FUCK YOU GOD!
ほんとうはずっといっしょにいたんだ
25TH STAGE: You're me, I'm you.
例えば、嫌いな、或いは憎んでいる人――そうだ、生きている価値もないと仮に全世界から判断されるような人間を殺すことがどうして悪いのだろうという疑問。
殺人犯を遺族は殺す権利があるのではという報復に対する正当性の是非。
人間の作ったルールはしがらみばかりで不公平だと思っていたその法律の必要性。
普通人が人を殺そうとする場合法律におけるその行為への罰や以後死ぬまで続く殺人犯という剥がせないレッテル、社会的な地位の喪失、倫理観から来る罪悪感や純粋な圧迫が邪魔をしてなかなか実行には至らない。
それは、自らもまた、そう言うものによって誰かから殺される可能性が十分に低くなっていると言うことでやはり法律というルールは私にとって必要なのだ。
人を殺すという行為はどんな理由を携えていようと許されざるものでその意味においては絶対悪といって差し支えない。医療における一つの選択としてのそれは除くとして。
法律はそれ自体では人を守らない。守ってくれない。法律とは単なる道具に過ぎず人間が活用して初めて効力を発揮する。
とはいえ殺されない保証などなくてだというのに私は法律というものが私の身を守る絶対防壁のようなものだとして認識していた。それは傲慢で生温い世界と思考に浸っていた愚かな考えだ。
憎まれることはあっても殺されないだろうと私は何故それが当たり前で普遍的で未来永劫そんな可能性は生まれないのだと確信していたのだろう。そんなことあるはずもないのに。
痛い。
じくじくと、神経がそれを伝えてくる。
意識は浮上し、初めに現実に呼ばれたのは痛覚、次に感覚、聴覚、視覚、そして酷く惨めな自分を認識する理性だった。私は地面に仰向けに倒れて雨に打たれ続けていた。既に身体は冷え切って身体も動かし難く、伺っても人の気配はなかった。全くの一人だった。
瞬きをするのも億劫だというのに雨に打たれ反射的に目を閉じてしまう。それをこじ開けると眼球に雨の滴がぶつかった。
じくり。
じくり。
「――いたい」
まるで他人事のような憮然とした声が出た。痛い。刺された腹が痛い。血は出ていないのに。
知らず息が上がり、呻いた。
ここは何処だ。
何時だったかの疑問が再び浮かんだ。
帰らねば。……何処に?私の帰る場所など、何処にあるのだ?
じくり。
じくり。
――嫌な心地になった。
私は黒の教団の仲間などではないのに一体どこに帰るというのだろう。帰る家などもう無いのに。家族などもう無いのに。お帰りの声はない。ただいまを言う意味などとうに喪失した。
「鞠夜」
声が聞きたい。
当たり前のようにお帰りと声を掛け私の生を喜んでくれる綺麗な声音。絵空事のような作り物のような美しさなのに暖かみがあって私の心は所在なく落ち着かないものの心地は決して悪くなかった。
証拠に、とくりと、心地悪くないのだと心臓が鼓動する音を私は昔から感じていたはずだ。それは私がずっと欲しがっていたもので、既に持っていたのに、与えられていたのに無下に扱ってああ私は本当に最低な人間だ。いつだって彼らは与えてくれていたんだ。まるで私が自分を悲劇の主人公に仕立て上げその世界に酔いしれている間に、私はどのくらいそんな心地良い気持ちを踏みつけてきたのか安易に想像できてじくりと腹部が痛んだ。
いままで当然のように与えられていたものが突如なくなるその不条理さは既に理解している。
だからもし次があるとしたらそんな大変なことがあるなら私はそれを大事に受け取らねばならない。そうして感謝しなければ。
綺麗な笑顔で迎えられることの幸福さ。
彼らは甘いのではない。大切なものを大切だと認識し、失えば泣いて、そんな悲しい次がないように戦ってそして、心が痛いということを知っている人間だったのだ。きっとあのユウも。
一番無知だったのは私だ。
この痛みは私が今まで目を意識を背けていたその集大成に過ぎない。
私がずっと持っていたもの。
持つことを嫌がって拒否してきたもの。――そんなことなど、できやしないのに。消化せずに放置してきたその小さな痛みの数々は徐々に積もってゆきそうしてあの瞬間私を貫いた。
それだけの、話のはずだ。
愚かな私の頬を叩くための善意の痛みなどというそんな奢りきったものではない。だたのツケを払っただけ。
じくり。
じくり。
淋しかったね。悲しかったね。泣きたかったね。
じくり。
泣かなかったね。鈍かったね。逃げていたね。
この痛みは、溜めて溜めてため込んで全く消化しようとしてこなかった怠け者の不甲斐ない私が招いたものだ。小さな痛みを受け入れる強さすらなくてそんなことを否定しはねつけることこそが、逃げることこそが強い者である証なのだと馬鹿な思い違いで虚勢を張った傲慢さ。私はもっともっと弱い存在でいつかそんな無理にもならない無謀な行為から生じた歪みは私を飲み込んでしまうことなど容易に予想できる。
じくり。
じくり。
どうすればいいだろうか。
癒すことはできないこれは外傷ではないから。
この腹の痛みはどうすれば消化できたっけ?
街には人の気配が全くなかった。無論AKUMAのそれも。
しんと黙り込んだ街。雨音だけは穏やかに響いて私を濡らし街を濡らし全てを濡らしそして地面がそれを吸い込んでいく。
雨の日独特の匂いと薄っぺらい黄色のセロハン越しに見ているような景色。
黄色は悲しみの色だといった画家は何を思っていたのだろう。私のように雨の日の景色が黄色く見えたのだろうか。
じくり。
じくり。
――少し寒い。なのにそうだまるで私の国の湿度を感じさせる梅雨時期の生温い感覚。感染から発散させたい湿気がしかし空気中に十分すぎる湿度があるために逃げることを許されていないような居心地の悪さ。
足を踏み出すとショートブーツが嫌な音を立てた。靴の中にも水が入り込み靴紐の合間から泡が立ち同時に自分の足で傷を踏みつけたような感覚でもって腹が痛んだ。
向かう場所はないイノセンスはエクソシストが回収するものであってそれは私のすべき事ではなくて今まで一度だって自らをエクソシストだと胸を張ったことなどなくて笑みより先に浅い溜息が出た。
結局私はエクソシストを名乗ることに対して肯定的ではないのだ。神の名の下にあらゆる全てを利用し殺戮を越えて勝利に酔いしれてきた宗教の一員になどなりたくなかったのだ。正義を振りかざし、それは何時だって裁くばかりで誰を救うことがあっただろう?少なくとも自分の欲の正当化を図る人間の心の支えにはなったかもしれない。戦争は人間の欲の塊だ。欲を満たすために他を侵略する品性下劣な行為の極みが戦争だ。
では、やはり自分を正当化しながらエクソシストとなることを一応は受け入れた私はどうなのだろう。
もう、よく分からない。自分が正しいとは思わない。黒の教団の立ち位置は極端で行きすぎればやはり悪に分類される組織であることに違いはないはずだ。例えそこに属する人間が善いものであったとしても、組織はトップの色に染まらざるを得ない。
傘もなくどの家も口を閉ざし頑なに沈黙を守り続けている。街の大通りを抜けだらだらと足を引きずった。目的もないまま歩くのは初めてのような気がした。こんな何もないところを。
ごほりと咳が出て腹に響いた。呻くように咳を払い息をつく。
帰る場所などなくても、例え一人きりでも、此処にいたって仕方ない。
そういえばリルはどうしているだろう?死んだだろうか。ここに至るまでの現実とこの空間との境界が曖昧すぎてぼやけているから分からない。
でもリルが死ねばリナリーは泣くだろう。
美しい彫刻のある棺に収められ教団の中にあるいつも満室状態の聖堂の中にリルの名があるのを知ればリナリーは泣く。探索部隊が死んだ時でも涙を流し心を痛める彼女のことだから。
だからできれば、死んでいない方が良い。と、思う。
私は無価値で愚かで浅ましくて醜くてもうどうしようもない最底辺を這い蹲るような人間だけれどそんな私でも彼女の涙をどうにか仮に一時でも止める術があるならば、私はそれに全力を注げる気がする。
嗚呼でもきっと彼女だけではなくて、アレンも辛そうな顔をするのだろう。
涙ばかり流して、たまには心の底から笑って、幸せを満喫する時があっても良いだろう、彼らにはそうする権利がある。
汚くたっていい。最底辺から、自分以外のこの世の全て綺麗な物を見上げて生きるのもいいのではないだろうか。
誰かのために自分が傷つくことができる、そんな痛みなど屁でもないのだと笑って言いそうなリナリーやアレンの、笑顔を、あの綺麗な声音を、慰みの言葉を、そうか私は側にいたいんだ。
すき、なんだ。もう、認めるしかない。
まもる、とかそういう大層な物じゃないけれどもしそんな大それたことができるならやりたい。別に誰が正義とかこの戦争の勝利を手にするとか言ったことにもとより興味はないのだから。
そばにいたい。
声が、聞きたい。
「鞠夜」
――着いたのは街のシンボルだと観光案内所に書いてあった小さな教会。祀られているのはキリストではなく水の神だ。海に出ることの多いこの街の人間がキリストよりも古来からの水の神に参拝するのは当然の流れだとそう聞いたのは船の上だった。民間信仰に興味があると言っていたあの探索部隊は誰だったか覚える気もなくて端から頭になかった。
それでもそれが教会の姿をしているのはカモフラージュだろう。キリスト教は一神教故に他の神の存在を一切認めず、他は全て異教徒扱いになり、そう認識された人間に対する仕打ちはその血生臭い歴史が書き記す通りだ。
そんな教会の奥、煌びやかなけれどあまりゴテゴテとした嫌味な印象は受けない装飾の中に、所謂『ご神体』と呼ばれるものを発見した。木で作られた柵を越え安置されているそれに手を伸ばす。一見すると棺にも見える小さな箱を開ける。
その中に静かに横たわっていたのは一見すると――……否、どう考えても風化する寸前の木片だった。
これじゃない。この箱でもない。
何故だか直感し、そこでふと目にしたのはマリア像だった。
私の前で静かに微笑むのはアヴェ・マリア。
キリストの母である彼女を信仰する地域もあるのだと聞く。私はあまり大きくもないそのマリア像に手を伸ばし両手でそっと抱え込んだ。マリアがキリストを抱えるその像の姿に酷似していたように思う。
じくり。
じくり。
痛みに呻いた瞬間、絶叫形の乗り物が急に降下する直前のような浮遊感に襲われ反射的に目を閉じた。
「……鞠夜?」
鼓膜を震わせたのは聞き覚えのある声だった。
目を開けると、短い金の髪に薄く澄んだ青い瞳の長身の男の姿。黒と白のコントラストの中に散りばめられた銀細工、そして輝くローズクロス。
リル、と呟いたそれは掠れて空気が吐き出されただけだった。細められた目が眩しかった。
「よく無事で……それは?」
リルが指差したのは私が抱えていたマリア像。
「多分これがイノセンスです」
「……これが?」
興味深そうなリルはマリア像を手にして、私はそこで辺りを見回した。
半壊した教会。間違いなくここは現世だ。それでもAKUMAとの戦闘によって舞っていた粉塵の類はすっかりなくなっていた。
ふと気になり現世の祭壇を見ると、そこにはマリア像などなかった。
――早く、行きたい。あの場所へ。
「リル、生きていたんですね」
口にすると、リルは笑んだ。
「きみもね」
あの船の上でAKUMAに襲われてから一ヶ月以上が経っていたとリルから伝えられた。私とリルが海に落ちた後、リルは潮の関係で近くの浜に打ち上げられていたそうだ。傷は完治していてAKUMAは破壊されていたというから少なくともあの鈴の音までは現世での出来事のようだと確認する。そこから先は誰にも与り知らないところでリルもあの白い空間など知らないと首を振るものだから、今回の報告は全て私に一任された。
私の団服の状態が血やら砂やらずぶ濡れやらであまりにも酷かった所為で、それを洗うために一泊余計に街で過ごさなくてはならなくて、私があの場所へ行くために列車に乗り込む時顔が緩んでいたのは秘密にしておきたい。私のちんけなプライドのために。
一等車両のコンパートメントの中で寝たいと申し出た私はリルの前で身体を横にしていた。ブランケットをかぶり瞼を閉じれば直ぐに落ちる感覚。疲れていたのだと、そこで気付いた。
じわり。
じわり。
最早痛みはないものの、幻覚めいた感覚に思わず腹を押さえた。
痛いことは痛いのだ。
寂しい時は淋しいのだ。
人恋しいのだ。
好きなのだ。
そう言うものを、きちんと受け止めよう。
未消化のまま腹の中にため込んで何時かそれが私よりも大きくなってしまったらきっと私はその痛みで死ぬのだろう。それは痛みそのものによるものなのか、もしかすると逃れられないものを無理矢理遠ざけることによる歪みかもしれない。
私は死にたくなかった。だからまだ痛みが大きくなりすぎる前に、間に合ううちに歪みを矯正するべく痛みは私を貫き痛みなのだと私に実感させたのだろう。
無理を、していたのだ。
痛みを持っているのに、治癒行為もしないままで、きっと血を垂れ流したままだったに違いない。傷があることも知らないままで、だからまず痛みがあることを訴えたんだ。
この痛みを、大切にしよう。これは私にとっての戒めだ。
私は弱い人間なのだと、知らせるものだから。
不意に浮上した意識に反して私の瞼は閉じたまま動かなかった。ただ一つ私の前の椅子に腰掛けているだろうその人に伝えることがあって私は兎に角文字を組み立てた。
「りる、ずっと、わたしのなまえを、よんでくれていた?」
一ヶ月もの間があってもあの街に留まっていたのはイノセンスの回収がまだだったからではなくて私を捜してくれていたのではないかと。そんな、淡い幻想にも似た想いがあってそれは私の願望であることは分かっていたけれど
「あり、が、とう」
もしそれが本当に私の願望でしかなかったとしてももしもし願望が願望を超え事実であったならとやはりそんな願望があってそれが湧いてくる源泉からどうしようもない歓喜が共に溢れてくるのだ。だからどんなにそれが見当違いで呆れるほどであったとしてもそれを知っていて欲しかった。
「ありがと、う」
そしてごめんなさい。死んでなくてよかった。
「鞠夜」
とても優しい声がした。父の声に似ていた気がする。
小さく肩を叩かれて、また声。
「もう着いたよ。そのまま寝続けて聖女様はどこまで行く気かな」
漏れる息が耳に届いた。
「……鞠夜です」
「おはよう、鞠夜」
返した挨拶は掠れてしまっていた。瞼を擦りリルがおかしそうに笑うのをはっきりと聞く。二、三強く瞬いてそして私は水の音を聞いた。
辺りは既に夕闇に包まれ逆にそれが私の目には優しい。みの虫のようにブランケットに巻かれていた私はそこで初めて荷物と同じ扱いを受けていることに気付いた。
「あの、リル」
「余りにも鞠夜が気持ちよさそうだったから、持ってきてしまったよ」
明け透けにリルは笑ってそういって、直後真剣な表情になった。
「余程疲労が溜まってたんだろう。気分は?」
「……平気です」
「……そう?何か辛そうだけど……。どこか痛むんじゃ?泣きそうだ」
言ってリルは自分が泣きそうな顔をして見せた。その様子が暖かく見えて私はまた瞬きをした。
別にもう何処も痛くない。辛くない。そもそも、この世界に生まれ落ちて辛かったことはない。少なくともAKUMAとの戦闘においては。
疲れが残っているのだろうかと考えて、あまり眠ったという心地良い余韻がないことに気付くと自然息が漏れた。
「教団はもうすぐだよ。さあ早く帰ろう」
「……かえる」
「うん。ぼくらのホームに。みんな待っている」
「……みんな、まってる」
「ああ、そうだ」
リルの言葉をオウム返しに呟いた。当たり前のようにリルはあの場所を家だと笑う。その顔がどこか暖かくて胸が痛かった。
2008/03/23 : UP