待宵草
「――っん、あ、や、魁、さ……」
「 、 っ」
「ぁ、ぁ、ん、んぅ、ぁぅっ」
「 …… 、 」
「……っは、ぁ、あ、や、あっ――!」
――嫌な夢を見た。夏の暑い日だ。魁は余りにも酷い夢を見て、寝起き早々自己嫌悪に陥る羽目になった。
今まで斯様な事は一度たりとも無かったのに、と、畳に敷いた布団の上で項垂れる。下腹部には、嫌なぬめりがあった。
恐らくは、魁の夏が終わったことで少しばかり緊張の糸が切れたのだろう。まだまだ修行が足りぬのか、と魁は一人ごちて、『始末』を行うべく完全に身を起こした。
早朝で、まだ誰一人家族は起きていない。魁は禊ぎと言わんばかりに水を頭から被る。気を抜けば不埒な夢の名残が頭を占め、気恥ずかしくなり再び水を被った。
侮蔑も良いところではないか、と魁は思う。夢に出てきたのは弟由太郎の友人である皐だった。魁が普段下品で俗だと思っている『そういう』夢の中で、皐が乱れきっている姿がまた過ぎる。
最低だと自分を罵って、朝から魁の気分は最悪だった。
皐と言葉を交わすようになって魁はまだ日が浅い。由太郎の友人として幾度か由太郎を交え言葉を重ねたものの、それは飽くまで友人の兄と弟の友人という枠からはでなかった。会話自体の回数も勿論少なかったが、ちょくちょくと由太郎から皐の話を聞いていた魁は、さして気にも留めなかった。また校内での評判に興味を惹かれていた、それ以上の感情を持ち合わせても居なかった。
それが変わったのが、魁の夏が完全に幕を閉じた試合の、2日後だった。
飄々と何の前触れもなく現れた皐が、さり気なく魁と距離を取って座り、嫌でも魁と会話する状況になった時のことだ。
皐と話しながら、由太郎の名を良く呼ぶのに、ふと、魁は自分の名を呼ばれたことがないことに気付いた。そう、自己紹介の直ぐ後の、苗字以外は。
嫌われているのではとも思ったが、皐の態度はそれはないと如実に語って居た。そもそも人に好きだ嫌いだという感情を持てるようになるまで長そうな彼女のことだ。ひょっとすると興味の対象外なのではと魁は考えた。
結局それは大部分が魁の推測通りで、しかし魁は皐の身近な人間の一人に昇格することが出来た。その為に魁が積極的に働きかけたのは、皐に少なからず敬意を払っていて、その相手とより近くなり切磋琢磨して行ければよいと思っていたからだ。この時は、まだ。
しかし夢に出てきたのは他ならないその少女で。
魁は少し混乱していた。
その日朝からグラウンドに出て部活動をしていても、今一動きが良くならず、度々に父である監督から檄を飛ばされてしまう。困惑気味の魁に監督の村中は気付いていたのか、甲子園が終わったから集中出来ないと言うわけではなさそうだと踏んでいた。ただ集中出来ないなら無闇に練習していても意味がないと、魁にもう少し柔軟をするように言いつけた。
魁が仕方なく自分の身をもう一度解していると、同期の小饂飩が魁に近寄った。
「よぉ、カイちゃん。今日は一体どーしたってんだ?ピーの調子でも悪いのか?」
炸裂する放送禁止用語に魁は赤面しながら、その逆だと切に零した。既に自分の手には負えない問題で、かといって相談出来る相手が小饂飩くらいしか居なかったのだ。魁らしくない発言に小饂飩は驚くが、そこまで切羽詰まっていて練習に身が入らないのかと心配を露わにした。魁が野球に注ぐ集中力は授業中の比ではない。余程なのだろうと小饂飩はどういうわけなのか尋ねた。
魁はことのあらましを説明する。小声で。
小饂飩はそれを聞きながら頷いていたが、魁が全てを語り終えると、少し考えるように唸ってから、こう言った。
「んー……。オレも一回その如月皐ってどんな可愛いコなのかって見に行ったんだけどよぉ、カイちゃんがピーするような激烈ピーそうな女の子じゃなかった気がするぜ?」
「……小饂飩、お主と一緒にするな」
「わぁってるよ!でも本気で……オレの好みからは外れてっけどなぁ……あ!何か、もしかしてあの子すっげえピーだとかピーがピーなんじゃ」
「小饂飩!そのようなことは断じてない!」
顔を赤くして叫ぶ魁に、小饂飩は肩を竦めた。
「だぁってよ、あの子は別にそう可愛いわけでもなかったんだぜ?カイちゃんだって18だしよ、夢に見んのはまだ分かんよ。けどその相手がなぁ……」
つーか、そこまできっぱり否定出来るってのはそれだけ魁ちゃんがそのこの子と見てるからじゃねぇの、というのは心の中に仕舞い。小饂飩は溜息をついた。
「拙者とてどうすれば良いのか皆目見当がつかんのだ。このままでは皐殿に合わせる顔が」
思い詰めるその顔に、小饂飩は魁ちゃんはホンットに今時いねえくらい真面目だよなぁ、と呆れかえる。
「好みは確かに人それぞれって言うしな……。いっそカイちゃんが無理矢理にでもあの子をピーしてとっととあの子のピーにピーをピーしたら案外解決するんじゃね?原因が解決されたらピーな夢も見ねえって」
「……仮にそれで行くとして、拙者が行動を起こすと思うか」
「すこっしも」
恨めしそうに小饂飩を睨んで、魁は一つ溜息をついた。あっさりとした皐からは想像も出来ないほど悩ましい姿だっただけに、魁は困惑気味である。ましてや夢の中の自分も皐をしつこく欲していただけに、自分はそう言う目で見ていたのかとどうして良いのか考えあぐねていた。
「カイちゃんのことだし、とっととゲロっちまえば良いんでねえの?気まずいんならよ、ほら、懺悔っての?して素直に謝れば」
「むう……」
「オレはあのこの子と良く知ってるわけじゃねぇから、良いアドバイスしてやれねェけど」
「いや……拙者一人ではどうすべきか腐心して居たことだろう。感謝する」
会釈する魁に、良いってことよ、と小饂飩はその背中を力強く叩いた。
「んじゃ、その子に謝るってことで決めたんだし、今日はもう野球に集中しようや」
「無論だ」
さて、それから数時間後、魁は休憩時間に思わぬ人間を見た。制服姿ではないため見間違いかとも思ったのだが、次の瞬間由太郎が大きく皐の名を呼んでいたので、それが見間違いではなかったことが知れる。
小饂飩はすげえタイミングだな、と思っていたが、魁はさり気なくを装って、由太郎と皐が話している場所に足を向けた。
「あ、魁さん今日は」
木陰に座る由太郎の脇に立つ皐が、魁に気付いて会釈をした。魁は少し笑みを作って、それに応えた。そして何故夏休み中だというのに皐が校内にいるのかと疑問に思った。
「此度は何用で此処へ?」
「本です。今日は図書室の開館日ですから」
胸に抱いた本の群れを見せられ、魁は納得したように一つ頷いた。僅かに、皐殿らしいなと自然に笑みさえこぼれた。
「うへえ、皐ってばそんな本読んでよ、いつかホントに本の虫になっちまうぞ!」
「あはは、可愛いなあ由太郎は」
微笑ましいまでにじゃれる二人を見ながら、魁は軽く笑みながら先ほど受け取った水を一口飲んだ。集中した後の所為か、敏感になった感覚がひやりとした喉越しに心地良さをもたらした。
「それ一口くれ」
「お、ほとんど残ってないけど良いのか?」
「由太郎が良いならいいよ」
「ん」
「……」
暑さに耐えかねたのか、皐が由太郎にそう申し出、由太郎が当たり前のように用意されていた飲料水を手渡す。魁はそれを渋い顔で見ていたが、敢えて何も言いはしなかった。
ただ不意に目線が皐の口元に及んで、一度僅かに動いた喉元で、いきなり夢の皐が魁の脳裏に浮き上がった。水で湿った皐の唇は、夢の中で艶めかしい声を上げていた時のそれと酷似していて。
「サンクス。……?魁さん、顔赤いけど大丈夫ですか?」
「ホントだ。にいちゃん、暑いのか?」
揃って心配され、魁は気まずさも含め大丈夫だと取り繕ったが、皐はやれ熱中症ではないかだのこれからぶっ倒れるのではないかと色々要らないことを言って由太郎の不安を助長させ、大丈夫、と言う魁の言葉は過去に置き去りにされた。
そうこうしている内に、水分補給のための休憩時間が終わり集合がかかる。由太郎は元気よく皐に手を振って走り出した。
「おれ、にいちゃんまだ休んどくように言っとくな!じゃあな、皐!」
「こ、これ由太郎、拙者は大丈夫だと」
魁も慌ててグラウンドに戻ろうとするが、
「おお、お前のにいちゃんのことは面倒臭いけどそれなりに面倒はみとくから安心して行ってこいー」
と皐に先を越され、思わず足を止めた。
「な、如月殿!」
「はいはーい、名前で読んで下さいねー」
年上も何も関係ないと言った皐の態度に、魁はなにか納得のいかないものを覚えつつ。皐が木陰に座って、上半身は木の幹にもたれた上程で、ぽんぽんと太股を叩くのを見ていた。皐は顔を上げて魁を見上げる。
「ほらほら早く、此処に頭置いて下さい」
「はっ」
皐の言葉が突拍子もなく、そして今の魁にとっては衝撃的で誘惑的だったので、魁は思わず声を裏返してしまった。
「だって本じゃ硬いでしょう」
気付かない皐に、魁はそう言う意味ではないのだがとぼそり呟く。皐は構うものかと魁を無理矢理魁の頭を鷲掴みにした。
「皐殿……っ、拙者は」
「顔真っ赤にして汗かいてる人に拒否権はありません。……魁さん、その水とタオル貸して下さい、顔冷やします。あとユニフォーム脱いで下さい。アンダーは着ていても良いですけど、靴下とかも全部脱いで下さいね」
「……っ」
「はやく」
手早い指示に、皐がきちんとした処置を施すことで魁の大事がないようにしているのだと気付く。しかし急かされ、魁は仕方なく皐の隣に座って、言われた通りの行動をした。
優しい、と言うよりは自然体的な気配りが心地良いと感じた。
「ったく……いい歳して世話かけさせないで下さい」
「拙者は、だから大丈夫だと……」
「そう言って、簡単に振り切れる私の腕も払わなかったでしょう」
突かれ、魁は黙り込んだ。もしかすると心の内では膝枕を望んでいたかも知れないと、そんな自分を叱咤する。
皐の腕を振り払わなかったのは、魁の指の力が並ではないからだ。運動など体育くらいしか行っていない少女にとっては、魁の力は強すぎるのである。
高校三年にもなって魁もそれは重々承知しているが故に、特に異性に対しては余り強くでたくなかった。そして相手はあの皐である。
「歳なんですから、無理はしない方が良いですよ」
「……相分かった」
少々失礼な言い方に、魁は仕方なく返事をする。声色は余り良いとは言えなかったが、皐は気にしなかった。
ふと携帯のボタンを押す小さな音が聞こえて、魁は切り出すなら話題の途絶えた今だろうと決めた。
「今日は皐殿に二度も出会ったな」
「二度?」
訝る声が魁に振ってくる。魁は僅かに口元に笑みを携えて、すうと息を吸い込んだ。まだ、あの甘美な幻覚は見えない。
「夢に皐殿が出てきた」
「じゃあ私が魁さんのことそれだけ好きなんですね」
「……皐殿」
「あれ、嬉しくないんですか?」
「そうではなく……」
それは古典の時代の話だろうと、魁は言った。じゃあ魁さんが私のこと好きなんですねと切り返す皐に、からかわれていると承知しながら魁は赤面してしまう。結局、魁はその言葉には何も返さなかった。
それは皐に言われて少々心が温まる気がしたからで、しかし肯定するのは気恥ずかしかったからだ。それの意味するところを、魁はまだ自覚しないが。
それをどうとったのか、皐は魁の顔を乱暴に拭った。不機嫌であると言うことがありありと分かるほど、力強かった。魁は思わず抗議の声を上げるが、今日の魁さんは今一誠実さに欠けますねと言う皐に黙るしかなかった。恐らく先ほど皐の言葉に返事をしなかった所為だろう。
魁は話題をそらすように、皐が先ほど胸に抱いていた本の胸を思い出した。決意した懺悔が脳裏を過ぎるが、若干逸れてしまい穏和とは言い難いこの雰囲気では、言っても罵倒されるのがオチだろう。
「……皐殿、今日はどのような本を?」
ゆっくりと切り出して、話題を何とか一度そらそうと試みる。皐は素直に応えてくれた。
「今日は前から借りていたシリーズものと、ちょっと気になったんで歌物語と、あとは春画ですね」
「しゅ……!?」
しかし内容の最後に思わぬ言葉が混ざり込んでいて、魁は思わず爆発しそうになった。いきなり起きあがれば頭に血が上りますよ!と怒鳴る皐も何のその。
「な、皐殿、しゅ、んが、と、今し方……!」
取り乱す魁とは裏腹に、皐の顔は至って平静で、寧ろ魁は何を慌てているのかと言うような表情をしていた。魁にとっては火に油を注ぐような発言なのだから致し方ない。心中必死で夢でのことを追い払おうとする魁に、皐は平然と言ってのけた。
「言いましたけど?美術史の本棚を見てたら薄いものですけどあったんで、面白そうだなーと思って借りてきました。ちょっと見たけど昔の人も今の人と大概ですよね、何てったって真ん中の方にタコプレイの絵が」
「皐殿っ!」
耐えかねて叫ぶ魁に、皐が少し笑う。その顔が少し不敵に映り、魁は一瞬どぎまぎしてしまった。
「はいはい、すいませんね。……あ、誰か来ましたよ」
「親父殿」
皐の声を受けて、魁は中途半端に身を起こしていた状態から正座へ。流石に休憩時間を終えて、思い違いとは言え不正に休んでいるのだから気まずいものがある。
「なんだ、魁。由太郎が少し熱中症と騒ぐから来てみれば……」
村中の威圧感に、皐が居住まいを直す。甚平姿だが、正直今の魁にとっては目の毒でしかない。ちらりと横に目線を走らせれば、甚平の合間から皐の胸元が見えそうになっているのだ。無防備すぎると魁は思うが、つい目線が走る辺り自己嫌悪してしまう。
「おお、この間家に来ていた奴だったか?」
「あ、はい。よくご存じで」
「魁と由太郎が見送っていたのを見てな」
何もできんで悪かったな、と村中が零す。皐はいいえ、と首を振った。
そのやりとりを聞きながら、魁はまた少し落ち込む。しかしふと上げた目線が村中のそれと交わり、魁は少し身を固くした。
村中はぽんぽんと皐の頭に手を乗せて、少し魁の方を見やり、にやりと笑う。そして意味ありげに笑みを濃くして、もうちょっと休んでおけとそこを後にした。
完全に大体のことは見抜かれている。
魁はそう直感した。
同時に気恥ずかしさが蘇り、身を縮込める。
「魁さん?」
「……何でもない」
「何でもないって顔してませんよ。ほら、やっぱ寝てないと。つーか寝てろまじで」
ぞんざいになる言葉遣いに、僅かに笑みが漏れた。皐の余り女子らしくない態度は普段魁の目にとまるのだが、この時ばかりは有り難いと思った。
その後直ぐに魁は皐に土下座をして、皐はそれは生理現象であって仕方のないことだから今後一切気に掛けることはないのだと魁を宥めた。
こう言ったことに関してからっきしに疎い魁に、皐は呆れさえも見せるのだが。直後それをネタに魁をからかうことだけは忘れなかった。
その日皐は直ぐに帰ってしまい、小饂飩は首尾はどうか尋ねた。上々だと返ってきた答えに、そりゃ良かったねと一言。
「しかし……やっぱそう可愛いってわけでもねェよな……」
「止さぬか小饂飩。……皐殿の良いところは拙者がよく知っている」
「へ?どういうこったい、それは」
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立――……小式部内侍。これ以上お主には教えてやらぬ。……出来れば、拙者だけが知悉しているのだと思いたいのでな」
「……カイちゃん?」
ふ、と笑った魁に、こと恋愛に関しては初な反応を見せるのだとばかり小饂飩は思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。朝の態度は単純に恋愛関係なく慕っている相手に対しての落ち込みであって、恋情で悩んでいたわけではなかったのだ。皐への感情をはっきりさせたのか、魁は素直にそれを感じて、少しの独占欲さえ見せた。
こりゃぁ化けるな、と、小饂飩は一人ごちた。
2006/02/05 : UP