運命という名の、絶望
日々は、何事もなく過ぎて行くように思えた。
だがそれでいて確かに、物事は着実に進んでいた。
莢の、まったくあずかり知らない所で。
「誰なの……っ!!」
”私はあなた…………あなたは私”
「っ……!」
”だから私は気付いてしまったのです…。あの少年を想うあなたの気持ちを”
「だったら……っはやく、記憶を返して!!」
”全てが過ぎ去ったその後でならば……”
「駄目、遅すぎる!訳の分からない焦燥感も、不安も、全部その記憶の中にあるならっ!!」
莢が伸ばした手は、白い光の中に入り込むと、急激に意識が浮かび上がった。
「嫌な夢……」
莢はここ数日、夢を見ていた。悪夢とも取れるような夢だった。
記憶を奪った張本人の声と対峙している夢。それは飽くまで声であって、姿形は見えなかった。
莢がファンダリアにいた頃に再び感じ始めていた、払拭しがたい気持ち。その原因が、失った自分の記憶の中にあるような気がして、莢は求めた。
手遅れになる、と莢は潜り込んでしまった意識の中でそう感じた。
神の眼を取り戻してからも流れきらない不安は日々、莢の中で積もっていた。
「……」
莢は息をついて、ベットの上で仰向けに寝たまま、軽く目を閉じた。
Event No.29 あしおと
明るい日が差していた。時間が、決別の時が近づいていた。
「………嫌な気分だ」
『坊ちゃん…』
リオンは自室で、窓の側、日が良く当たる心地良い空間に佇んでいた。
神の眼を取り戻してから、既に十日余り。穏やかな時は、そろそろ終わりを告げようとしていた。
「大事なんだ、両方。僕に世界を見せてくれた……」
『……』
シャルティエはリオンの言葉に、相づちを打つことすら出来なかった。滅多に弱さを見せることのないマスターの、独り言とも取れる葛藤に只、彼は耳を傾けることしかできない。無言は、リオンの言葉の先を待っていた。
若い主人の、少年の迷い。
かつて少佐という地位についていたシャルティエが今、リオンの立場に置かれていたとすれば、どう動くだろう。シャルティエは考えて、やめた。
シャルティエがリオンになることは有り得なかったし、仮にそうだったとしても、シャルティエとリオンの行動は一致しないだろう。また、そうでなければいけないのだ。立場が同じだったとしても、二人は確かに別の人格であるのだから。
「……」
リオンは歯がゆい気持ちでいっぱいだった。ここに来てこうも容易くリオンの心に入ってくる人間はいなかった。長い間、リオンにとって世界が必要な理由は、たった一人の人間のためだった。たった一人の人間のために、世界が必要だった。
リオンにとって、世界はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
リオンは一人の人間の笑顔と幸せを望んでいた。淡い少年期の感情を弄ぶように己の中で泳がし続けながら、リオンは時として無性にやるせなさを感じた。
リオンはその人間が好きだった。愛していた、と言った方が、正しいのかも知れない。兎も角、そんなリオンは想い人の幸せを思いながらまた、想い人と想い想われる幸せを得たかった。リオンはそれが辛かった。
矛盾とも言える想い。依存。
愛情に飢えていたというなら、それもまた正しいだろう。リオンは無償の愛が欲しかった。利害の一致ではない、損得勘定では動かされない、そんな感情が欲しかった。
勿論リオンの中で、これらの欲求は自覚されずに育ってきた。
それ故に、先の任務で行動を共にした『仲間』に貰った友愛や信頼を感じることはなかった。リオンの心は頑なに、他に対して立ち入りを許さなかったから。
無意識的に育った欲求と、それを満たしていた人間関係。
リオンは今それらに気付きながら、しかしやはり、心を許すことは出来なかった。許してしまえば、今までの感情が全て虚になってしまう恐怖が、リオンにはあった。
「迷うことすら、出来ないんだ」
戒めるようにリオンは拳を作った。
『それは……どういう意味なんです?』
「僕にわざわざ言わせるのか?」
『……』
皮肉るように、リオンは笑った。
「どうやら僕は、最期のその時まで、あいつに踊らされていなければならないらしい。最期の瞬間ですら、あいつによって決められているのかも知れないな。あいつは僕の全てを握っている。……気付くのが遅かった」
リオンは最後に、前髪をかき上げた。
『坊ちゃん、気付いただけでも良いじゃないですか』
シャルティエはリオンの腰からそう言葉を掛けた。
「いや。……気付いた方が寧ろ、厄介だ」
気休めにすらならないと言うことは、シャルティエ自身にも分かっていたはずだった。敢えてリオンに自覚させるような事を仄めかしたのはシャルティエで、シャルティエは口を噤んだ。
「……最期くらいは自分の意志で行動してみたかったが…………」
リオンの言葉はそれ以上は続かなかった。
ドアをノックする音が聞こえて、リオンは意識を完全に戻した。
「誰だ?」
「私」
「……入れ」
入ってきたのは、莢。莢は微かに笑みを見せて、リオンの名を呼んだ。戸を閉めて、完全な密室が出来た。莢は静かにリオンの側によって、腰のシャルティエを見た。
「ソーディアンって、今は眠ってるんだよね?」
「ああ」
「じゃぁ昌術も使えないんじゃないの?それでも腰に差してるの?」
「……落ち着かないんだ」
リオンは曖昧に答えた。しかし莢は、踏み込んできた。
「聞こえたよ。……シャルティエは眠ってないよね?どうして?」
リオンは、誰にも分からないほど小さく動揺した。動きが一瞬固まり、莢はそれを目聡く見つけた。
リオンは莢の目を見ることが出来なかった。
「らしくない答え方だったね。目が彷徨ってるよ、リオン。リオンはあんまり人の目を見て話さないけど。でも、目線が彷徨ったことなんて無かった。何か踏み行って欲しくないこととか、そう言う時くらいしか」
何時になく聡い莢に、リオンは息をついた。
「お前はいらないことばかり気が付くな」
「いらないこと?そうかな。私はそうは思わないよ。特に、シャルティエの声を聞いてしまったから」
莢の声色は厳しいものだった。リオンは黙ったまま、窓際に立ち続ける。
「……何かあるんでしょ?ディムロスやアトワイト立ちももう目覚めてるんじゃないの?また神の眼がどうにかなるって予兆とかじゃないの?」
矢次に問いかける莢に、リオンはゆっくり、息をついた。
【そうであるか否かは関係ない。お前が感づかれたと思えば、斬れ】
「――――落ち着け。今日の深夜、既に任務が入っている。オベロン社関連の任務で、ヒューゴ様も一緒にここを発たれる。その護衛役として僕と莢、お前が選ばれた」
「……ヒューゴ?」
「くれぐれも内密に、とのことだ。それと……様を付けろ」
リオンは、いつも通り不機嫌な顔でそう付け加えた。
「シャルが目覚めたのは、別に神の眼が危険にさらされているからじゃない。そもそもお前はセインガルド王の言葉を忘れたのか?」
「でも……」
「言ったはずだ。ソーディアンはしばらくの眠りについただけだと。今頃他のソーディアン達も目覚めに入っているだろう」
リオンは言うと、さっさと準備してこい、と莢を部屋から追い立てた。
「――――…」
すまない。
リオンのその言葉が、大気中に響くことはなかった。
準備は刻々と進んでいた。飛行竜に乗り込み、彼らはダリルシェイドを発った。
「莢、任務について話がある」
リオンは呼び掛けた。莢は頷いて、リオンの後について、歩き出した。
「今回はよろしく頼むとしよう」
途中入れ違ったヒューゴは二人に笑みを向けた。莢は会釈をしたが、その前を歩いていたリオンは少し顔を俯けた。
何を考えている?あれを忘れたか?
まさか。
目は口ほどにものを言う。短いやりとりで、リオンは一気に疲れた気がした。
適当な部屋に入ると、極秘任務だと言ったリオンの話を聞くべく、莢は椅子に腰を下ろした。
リオンは一度呼吸する間をおいて、切り出した。
「極秘任務は……神の眼を盗み出すことだ」
重々しく開かれた言葉は、にわかに信じがたい言葉だった。莢はリオンが何を言ったのか分からず、混乱した。
「……え?」
『ま、莢の気持ちも分かるけどね』
動揺が顔に出ていた所為でリオンの溜め息を誘った莢は、シャルティエのフォローを受けた。
「ヒューゴ様はこの機会をもうずっと前から狙っていらっしゃった。グレバムが神の眼を盗んだ時はどうしようかと思ったが………僕たちが神の眼を取り戻したことでそれは大きなチャンスに変わった。神の眼が戻って直ぐに、神の眼が盗まれるはずがないと言う点を突いて。……それに、まさかオベロン社の総帥が、こんな計画を立てていたとは誰も思わないだろう」
「ちょ………ちょっと」
莢は混乱したままの状態で、取り敢えず待ったをかけた。
「神の眼は……世界が滅びるんでしょ?リオンはそれで良いの?マリアンさんは??」
「…マリアンは生きてさえ居たら良い。僕は、捨て駒だ。その為の地位と、技術を築いてきた」
リオンは、静かに語り始めた。
「僕とヒューゴは……正真正銘血の繋がった親子だ。本名はエミリオ・カトレット。クリス・カトレットとヒューゴ・ジルクリフトとの間に生まれた。あの守銭奴……ルーティ・カトレットの弟だ。あれは危険を感じた顔も知らない僕の母親が、ソーディアンアトワイトと共にクレスタの孤児院に捨てに行った。……僕はその後に生まれて、その時母は死んだ。あいつの所為なのか、僕の所為なのかは知らない」
リオンがそう言ったとき、莢の顔が微かに歪んだ。
「……僕の所為、なんて言わないで」
首を微かに左右に振りながら、莢はそこだけを否定した。膝の上に置いた両手は、拳を作っていた。リオンはそれを一瞥して、言葉を続けた。
「僕はリオンという偽名を与えられた。親子という関係はうち捨てられ、僕はヒューゴの部下として、駒として育てられた。母親の愛情を知らずに育った僕は、母に似ているからという理由で雇われたマリアンと出会った。僕はマリアンが好きだった」
過去形は、しかし、それと同時に現在進行形でもあった。
「ヒューゴはそれに気付いた。……父親と同じ女性を好きになるなんて、僕だって思わなかった」
リオンは自嘲気味に吐き捨てた。
「母親のように僕に接してくれたマリアンは、僕の中で唯一の世界になった。ヒューゴはそれに気付いて、マリアンは人質に取られた。本人には気付かれてなかったが……僕は否が応でもヒューゴに逆らえなくなった」
一つ一つ、気を抜けばそのまま流れてしまいそうな淡々とした言葉達を、莢は必死で受け止めていた。リオンが初めて自分自身を語った。莢にとっては、それがどれほど嬉しいことだったか。そして、どれほど痛いことだったのか。
「確実にセインガルド王に取り入ったヒューゴは、僕を客員剣士にして、更に自分の屋敷に住まわせることで城の情報を手に入れ、逆に王は相当な信頼を置くようになった。……それが今までの僕と、オベロン社だ」
告白にしては、重すぎた。莢は黙って聞いた。
「まぁ、ハーメンツの村で暴れているというレンズハンターの名を見た時は、正直興味も湧いたが」
沈黙を取り繕うように、リオンは言った。莢はリオンの言葉の最後を払うように口を開いた。
「…………リオンは……後悔、しない?ヒューゴの下で駒として動いて……後悔しない?」
泣きそうになっているのだろう。莢の語尾は震えていた。リオンは一度目を伏せ
「マリアンが……僕の、全てなんだ」
目を、開けた。
「その為だったら、あいつの思うように動いてやる。全てを握られて糸が切れるまで、操り人形として踊ってやる。…………そう、決めたんだ」
リオンは莢の目を見つめた。莢は直ぐに、目を逸らした。
「今移動しているのは神の眼を使って世界を支配する為の下準備だ。もう今は使っていない………極秘裏にされたオベロン社の工場がある。その奥に……破壊兵器、ベルクラントを持つ空中都市が。やつは神の眼でそれを再び空に置き、地上を支配する」
「……その……、破壊兵器、って?」
「レンズの力で強力なレーザーを発射する。それによってえぐり取られた地表は吸い取られ、この世界を包み込む外郭となり、天上に新しい土地が出来るようになる。……天地戦争の話は知識の塔でそれなりに知っているとは思うが……」
「氷河期だった世界を救うために、日の届く場所に地表を作って、新しい土地を作ろうとしたんでしょ?それがベルクラントだった。でも、上に行けたのは貴族ばかりで、しかもその人達は地上に住まう人を支配するようになって………」
「ベルクラントで地上を攻撃した。完全な皮肉だ」
リオンは乾いた笑いを零した。悲壮感が一層、増した気がした。
「……それで……。リオンがそのことを私に話したのは?」
「お前も駒になって貰う。ただ……目標が達成出来たら好きにすると良い」
「……目標?」
莢がリオンを見た。リオンは依然として顔を上げないまま
「スタン達が直ぐに追ってくるだろう。その時間稼ぎだ」
そう言った。捨て駒だと言ったその言葉通り、リオンの最後は十中八九、そこになることだろう。
「時間さえ稼げば……それで良い。莢がこれ以上手を汚す謂われはない。言うなればお前も被害者だからな。仮にスタン達が追ってこなくとも、準備さえ整えばお前は解放する」
「そんな……一番の被害者はリオン……ううん。エミリオじゃないの?」
「違う。僕は…マリアンさえ無事なら……本望だ」
「嘘!好きな人を置いて死ぬなんて……っ」
「僕がどれだけ想っていても、向こうが同じ想いで居てくれるとは限らない」
リオンはそう言い捨てた。
「例えば僕とマリアンが互いに思いを寄せていたとして……その上でこんな事になったら、多分僕は違っていたかも知れない。でも、違う。マリアンは……」
「長い間一緒にいたんじゃないの?そんな人が急に死んでしまったら、誰だって悲しむのに…!」
「でも、時間が経てばきっと僕のことは古い記憶になるだろう」
「そうじゃなくて!!」
莢は、言ってしまいたかった。リオンに寄せた想い。歯がゆさから、奇妙に熱が籠もる。目の奥が熱くなった。心臓が大きく動いた。
「僕が単に、一方的に思いを寄せていただけだ。向こうがそうじゃないなら、僕が死ぬことでマリアンを傷つけずに済む。僕のことでマリアンを巻き込みたくないんだ」
「馬鹿」
意地を張っている状態のリオンに、莢は食い下がった。
「スタンだって……みんな、みんな、リオンのこと好きだよ、仲間でしょ!一緒にマリアンさんを助けて、神の眼を今度こそ壊してしまえばいい!!」
「五月蝿い!僕には僕の選んだ道がある。口出しするな」
「…っ何でそんなに一人で……何でも、背負い込もうとするの……?」
莢の顔が歪んだ。目が潤んで、今にも涙が頬を下っていきそうなほど。
しかしリオンはそれには応えなかった。ただ、
「直に着く。工場にはモンスターが彷徨いているからそのつもりをしておけ」
そう言って、部屋を出た。後ろ手で戸を閉める。部屋の中の気配は静かだった。
『……』
シャルティエはなんと言ってよいのか分からなかった。ただ主人が深く息をつくのを感じた。
「済まない」
呟いた言葉は、口の中だけで。シャルティエにすら、はっきりと届くことはなかった。
200-/--/-- : UP