光の旋律
マリアン、と言う名前が莢にとって、どれほどの影響力を持っていたのか、彼は知らない。
そして莢もまた、自分自身の影響による彼の変化を知らない。
Event No.38 ノイシュタットの華
翌日の早朝に小屋を出て、その日の日没頃には、ノイシュタットに着くことが出来た。アルはロニに、莢はジューダスに、それぞれ何らかの変化があることを汲み取った。しかし、何かまでは分かるはずもなかった。
「取り敢えず一旦は港に行こうぜ。着いたって報せねぇとな」
「…そうですね」
莢はロニの言葉にワンテンポ遅く、頷いた。
ノイシュタットは変わっていた。外観も、街も、中身も、人も。
外殻が降り注ぎ、壊滅状態にあった街。そして貨幣の価値が無意味になり、かつてこの街で暮らしていた貴族達は途方に暮れた。その中で、スラムに住んでいた子供らは生きていた。だから街を直そうと奮闘した。
嘆くばかりで、何もしない貴族達に渇を入れたのはスラム側の方だった。互いの溝はあるにはあったものの、スラム側としても人手は欲しかったし、貴族側は生きて行きたかった。双方の利害の一致から、和解は始まったのだ。
莢は貧富の差を根絶しようとしていたイレーヌの屋敷を見たかったが、当然それを口に出すことはしないで、皆に従った。
そろそろ人もまばらになってきた街の合間を縫うように、港へ直行。そうして、しかし、直ぐに船の修理がまだだと言うことに気付いた。フォルネウスが開けた穴は大きく、船は痛々しいままの姿で、停泊していた。
「これはこれは、英雄様」
船の船長が、カイル達を見て恭しく礼をした。口調は軽かった。
隣に控えていた水夫も、礼をして
「すみません、思ったよりも被害が大きいようで……まだもう暫く掛かりそうなんです」
言って、
「現在こちらの方で宿を手配させて頂きましたので、そちらの方でおくつろぎ下さい」
と、控えめに笑った。カイル達は了承して、宿へと踵を返す。莢はふと、辺りを見渡した。
「どうしたの?」
アルフレッドが、莢を見る。つられるようにして、皆が莢を振り返った。莢は視線を浴びながら
「……さくら、咲いてないのかな」
少しばかり、残念そうに、そう言った。それにロニが、ああ、と答えた。
「18年前の時に、大分やられちまったしなぁ。でも、木がないこともないから、そう気を落とすなよ」
言って、宿へ向かう。
「さくら、好きなの?」
リアラが、皆が宿へ引き上げるのを見ながら問うた。莢は、首を振った。
「思い出があるから。……それに、懐かしい花」
莢は少しだけ、笑った。リアラは何かを言いかけて口を開けたが、結局、それは閉じて。そう、とだけ相づちを打った。
莢はリアラに続いて宿へ足を向けつつ、薄暗い街の中で、見つけた。
――――かつてとやや変わったものの、大きな、屋敷の影を。
船の修理は翌日になっても進んではいなかった。よってカイル達は、ノイシュタットを散歩することになった。の、だが。
昨夜莢が気にした建物に行きたい、と莢が言ってから、話は変わった。
莢が見た18年前の建物の面影。そこには行商人が、イレーヌの遺言状を持って、笑っていた。莢とジューダスはやや不快感を示したが、その遺言状とやらに書かれていることに反応した。
莢も、ジューダスも、彼女が世界の悪でありながら、その実、誰よりもこのノイシュタットを築こうとした姿を知っている。そしてそんな彼女は、二人の中では決して悪にはなり得なかった。
子ども達に文字を教え、言葉を教え、礼儀を与え、分別を弁えさせたのは、他ならぬイレーヌで。貧富の差を無くしたいのだと考えていたイレーヌの、盲目的なまでの愛を、二人は知っていたのだ。
だからそのイレーヌの遺言状を片手に、その中に書かれている『ノイシュタットの宝』を欲している男を見て、酷い嫌悪感と不快感に襲われた。
何も知らぬくせに、イレーヌの言う宝をどんなものかとすら考えない低俗な輩に、そんな宝を与えてなるものか。
二人は、そう思った。
しかしカイルは、快くそれを引き受けてしまった。
イレーヌの言う宝を探し出して、私に渡して下さいなどという、行商人の言葉を。
「……私は、あんまり気が進まないな」
「僕もだ。大体その宝とやらがあるのは、白雲の尾根にあるオベロン社の工場の一端だ。そんな場所まで行くより、ここで体を休めていた方が得策だろう。ファンダリアは寒い。体力を残しておいて損はない」
ジューダスは思わずそう言った。言ってから、18年前のように目的があって急ぐわけでもないのに、と、気付く。しかし、正論だった。
「でもオレ、退屈すぎて身体が鈍っちゃうよ。それに、困ってる人を放ってなんておけないしね!」
カイルは、言って笑顔で歩き出す。二人は複雑そうに顔を見合わせた。
「……」
アルフレッドは二人とカイルを交互に見て、急に
「俺、パス」
片手を上げた。
へ、と意外そうな声が、ロニとカイルからあがる。
「白雲の尾根を越えて、結構疲れてるらしくてさ。深い霧で神経使ったし、もうちょいベッドで寝るわ」
「えー…」
アルフレッドの言葉に、カイルが不服を申し立てた。その様子を見ながら、ジューダスは会話に割り込んだ。
「じゃぁマリアも休んでいろ。僕はこいつらについていく」
「おっ、またストーキングか?」
「違う。僕もこっちに残ったら、お前達はまたどうせ横道に逸れて帰ってこないだろう。迷われても迷惑だ」
「うわぁ、随分な言われ様」
ジューダスの言葉にアルが複雑そうに顔をしかめた。しかし一理ある、と頷くと、行ってきなよ、と四人を送り出した。
明るいノイシュタットから、再び霧の中へ向かう四人に手を振って、二人は踵を返す。アルフレッドは背伸びをして、身体を伸ばした。
「さて、俺達はその間に、惰眠を貪ろう。あー…眠たい」
「低血圧気味なの、直さないですか?」
「無理無理。カイルよりは遙かにマシだし」
アルフレッドは片手を振りながら答えた。莢はふと、ルーティの言葉を思い出した。
「……そう言えばリリスさんの家で死者の目覚めの被害を被ってましたけど、孤児院にいた頃はどうだったんですか?」
「ほじくり返さなくてもいいよ、そんなほろ苦い思い出は」
「……ほろ苦いんですか」
「うん」
顔をしかめたアルフレッドに、莢は微妙に笑って。
「…じゃぁ、鬼の居ぬ間に…と言うことで、のんびりしましょうか」
「賛成。…………一応訊いとく、鬼って?」
「勿論ジューダスです」
莢の言葉に、笑いが零れた。
そのまま二人は宿屋へ入り、二人何をするでもなく、ベッドに突っ伏した。
そうして、いい加減暇を弄ぶことすら退屈になった頃。
「……なぁ、マリアとジューダスって、何?」
「え?」
アルフレッドは、尋ねた。それが彼にとって、どれほど勇気というものが必要だったのかは、知らない。兎に角、アルフレッドは、尋ねた。
「何、とは?」
「んー…。どういう関係?みたいな」
要領を得ない莢に、アルフレッドは言葉を換えた。莢は、少し伏し目がちになった。
「…さぁ、なんでしょう。難しい質問ですね」
「難しい?」
「はい」
莢は頷いた。
「でも、知り合いでしょ」
「はぁ……まぁ」
曖昧に、頬を掻く。アルフレッドは少し顔をしかめた。
「……。………あ、家族?」
「ち、違いますよ」
これだろ!と自信満々に家族と言われて、莢は慌てて否定した。
「私とジューダスが家族だなんて……彼に失礼です」
莢が口走った言葉に、アルフレッドは眉をひそめた。
「失礼?」
「………。今のは聞き流す方向で」
まずい、とあからさまに顔に出して、莢はそう言った。しかしアルフレッドはその言葉に隠された意図を汲んだ。
それは莢がジューダスに対して、何か劣等感なり、引け目を感じている故の台詞ではないかと。
「…。そ。じゃぁ仲間、ってのは?」
「あながち……外れてはいないかも知れませんね」
「曖昧すぎ」
「私だって、よく分かってないんです」
勘弁して下さい、と莢は苦笑した。
「私は…仲間だと思っていますし、ジューダスのことは大切な人に違いありません。でも……彼がどう思っているかは、分からないですから」
「ふぅん」
アルフレッドは、頭の後ろで、手を組んだ。
「……ま、俺には二人とも、相当信頼しあってる様に見えるけど?」
「え…」
莢は、思わず顔を上げた。その瞳がアルフレッドのそれと重なる。
「マリアは必要以上のことを俺には話さないし、俺が幾ら不審がっても、なんにも言わない。普通は弁明なりなんなりするのに、さ。でも、ジューダスなら…………、あー………」
「?」
「ん……」
言い淀んで、そのまま口ごもろうとするアルフレッドに、莢は先を促した。アルフレッドは頭を掻いて、言っても良いものやら、と迷ったが、最終的には、
「ジューダスなら、泣いたり出来る、から、さ。やっぱ、信頼がないと、出来ないし。ジューダスもマリアのことは、気遣っている気がするんだよね」
「………。私が泣いたって……、分かりました?」
「分かるも何も、小屋で再会した時、マリア、そりゃぁもう酷い顔だったし。お兄さん吃驚だよ」
アルフレッドは少し戯けて見せた。
それから不意に、羨む様に。
「……だからマリアとジューダスは、知り合いとかそんな浅い言葉で括れる様な仲じゃないなーって。思った」
そう言った。莢は、少し考えてから
「アルこそ、詮索しないでいてくれるのは、とても有り難く思ってます。カイル君は疑うとか、そう言うことはしないでしょうし、ロニさんはロニさんで、私、まだ信用されてないようですし……何を訊かれるか」
「いや、ジューダスよりかは信用されてるよ。……ま、違う意味では疑ってる節があるけど」
なんで俺と一緒か知らないわけだし、とアルフレッドは続けた。莢はそして、少し固まってから。
「……じゃぁハイデルベルグに行ったら、もっと怪しまれますよね」
「間違いなく、ね」
「…………………………………どうしよう」
「まぁ俺もまだ不審者扱いしてるわけだから、ロニなんかは凄い敏感だし、あれやこれやと訊いてくることはまず間違いないだろうね」
アルフレッドがたたみかけ、莢は唸った。アルフレッドは、その背を軽く叩いて
「その時は、その時で」
余り頼りにならないことを言って、莢を励ました。
船の修理は着々と進み、出航出来るまでになった。水夫達が荷を積み食料を積み込む作業を終えて一息ついた時、カイル達がやってくるのが見えた。
港で作業を手伝っていた二人は、四人の姿に気が付くと、大きく手を振って。
「おかえり」
言って、どうだった?と尋ねた。
「見つかったよ!イレーヌさんの宝物。無事に届けたし、報酬もバッチリ!」
カイルの元気な言葉に莢は複雑そうに顔を歪めた。が、何故か皆、ジューダスでさえも、何処か清々しい顔つきをしている。
「……彼女の言う宝物とは、鉱石のことだったんだ」
ジューダスは二人に聞かせるべく、説明を始めた。
「鉱石?」
「ああ。それはレンズの力を最大限に……かなり高いレベルまで引き出すことが出来るんだそうだ」
僕は文献でしか見たことがなかった、とジューダスは補足する。
莢はそれを受けて、なるほどね、と安堵の息を漏らした。
「レンズなんて、今はもう寄付する以外に使い道無いから……」
「ああ。やはりノイシュタットの宝、と言うのはあんな低俗な輩の欲する宝ではなかったと言うことだ。……それはさておき、オベロン社の工場の奥に、その鉱石はあった。そしてそこに、イレーヌの刻んだ石碑があった」
「そこには鉱石がレンズの力を引き出すって事と、それが生産力に繋がって、ノイシュタットの貧富の差をなくせるって事が書いてあった。……昔は、酷かったしな」
ロニがジューダスの後を引き継いで、頬を掻いた。
「何はともあれ、オベロン社もなくなった以上、そんな鉱石はただの石ころとかわらない。あの行商人はとんだがらくたを掴まされ、それに金を支払わなければならなかった、と言うわけだ」
「俺、ずっとイレーヌさんのこと、悪い奴だと思ってたけど、なんか、よく分からなくなっちゃったよ」
ジューダスのニヒルな笑みに、カイルが横から、そう言った。莢は少し嬉しそうに笑う。カイルが、史実が全て、真実ではないかも知れないと言うことに、気づき始めていたから。
「…じゃぁ、結果的には金儲けで終わったんだ?」
「おう。加えて、鉱石を渡した時のあの行商人の顔と言ったら!」
「見るも哀れなほどに滑稽で可笑しかったな」
アルフレッドの言葉に、ロニとジューダスが珍しく意気投合した。白雲の尾根にあった小屋を出た直後と、少し雰囲気が違っている。アルフレッドは解決したのかな、と笑んだ。
「あ、そう言えばもう出航出来るって。準備は良いですか?」
「よっしゃ!行こうぜ」
気分良く、ロニが先陣を切って船に乗り込む。皆がそれに続いて歩を進めた。
(……リオンも、悪じゃなかったって、解って貰える日、来るかも知れないね)
莢は、先を歩く黒マントに呟く。
そして、船に乗る直前、ノイシュタットを振り向いた。
浮かぶのは、緩やかな弧を描く、長い髪。色素の薄いその髪が、薄く引かれた唇に掛かる。それを払う、細い指。穏やかな微笑。そして、薄暗い中での、張りつめた表情。
莢は、船に乗った。橋が下げられ、船が出航し始める。
「あ……」
ふと、莢の視界で踊ったのは、花弁。あの、淡い色の、花。
莢は思わずそれを掴んで、ノイシュタットを見た。
莢は知っている。イレーヌが一度、世界の終わりを望むことで、貧富を無くそうとしたことを。
あながち、イレーヌの言い分は外れてはいなかったのかもしれない。ただ、それはとても悲しい事だった。
ノイシュタットが、小さくなる。
イレーヌの面影につられたのか、莢の中で、あの子供らが蘇る。
あの子達が死んでいるか否かは、莢には解らない。けれどきっとスラムの子らには、暖かい笑顔を咲かせたあの人が、今でもノイシュタットに在るのだと信じているだろう。
18年経っても変わらず咲き続けるあのさくらの花の様に、イレーヌ・レンブラントは、ノイシュタットに咲き続けるのだ。
例えそれが、何時かは忘れ去られてしまうこととなっても。
少なくともまだ、18年前にイレーヌに関わった人達が存在している間ならば。
きっと、彼女は、咲いている。今生きている人の中で、笑顔で。
2005/05/21 : UP