FUCK YOU GOD!
聖女がその御腕に抱いていたのは
26TH STAGE: The beautiful world they are.
水路を登り一度小船は軋んでそこへ着いた。私は一言リルに司令室に行くと告げて歩き出した。
私の足音が澄んだ音で響く。そこかしこの人の気配が痛く自然足は速くなった。
「あ、ミスターリーバー、お疲れ様です。コムイさんが何処に居るかご存知ですか」
偶々。本当に偶々だった。
『泡』と書かれた紙コップを片手に、口にはストローをくわえたリーバーさんに出くわした。相変わらずクマを目の下に住まわせて、リーバーさんは目を見開きそれから眉を寄せた。
「リルからの報告を受けてからは大人しくしてるぜ。大丈夫……だったのか?」
「おかげさまで。今から任務の報告しに行ってきます」
「……休まなくても良いのか?辛そうな顔してるぜ」
――そんなに酷い顔なのか。
「……リルと同じことを言うんですね?特に何処も怪我なんてしてませんよ」
今まで一度も自分の顔を見ていないものの、至って気分は悪くもなくまあ良いということもないものの普通だ。
「……まあ、なんだ。すぐに休めよ。ゆっくりな」
リーバーさんは言うと私の頭に手を置いた。くしゃり、と髪がこすれる音がして私は大きくて温かいリーバーさんの手を感じてまた胸が痛んだ。
なにも悲しいことなど、ないのに。
じくじくとあの腹部に感じた痛みに似ていた。
後ろめたいことなどないはずだ。証拠のように心は乱れてなどなく寧ろ穏やかなほうであるのに。
悲しくなんか、ないはずだ。ない、よね?
「……どうも。ミスターリーバーも無理のないように」
「オレなら大丈夫だよ。ありがとな」
最後の言葉に、痛んでいた胸がじゅくりと潰れた。
喉の奥が詰まって何も言えなくなった代わりに一つ頷くと、私はそのままリーバーさんとは別れた。
私の心臓はいつからこんなに脆くなったのだろう。否、元より脆かったことに今まで気づいてなかっただけなのか。胸は痛んでじくじくとだというのに少しも惨めさなど感じなくてどうしたら良いのかわからない。まさにその痛みをもてあそんで、私はコムイさんの元へ向かった。一先ずは任務の報告をと思いながらどうすればいいのかわからない何処へ運んでやればよいのかわからない痛みをだらだらと感じる。
逃げはしまい。
痛んでなど居ないと無視を決め込むことはもう止めだ。
けれどこの痛みはどうして居ればいいのだろう?
痛みを認識したとしても、そこからどうすればいいんだろう。
「コムイさん、もどりました」
司令室で本当にリーバーさんの言葉通り大人しく座っていたコムイさんを見つけると少しの違和感すら覚えるのだからもうどうしようもない。本来ならばそれがあるべき正しい姿なのに何か変な薬でも誤飲したのではと全く不必要なはずの心配をしてしまう。
コムイさんは今まで私が見たことのない複雑な表情をしていた。その大半は疲労によるものだと直ぐに判るものの後の僅かばかりが全く捉えられない。
「お帰り、鞠夜君。よく無事で」
それでもコムイさんは微笑んだ。微笑むと描写すればいいのかその顔は険しくて、なのに何故だか笑っているということは感じられたのだ。
「――私よりも、コムイさんのほうが大丈夫ですか」
自然に零れ落ちた言葉は揶揄などではなかった。
「それこそ僕のセリフだよ。さあこっちへ。ソファにかけて。……大変だったね」
覇気のない、否、それは元々だったか――そうだ、張りのない声だ。いつもよりも声のトーンは落ちて、まるで息を吐くついでに言葉を載せたようなひどく疲れている声。その声の中に一度も聴いたことのなかった言葉が飛び出したから、私は驚いた。
『大変だったね』という言葉がけはこの世界では、この教団では普通聞かない。まるで誰かが示し合わせたかのように言うことを禁じていないはずなのに、誰も言わない。ここはいつも『大変』じゃなかったことなどなくて、それと直面し続け疲弊していくばかりであろう体力と無論その精神の中には逃げるなどという選択肢など端から存在しない。だからそんなくだらないことは誰も口にしない。代わりに互いの生を喜ぶ言葉掛けをよく耳にしてきた。確かに禁忌の言葉ではないけれど、暗黙の了解であるはずだった。
リルといい、リーバーさんといい、コムイさんといい、何かおかしい。
彼らにそこまでさせるほど私の顔は奇妙な、酷い顔なのだろうか。それはそれで気になってくる。
「報告を聞いた時は、本当に、心配したよ」
噛み締めるようなそれは私の生還に対する喜び、と言うよりは寧ろ何か震えそうな、溢れそうなものを堪えているような声だった。それでいてその表情はあっさりと苦笑を浮かべていて、しかし私はそれを追求することを拒まれているような気がして何もいわなかった。
ただ言われたようにソファに腰掛けると、自然とため息がこぼれ。
「これが、回収したイノセンスです」
団服の中に突っ込んでいたそれを、コムイさんの前に差し出した。コムイさんはそれを一度だけ手に取ると、私につき返して、ヘブラスカの元に一緒に行くのだと告げる。
「……私もですか?」
その必要性を図りかねて首を傾げると、コムイさんは疲れているだろうけれど頼むよとまた微笑んだ。その前に、一通りの状況報告をしようと思ったが、なぜかコムイさんはヘブラスカのところで話をしようと言い出して。
「……なにかありましたか」
呟きにも似た質問に、コムイさんは答えてはくれなかった。
――ヘブラスカの元へ行くのに人目を気にする必要はないと言えば何か誤解を招きそうだが実際その必要は全くと言っていいほどない。ここには探索部隊の人間は立ち入らないしその理由も必要性もない。
ここに入るのは二度目だ。たったの、二度目。以前、ここに流れ着いた最初の日以来私はここには近寄っていない。
別にヘブラスカを嫌っているわけではなかった。ただ彼はあまりにも人と形容するには長すぎる時を過ごしそしてその姿も人とは呼べそうになかった。それだけ。もしかするとそれは私が彼を化け物だと認識しているからかもしれなかったが言わせてみればエクソシスト全体を指し化け物だと形容した時点でヘブラスカも当然その枠の中には入っているわけだから差別意識を殊更に感じなくてもいいのかもしれない。
でもそれとは別に彼はヒトと呼ぶには抵抗がある。私と同じ、ヒトという生物にカテゴライズするには、ヒトは彼に対してあまりにも不足役だ。
寸分でもヘブラスカの想いを汲むことができたならば、足は遠ざからなかったろうか。それはわからない。
彼が常暗闇の中で何を思い今までという時の中を過ごしてきたかなど到底計り知れず、だから何も言葉など交わせるはずもなかった。またそもそも彼の過ごしてきた時間はすでにヒトのそれではありえない領域の話で、ヒトでしかない私が発せられるものなど何もなかったのだ。
ひどく静かにエレベータのような装置に乗って闇へと沈めば、ヘブラスカの体が現れる。
その中にイノセンスを送ると、彼は静かに口を開いた。
「ありがとう、鞠夜」
普段のとおり静かな声色には違いないそれがどうしてか何かを押し殺している風に聞こえた。依然聞いた声よりもか細く聞こえたのは彼に対して思うところがあったせいかもしれないが。
「……鞠夜君、咎落ちって、知っているかい?」
私の横からそっとコムイさんが口を開く。
咎落ち。
それはこの教団においてまさしく黒歴史と言って差し支えない、事項の一つ。
「今回の任務期間中でヘブ君はイノセンスの強い力を感じ取った。そしてそれは、リルのイノセンスによるものだと、僕に教えてくれた。……咎落ちと、ヘブ君は判断したよ」
「リルが、ですか?」
彼にそんな素振りはなかった。おそらくは探索部隊ごとあの街に引き留めていたのもリルの采配によるものだろうことなど容易に察しが付く。
探索部隊が一人エクソシストが消えた程度で、しかも死亡している可能性のほうが格段に高い中で一ヶ月も一所に留まっているだろうか答えは否だ。彼らはそこまで暇ではないのだから。
とすれば彼らがあんなにも長期にわたって滞在していた理由はリルの指示以外にはありえない。そのリルが咎落ちなどに遭うはずがない。何故ならばそれは『イノセンス』という『神』或いはそれに準ずる『使徒』に背いた者や、それに対して抱いた驕りを裁く現象だ。
事実だけをあげれば、その程度のものだ。
それでも長くこの教団に身を置き少なからずそれに触れた人たちの印象はまったく異なる。
黒の歴史というからには理由がある。過去、咎落ちはイノセンスと適合したエクソシストが神の使途という使命を放棄あるいはそれに背いた場合に起こるものではなく、寧ろイノセンスの適合者を、エクソシストを『造る』ために教団の研究者たちがかつて無理やりに行ったその行為において発生していたのが一般的だった。
知ったのは書庫の奥。
適合しない人間にイノセンスをあてがうことで、イノセンスはそれを『驕り』ととるのだと記されていた。
イノセンスに適合するというのはつまり、イノセンスを所持するに相応しいということのようだ。この考えで言えば。
リルは、いつそれに触れたというのだろう。咎落ちによる裁きは根本的にイノセンスの強力な力に人間が壊れる現象のはず。それでいけばリルは咎落ちになどあってはいない。生きて再びこの『家』へ帰ってきているのだから。ましてやリルの言動や行動からみても到底彼がイノセンスに背いたなど。
――通常、考えて裁かれるならばむしろそれは私のほうだろう。
「鞠夜、君は……リルのイノセンスに、触れた、ね……?」
優しいヘブラスカの声。あの白い空間がイノセンスによるものだとすれば確かに私はイノセンスの中にいたのだろう。マグ・メルを引き起こしていた今回回収したものではなくて、リルの。
「君が彼に……なんと言ったのかは知らない……けれど、それは確かに……エクソシストとして生きてきた彼を……救ったはずだ……咎落ちから……。だから、ありがとう……とても……感謝している……」
「僕からもだよ。君は何も知らないかもしれない。分からないかもしれない。否定するかもしれない。それでも結果として僕らは大切な家族を失わずに済んだんだ。ありがとう、本当に、感謝しているよ」
ヘブラスカの声は優しかった。
コムイさんの声も優しかった。
「今回君が彼と一緒で本当によかった」
優しかったから、こんな、言わなくてもいいことをわざわざ人払いの必要のないヘブラスカの元まで連れてきて、私に伝えた。それは彼らにとっては当たり前の配慮かもしれない。エクソシストよりも過敏な者の多い探索部隊の耳に『咎落ち』などという言葉が入らぬようにと。
リルの件はすでに過ぎ去った話でありいわば未遂だ。それでも一部はこのことを知ればリルに対する態度を変えるだろう。……あんなに、家に帰るのだと、みんなが待っているのだと、心待ちにしていた彼はそれでどんなに心を擂り潰していくことだろう。リルもまたリナリー達のように心温かな人間であるだろうに。
そのコムイさんたちの優しいというのは正確には違うのかもしれない。暖かいと言えばいいんだろうか。きっと本人たちは気付いてなどいやしないのだろうそんな優しさなど。それは彼らにとって当然の行動で当たり前で普通なのだから。
その温かさが私の心を腐らせて潰してゆく。なのに不快感は一切もない。
「私は、何もしてない」
喘ぐようにそれしか言うことはなかった。けれど、彼らにとってはそれでよかったのかもしれない。
見透かす様なコムイさんの笑顔はひたすら穏やかで、足場はヘブラスカのもとを離れ教団のフロアへ移動する。一度だけ見たヘブラスカの口元は穏やかに見えた。
「詳しい話は君の疲れが取れてからしようか。きっと今回はわからない体験をしたと思うから、鞠夜君も整理したいことがあるんじゃないかな」
「……いえ、大丈夫です。先に報告を」
「大丈夫なの?」
「ええ」
「ホントに?」
「……そんなに、あからさまに酷い顔をしていますか」
堪らずに聞けば苦笑して、コムイさんは言葉にしにくいね、と私の横を歩く。そうしながらただ私の頭を撫でた。
「リナリーも今教団に帰ってきているんだ。おいしくてあったかい紅茶を用意してもらおうね」
その声が幼子をあやす風で、なのに厭味ったらしさなど微塵もなくて、どう反応すればいいのか分からなくて、私は口を閉ざした。
一番おかしいのは私だ。
一番、可笑しいのは、私だ。
無意識的に私はすでにその存在を、認めていたのかもしれない。それは実存するのだと認識するという意味ではなくて、心の弱い人間を、救いを求めずにはいられない性質の人間が自らを慰めるために作った一つの居場所という意味でのそれだけれど。
『神様』と、そういう立場のものからすれば私はどれだけ愛おしい存在だっただろうか。
愚かで矮小で、そう叫んでいるのに一人自己陶酔し傷ついて怖がって粋がって、他人が傷ついてゆくのを自分が強いことの証明だと思い込んで悦に浸る。
自分が散々蔑んできた人間の集大成が自分だ。
その上さらに滑稽な姿をさらすなんて、できない。したく、ない。
今まで不要だと馴れ合いだと見下していたそれがどうしようもなく温かくて嬉しいなど、今更どんな顔をして、どんな言葉でそれを紡ぎ出せばいいのか。
喉もとで詰まる感情と言葉は実はそれでよかったのかもしれない。
それでもここで詰まることこそが私がまだ変な意地を張っているということなのだ。そしてそれは甘えであり、いつまでもだらだらと周囲に甘えてばかりということに変わりはなく結局情けなくみじめなことだけはゆるぎない。
コムイさんに報告を済ませると、測っていたようにリナリーが紅茶とコーヒーを持って入ってきた。彼女のことだからきっと測っていたのだろう。
「鞠夜、おかえり!無事でよかった」
うっすらと、綺麗に輝く瞳と水気を含む声色。直後に彼女はいよいよ泣き出しそうな声で大丈夫、と。
「……大丈夫、リナリー。紅茶をありがとう」
そっとリナリーの手からカップを受け取り、ゆっくりと口元に運ぶ。少しだけ口に含む直前にふわりと暖かなレモンの香りが鼻腔をくすぐって。
く、と飲み込んだ瞬間に、視界がゆがんだ。
「……鞠夜?」
「鞠夜君、どうかしたかい?」
目と鼻の奥が熱くなって、瞬きをして、レモンの香りは容易く、私を崩した。
嗚咽は出なかった。
ただ、静かに震えてしまう息を吐き出すとぐじゅぐじゅになってしまった心臓がとくりとくりと鼓動し、一度大きく鼻をすする。
言葉は出なかった。出せなかった。何も思い浮かばなかった。
もう一度レモンティーを飲んだ。飲む度にまた熱い湯が眼からこぼれた。まるでポンプのようだった。
リナリーは、私の背をあやすようにさすってくれた。コムイさんが、そっと司令室から出ていくのを感じる。
「鞠夜、おかえり」
とても優しい響きだった。
聖女がいるとすればそれはきっとリナリーのことだろうなどとおよそ似つかわしくない思考が頭の中で展開する。それでもきっとこの意見には皆が同意するだろうと変な自信さえあって、口元に笑みが浮かんだ。
心臓が湯たんぽになったようだった。もう一度鼻をすすり、勢いよく息を吐いた。
「リナリー」
「なぁに?」
隣にあるぬくもりを感じる。リナリーの体は柔らかくて暖かくて、いつか望んだもののような気がした。それにどうしようもなく歓びを感じて、彼女のほうへともたれこむ。
「ただいま」
私はうまく笑えていただろうか。
リナリーの笑顔がとても眩しくて、私は自然と目を細めていた。
2008/05/03 : UP