱れさせたその表面が濁る。それを赤い色だと気付いた頃には既に、再び視界は揺れていて、重なるように落ちてきたのは必死な形相をして私に手を伸ばしていた男その人。
名を呼ぶ前に悲鳴を上げそうになる自分をねじ伏せる。間違いなく湧き上がってくる次にこう成り果てているのは私だという恐怖にも似た感情をまさしく『殺して』なんとかその身体を、腕を掴んだ。
壊されたと形容しても問題ないほどの身体の損傷。即死か或いは致命傷になる傷を負ったとしか考えられない。若しくは既にショック死しているかも知れない。
リルの身体からは濁った血が湧き出ていて、ぴくりともしない身体に死を直感する。
それをまぎらわせたのは未だ振り払われない小さな空気の泡たち。
伸びていたのは、AKUMAのそれと思しき腕。
モリのように鋭く突き抜けているそれは、紛れもなく私の腹を貫いていた。
じわりと滲む血のように腹部に熱が発生する。なんとか、リルの腕は放すまいと腕に力を込めた。
魚は、狩られるのは、私達だ。
「エモノ、ミィ~ツケタ」
その声は水の中だというのに酷く脳天を突き抜けるように響いて、冷たい筈の水中でけれど私の身体は熱で溢れどうしようもない。
その時不意に、風鈴にも似た音が私の耳に届いた。
りぃん、とも、ちりん、とも取れるその音は大小様々で、そして紛れもなくリルのイノセンスの音でもあった。
その音を境に、私の意識はぶつりとまるでテレビを消すかのように落とされた。
りぃん
ちりん
ちりりん
しゃらしゃら
全く耳をくすぐるのは可愛い音達で、微塵も不快感を呼ばない音に私は眠りへをも誘われるようだった。
それができなくなったのは他でもない、重力だ。
そこが水中でもなく陸の上でもないことに気付くのは目を開けてから。
「……リ、ル」
彼が私の名を呼んだように私も彼の名を呼ぶ。返答はなかった。彼の姿も。
無事だろうかと思い、しかしそこであれでは助からなかったと思い至る。
感傷に浸ることもなかったのは良くも悪くも会って間もなかったからなんだろう。私などに手を伸ばした所為で彼はAKUMAに背を向けてしまった。そうして殺された。それだけ。
そう言えばAKUMAはどうしたのだろうかと考えて、何もないその空間にようやく意識を向けた。
ただそこは白いばかりの空間で、眩しいような気もしたが目を閉じているだけのような気もした。不思議と何処なのだろうかという疑問は浮かばなかった。
体内に既に熱はなく、私は上も下もないような空間で重力を感じることで、何とか正気を保っていた。一歩踏み出すことも憚られるような空間だった。それでも、歩かないことには仕方がなかった。
一歩、右足を前に出す。
柔らかいような固いような感触を足の裏で感じる。何かの生き物の上を歩いているような変な感触だった。そして同時にこの空間に果てはないのだと思う。
途方に暮れることはなかった。
リルを、探さなければならない。
生死はここにいたって既に関係がなかった。彼が必要とされていたのはイノセンスの適合者だからで、彼が死ねば彼の死を悼むよりも先にイノセンスの回収を要求される。飽くまで道具なのは人間の方なのだ。
『いくら職人がまだ生きているとは言え、これほどのものはなかなか作れないのですよ?』
不意に、彼の声が響いた。彼自身なのか、彼以外のものなのかは分からなかった。過去のものなのか今現在のものなのかそれすらも。
ただその声は酷く穏やかで、続けて鳴った音に心が震えた。
『ぼくは何でもない普通の人間だった。それは、これを、イノセンスを境に失ってしまった』
うわんうわんと強弱をつけたような声は酷く震えていて、気落ちしたようにも嘆いているようにも聞こえた。
『きみは護るものなど無いと言い切った。ぼくにもないんだ。でも、失いたくないものはあった』
それはそうだ。私だってそうなのだから。
人生は元より公平などこの世の何処にも存在するはずはない。
理不尽で埋め尽くされた世界だからこそより公平を期そうと人間のルールが作られていくだけの話であって、だからといってその公平さが傷つけられても元より理不尽なのが自然であるのだから誰も言い掛かりをつけられることがあってはならない。
人間である以上、各々権利は持つだろう。
だが、権利ばかりを主張するのは違う。
『普通の、日常、と呼ばれるものを失いたくないと思うのは、贅沢だと思うか?』
個人の自由は公共の正義によっていとも簡単に陵辱される。それは仕方のないことだとも思ったけれどその反面どうにも許し難いことだという感情があったのも事実だ。
私を、いや、私に対する領域侵犯は誰であっても許さない。
「……アンタはリルか、リルじゃないのか」
問い掛けると、どちらがいい、と声は返してきた。
結局の所どちらでも良かった。イノセンスを使えても良かったし使えなくてもよかった。エクソシストなぞいくらでも代用のきく道具でしか認識されてないという事実が揺るぐことはなく、アイデンティティという問題においてこの場合イノセンスこそ重要視されてもエクソシストは誰でも良いはずだ。エクソシストが大事にされるのは代用品の数があまりにも少ないからと言うただ一点であって、別にある特定の一人間でしか扱えない代物では無いからだ。
「ここで、リタイアするのか」
別にリルには興味がない。深く付き合ってきた仲でもないし特別好意も持ってない。
私はAKUMAに深く恨みを持っているわけでもない。イノセンスに傾倒していることもない。
「リルの、やりたいようにすればいい。死にたかったら死ねばいい。生きたいのならば生きればいい。黒の教団から抜けたいのなら抜ければいい。兎に角、私を早くここから出してくれ」
何を期待しているのか知らないが、私は私のやりたいようにする。エクソシストとしてイノセンスを振るうことを決めたのは世界を救うなどという傲りの極みに目をくらませ思考を濁してしまったからではない。
『全く、簡単に言ってくれるな、きみは』
不意に聞こえた声色は少しばかり笑いを含んでいて、私は溜め息を一つ。
「嘆きを聞くつもりは毛頭ないんです。さぁ、早くここから出して下さい」
これじゃ全く、あんなにめたくそにされてもし死んでたら、貴方の嫌いなオカルト話です。
呟けば、容赦ないなマリア様と、リルらしい声が聞こえてきた。
『ぼくは、きみのような人にはなれないよ。平凡にできているからね』
当然と言えば当然の言葉に私はやはり溜息をつかざるを得なかった。
自分は平凡だと精々思い上がっているがいい。なにかにつけ誰それのようにはなれないとのたまう輩もまた、自分の力を勝手に評しているに過ぎない。勝手に自分の力量を定めその実それは失敗や失墜を恐れる言い訳でしかなくその分自らを平凡ならぬ臆病たらしめている。
そうだ、言い訳だ、結局。
衣食住を求め黒の教団に入り、エクソシストを化け物と形容し、ふとした拍子にあの世界への名残を、後ろ髪引かれるような依存を抱えている自分に気付き、そして神を否定してアレンという少年の後を追うことを決めたことも全て。
一人ではなにもできない、臆病風に吹かれた私の、正当化に必要な言い訳達だ。
分かっている。わかっている。
全ては恐怖が駆り立てた言い訳の数々。
死以外の道は一本しかなくいきがって『仕方ない』とまるで自らで選べなかったように他のものの所為にして、ほんとうは、怖かっただけだ。
『ぼくはね、平凡な人間だから。それでも、こんなぼくでも、必要とされてるって事が嬉しくて、だからぼくは、このケルトの鈴の音が、いつだってぼくを慰めてくれたから、ここまで来ることができた』
――、意識が、落ち、る。
ん、と声を立てると、酷く不快感と寒さを感じて私は目を開けた。
「――あぁ、気が付いた」
ここ数日でようやく慣れた男の声に、私は目だけでそれを確認する。
「その深い御心に感謝いたします、マリア。無事で何より」
「……鞠夜、です」
ゆっくりと指先を動かし、手を動かし、腕を動かす。上体を起こして、ようやく不快感と寒さの正体を知った。
打ち上げられていたのはどこかの小さな浜。容赦なく吹く風が寒い。寒さを引き立てているのは完全に濡れきった、本来は防寒のための衣服。不快だと感じたのは頬や髪、至る所に絡み付いた砂。喉を動かせば塩分を多量に含んだその感触に思わず戻した。
「ぅ、ぐ」
「気分は最悪だろうけど、取り敢えずゴーレムで場所は分かってるし、探索部隊にも連絡はしておいた。浜をのぼって山を抜ける。途中崖があるけど、おんぶしようか?」
「い、結構、です……」
胃液が上るところまで上り詰め、独特の気持ち悪さに四つん這いになる。淡水。兎に角淡水に身体をひたしたい。
「……鞠夜、きみは、何か知ってる?」
「……?」
「ぼくは気が付いたら既にここにいた。AKUMAにズタボロにされた後のことは良く覚えていない。それに、ぼく達がAKUMAに襲われた場所から、ここまで流されてくるのは潮の流れを見ても、有り得ないことなんだそうだ」
「……」
言うべき事だろうか。いや、もしかすると夢かも知れない出来事を話すことは憚られる。何よりも意識が落ちる直前まで悲しそうな鬱陶しい声で彼の嘆きを聞いていたと話したところで覚えていないのならば意味がないし何よりも当てつけのような気がしてならない。
「……恐らくは、イノセンスの内に、一時的に迷い込んだんだと思いますよ」
酷く掠れきった声に、何度か咳をする。それでも声は直る様子はなく、溜め息を一つついて諦めた。
「そんなことが有り得るのか?」
若干驚いたような声に、さぁ、と返す。私にもよく分からないのだから聞かれても困るし、そもそもエクソシスト歴はリルの方が上だ。
「海の中に投げ出されてから、AKUMAに腹を突かれて意識が落ちる直前、あなたのイノセンスの音を聞きました。AKUMAは恐らくそれで消滅したものかと……。その後、私は白い空間にいました。あなたはAKUMAの攻撃を受けて覚えていないのかも知れませんけど、あなたの姿はなかったですよ」
「……まあいい。この傷は、きみが治したものだろう?」
「わかりません。私は見捨てましたから」
酷く自分の声がはっきりしている気がした。リルの少しばかり強張った顔を見ながら、私は続ける。
「正直、私が海に突っ込まれて直ぐ、あなたが落ちてきた時は死んだものだと思いました。イノセンスを発動した覚えもありません。白い空間の中に飲まれてからは、恐らくは死んだであろうあなたのイノセンスの回収を、と思いましたから」
彼の声のことは話さなくても良いだろう。
また、それ以外の部分で飾る必要もなかった。
「そうか」
しかし彼は短く言うと、笑った。
「今回一緒にいてくれたエクソシストがきみで良かった、鞠夜」
「……そうですか」
そしてリルは立ち上がり私に向けて手を。
「行こう。任務は終わった」
「……そうですね」
彼の手は取らなかった。
2008/02/11 : UP