光の旋律
耳鳴りのような静寂の後、莢は人々の喧噪――と言ってそれはついこの間まで居た地上軍拠点の時のそれとはおよそ静かではあった――を受けて瞼を持ち上げた。服装は天地戦争時代の服装のままで、あの頃に比べれば嗚呼ここは暖かい方ではあったのだと朧気な思考が頭の中を泳ぐ。それから自分の剣に目を落とし、艶やかな黒い光沢の上に雪が降りては溶けて行くのを見て溜め息を。ほんの僅かダイクロフトから去っていくスタンの背を思いだして、それを振り切るようにもう一度吐息を吸って、吐いた。
「……ここはファンダリア、か」
「ええ。時間は私達がレンズ奪還のために飛行艇に乗り込んで追跡を開始した時間……」
「ウッドロウ王に報告しておこう。カイル」
「ああ」
会話を聞きながら、莢は怖ず怖ずと手を挙げた。
「あの、ごめんね、私はちょっと席を外したいんだけど……」
「え?あ、うん。分かったよ。……えっと、莢はひとりでも大丈夫?」
「何言ってんだカイル?」
要領を得ないと言うようにロニは少し顔を歪め首を傾げる。カイルはだって、とそこで言葉を切ったが、莢は笑顔を浮かべた。
「有り難う、カイル。私は大丈夫」
「ん、ならいいや」
カイルもそれにつられるように笑顔を。そして莢は手を振って皆と別れた。ジューダスはその折りに何か声を掛けようとしたが、結局見つけることが出来ずにその口は閉ざされる。ただじっと莢を見て、目があって、莢は笑って、ジューダスはカイルに行くぞ、と声を掛けて、莢から目を逸らす理由を無理に作るしかなかった。
莢はそれを見送って、ナナリーに身体冷やしちゃ駄目だよと声を掛けられながらその場――そこは莢達が発つ前よりも格段に復興作業が進んだハイデルベルグ城前だった――から背を向けた。
自分が何処へ行けばいいのかも自身で分からないまま、ふと目に入った建物の扉を見つめ、それを押した。
蝶つがいに十分に油は差されていなかったのか、はたまたこの寒さに油は油の役目を果たせないのか、扉はやや軋んだ音を立てて開く。後ろ手で閉めると風がない所為か、酷く埃っぽくも感じるそこは暖かかった。
足を踏み出せばやはり床の木が莢の体重で音を上げる。靴が木を叩くのと、重心移動で軋む木の音を聞きながら、莢は直ぐに姿を現した階段を上った。
重くも、軽くもない足取り。それが階段を上りきり数歩歩み出して止まる。そこは莢が以前、アルフレッドと共に来た歴史資料館だった。
「……や、久しぶり」
そこには先客がいて、莢の姿を認めると少しだけ笑顔を浮かべてそして四英雄の肖像画の前に立っていた。
「……お久しぶりです、アル」
Event No.55 灯り火
莢は黙ってアルフレッドの隣に立ち、四英雄の肖像を見上げた。
「……貴方は、どうしてここへ?」
どちらかと言えば歴史資料館は観光目的の客或いは旅人が利用するもの。ハイデルベルグに住んで長いだろうアルフレッドが一人で此処に居る理由を、莢は知らなかった。ましてや彼はハイデルベルグの兵士だ。
アルフレッドはただ少し笑うだけで言葉を発しようとはしなかったが、部屋にある簡易の暖炉で炎が爆ぜる音が暫く続いてから口を開いた。
「切っ掛けは、マリア。君だよ」
その顔は何処か寂しそうで、莢がその笑顔の真相を汲み取ることは出来なかった。
「初めて君に会った時は、正直顔も見たことなかったし、でも観光とか旅の途中で立ち寄った風には到底思えなかったし、とても怪しかった」
莢はそれを黙って聞いていた。アルフレッドはまた少し前を開けて、とても小さな声で言葉を紡いだ。
「そもそも、アクアヴェイルから言伝を頼まれた人間が、三日も何も食べてないなんて有り得なかったし」
「……あ」
莢は思わず声を出して、アルフレッドが彼女の顔を見ればそこには十分に引きつった莢の顔。アルフレッドの表情はおかしそうに笑うそれへと代わり、莢はばつの悪さに目線を泳がせた。
「まあ、その後ウッドロウ王の友人って分かったわけだけど……。……まあ、なんて言うかな。今思うと昔からいろいろ、引っかかる部分はあったんだ」
「……?」
唐突なアルフレッドの言葉に、莢は首を傾げて彼を見た。
「……ほら、四英雄の話って世界的に有名だろ?教科書という教科書に載ってるし……。だから子ども達が四英雄とヒューゴとか……リオンや莢を使ってチャンバラごっこをするわけ」
「はあ……」
「あと授業で神の眼を巡る騒乱を勉強した後子ども達は大抵リオンや莢、ヒューゴ達に嫌悪感を持つ。それだから……例えば、秘密を人に言ってしまって裏切り者扱いされた子どもが、リオンや莢の名で呼ばれたりとか」
「……」
「そう言う時さ、スタンさんとルーティさんが、少し寂しそうな顔をしてるのを、俺はこっちに来るまでに何度か見た。その時はそれがどんな意味を持つかなんて考えたことはなかったよ。ただ裏切り者のことを……裏切られた時のことを思いだしているのだと思ってた」
莢は未だ合点がいかなかったが、アルフレッドの話をただ聞いていた。それは必ず莢の知りたいことに繋がるのを知っていたから。
「今思えばそれは……悲しかったんだと、分かるよ。マリア、君がいたから」
名を呼ばれ微笑まれ、莢はどうして良いか分からずに沈黙で先を促した。アルフレッドが立っていたのはスタンの肖像画の前で、彼はそれを見上げた。
「クレスタでのルーティさんとの会話、俺、全部知ってるんだ」
ぐ、と莢の息が詰まり知らず手は拳を作った。それでは何故彼は未だ莢をマリアの名で呼ぶのか。
「それで気付けたんだ。別にリオンや莢が四英雄を裏切った訳じゃなかったんだって。だから……。だから、あの時の二人の顔の奥底は、どんなに辛くて悲しかったか、そんなこと、考えなくても分かる。それを……ああ、マリア達がレンズ奪還でハイデルベルグを発ってから、俺は体調も万全じゃなかったし暇を貰ってたんだ。それでその間考えてたんだ。ここで」
「……何、を……ですか?」
辛うじて莢はそれだけを。アルフレッドはもう一度莢を見ると、やはり笑った。
「ううーん……マリアとジューダスは莢・高谷とリオン・マグナスで、二人はもしかしたら両思いだったんじゃないかなあって、さ」
その目は、表情は、莢にはとても優しいもののように思えた。
「……ま、ウッドロウ王から聞いちゃったんだけどね。昔の話」
アルフレッドの表情は今度は苦笑に代わり、復興作業に追われて謁見は中止の上に怪我人で役に立たないからって呼び出されて延々と聞かされたんだぜ、とわざとらしくしかめっ面をして見せた。莢はそれに少し笑う。
「俺さ、未だに親に捨てられたこと引きずってるんだ。俺は所謂戦災孤児ってヤツで……ああ、でも多分親は俺を育てられなくなって、きっとスタンさん達の所なら育ててくれるだろうって、俺をスタンさん達に託したんだろうって勝手に思ってるんだけど……だから俺は俺が戦災孤児になった切っ掛けの、あの争乱を引き起こしたことを許すことは出来ない。でも……だからって今、俺の目の前にいる君を、ジューダスを殺したいとは思わない」
「……それは、今更殺しても何も変わらないからですか?」
「いいや」
アルフレッドは首を振って、それから莢の冷えた鼻を摘む。
「だって君は18年前にウッドロウ王を助けて、この前はフィリアさんを庇って死にかけて、裏切り者のリオンと言われる度に心を痛めるように顔を歪めて、カイルを見る目は穏やかだし……ま、何より俺の命の恩人だし。ジューダスはジューダスでカイルのこといっつも見守ってるし、やたらマリアのことばっかり気に掛けるし。ったくジューダスはマリアとカイルのこと好きすぎ。寧ろ分かりやすすぎ」
アルフレッドは何時かそうしたように、莢に自分がしていたマフラーを掛けてやった。莢はアルフレッドの言葉に思わず吹き出してしまう。
「大体ね、俺は大切な人の大切な人を感情で殺せるほど子どもじゃないんだ。まあ、と言ってさほど大人って訳でもないけど、ロニよりかは大人かも」
「……なんだか、矛盾してないですか?」
「いいや?だって俺、ウッドロウ王から話聞いたって言っただろ?リオンは確かにスタンさん達とは対立したけど、でもそれは別の所の話だったじゃないか。リオンは神の眼なんてどうでも良かったんだろう?マリアが前に言ったんだ。リオンにはすごーく素敵な想い人が居たんだって」
「私は誰か、なんて限定しませんでしたよ?」
「見たら判るよ」
二人はスタンの肖像画の前で立ったまま、向き合って会話を続ける。莢からはアルフレッドの背にある窓の外で、雪が深々と降り続けているのが見えた。
「リオンと莢は、先の騒乱を企てたヤツらとは違うって、俺は思ったんだ。だから矛盾してない」
その声は自信に満ちていた。だから莢は目を見開いて。
「アルは単純に私よりも弱いから殺せないんじゃないんですか?」
それは酷く悪戯っぽく――それで居て何処か挑発的で――アルフレッドが目を見開く番だった。
暫く間があって、アルフレッドはおもむろに莢の頭をかき乱すように撫でた。
「わっ!」
「マリア、生意気。俺の心は今凄く傷ついた」
「ごめんなさい、止めて下さい!」
「嫌だね。このアルフレッドお兄さんが君の乙女心を傷つけてあげよう」
アルフレッドは乙女心と髪の毛を結びつけているのか、莢の髪を両手で揉みくちゃにして、そして莢の髪に手櫛を入れた。
「……最終的に自分で直すんじゃないですか」
「いいの。俺の気は済んだ」
そしてそれが大まかに終わる頃、アルフレッドは莢を引き寄せた。その頭を抱くように腕を回し、髪に口付けを。
「有り難う、マリア。有り難う」
「……アル?」
「命の恩人に礼の一つも言えないまま、もう二度と会えないかと思った。城を襲ったヤツらの後を追いかけていったんだ、誰でも不安になるよ」
莢の肩口に額をつけて、アルフレッドは大きく息を吐いた。莢はごめんなさいと謝罪を口にする。
「スタンさんの時も急で……スタンさんとルーティさんには感謝してもし尽くせないくらい世話になったのに、俺はなにも出来なくて、感謝すら言えなくて、だからマリアとまた会えて良かった」
アルフレッドが莢の頭にまわした腕からは少しの震えが伝わってきて、莢は黙ってその背に手を回した。
暖炉の火の爆ぜる音。薪が崩れて、不意に莢はどこからか寒気が流れてくるのを感じた。アルフレッドも気付いたのか、莢の肩口から顔を上げる。莢の腕は自然とアルフレッドの背から離れた。
辺りを伺っても何処が原因なのかも分からず、かといって階下で扉の開く音もせず、誰かが入ってきたわけでもない。
「……あ」
莢が、窓を指差した。窓から背を向けていたアルフレッドは莢の指差した方向を見るべく振り返る。
「あ」
窓の外は随分と吹雪いていた。天候の移ろいやすいファンダリアは仮に雪の降らない時があっても、北にその頂を連ねる山々と南方や西方から吹いてくる海風で直ぐに吹雪へと変わってしまうことが良くある。
その吹雪いている中の風が、僅かに窓の隙間から入り込んでいた。
「……マリア、この後予定とか、ある?」
「ええと、今は取り敢えずみんなウッドロウさんの所へ謁見に。それから後のことはまだ話し合ってないです」
「そうか……それじゃ、あの店に行かない?」
「?」
「心配しなくてもさ、地上軍跡地まで徒歩で行った挙げ句にそこから更に飛行艇で飛行竜追いかけて帰ってきた後で強行軍だっただろ?だから直ぐにまた出発、なんてことはないと思うんだよな」
アルフレッドは言って、莢の手を引く。莢はそれを振り払わずに、アルフレッドの後について歩き出した。
二人が行った場所はヴィルヘルムが以前連れてきた、シチューの美味しい隠れ名店で、莢は思わず顔を綻ばせ、アルフレッドと二人シチューを頼む。
「復興作業もマリア達が発ってから大分進んだんだ。今じゃもう物資の流通……食料とか武器の類とか、衣服類に輸出入用の交易品なんかも殆ど前くらいに回復したよ」
「はやくないですか!?」
「うん。ま、その辺がウッドロウ王の手腕ってヤツ?怪我人の手当も、あと死亡者の弔いも恙無く進んだし……。ああ、そうそう今回のことはエルレイン単独でのことで、ストレイライズ大神殿の大司教以下お偉い様は知らなかったんだそうだ。ストレイライズ大神殿はエルレインを事実上除名した。……ま、外交上の問題で表沙汰にはされてないんだけど」
「そうですか……」
「うん。フィリアさんもこれには尽力してくれたんだよね。アイグレッテからは結構物資の提供とかあったし。あ、でも人員の方は遠慮したんだ。ファンダリアの民とストレイライズ大神殿側の神官達とは考え方も違うから、多分人員派遣までしたら兵の間で諍いが起きるだろうって」
アルフレッドは淀みなくそう告げて、俺ももうすぐ兵役に復帰出来るんだ、とそう告げた。その声色は何処か弾んでいて、莢は目を細めた。
「嬉しそうですね?」
「当然。今まで復興作業を手伝えなかったから口だけは元気だなとか言われてたし、やぁっと仲間達とまともに仕事が出来るのは嬉しいよ」
「……そうですね」
アルフレッドは何でもないことのように言ったが、彼の『仲間』の多くはハイデルベルグ城が襲撃された折りに殺されている。だからこそ共にいられる時間は嬉しいのだろうと莢は思った。
漂ってくるシチューの良い香りに、更に目は細まって。
そして出されたその暖かさに、そっと息を吐いた。
「……あ」
「……」
莢がアルフレッドとの食事を済ませてハイデルベルグ城前に戻ると、そこには黒衣の少年が一人その入り口の端に佇んでいた。
「ジューダス!」
「……遅かったな。もう皆客間で休んでるぞ」
「ジューダスはどうしてここに?そんなに雪を乗せて」
「行き違いになるよりもここで待った方が効率が良いと思っただけだ。お前こそこの寒い中で歩いていた割には顔色が随分良いな」
刺すような言葉に莢は身を縮める。アルフレッドとのことを話すと、ジューダスは目を細めた。
「……そうか」
「うん。……ごめんね、待っててくれてるって知ってたらもっと早くに戻ってきたけど」
「いや、いい」
「……でも、ジューダスの方が冷たくなってるじゃない?顔も何時にも増して白いし」
「僕のことは気にしなくても構わない」
「構うよ。私の所為なんだし」
溜め息と同時に莢は言って、ジューダスはそれにそれじゃあと口を開いた。
「さっさと中に入るぞ。これ以上は僕だってこんな所に居たくはない」
言って早々と黒衣を翻してジューダスは城の中へ。莢はその後を慌てて追いかけた。
城の中は比較的温かく、ジューダスは自身に積もった雪を無造作に身体を震わせて払う。莢はそれを見て、残っていた彼の雪を手で取り払った。
「なんでまたそんなになるまで外で待ってたの」
「さっき言っただろう」
「行き違いにならないって言っても、それなら城の中で待ってても良かったじゃない?」
「……何処で待とうが僕の勝手だ」
負けたようなジューダスの台詞に莢は少しだけ笑みを浮かべる。
「そうだね」
そして笑ってそう言って、以前に通された客間へと足を運んだ。そこには大きな暖炉があり、そこでやはり薪が煌々と燃えていた。莢とジューダスはそこに座って息をつく。
「もうすぐ、なのかな」
莢が呟いた。ジューダスは分からない、と、それだけ。
「ハロルドが……装置で時空の中に歪みを見つけた。エルレインはどうやら、この世界を一度滅ぼそうとしているらしい」
「!……それって……」
「イレーヌと同じだな」
呟きは時折火の勢いに殺されたが、莢は静かに目を伏せた。
「ヤツもここまで来ると、残っているのは意地だろう」
「……意固地になったら、後はもう対立しかないのかな」
莢の言葉に、ジューダスは何も応えなかった。莢がまた18年前のことを思いだしているのが明らかだったから。
「僕達はエルレインを追う為に明日再び10年後の世界へ行く」
「10年後……フォルトゥナが居る時代?」
「ああ。と言ってもまだ完全に神として光臨してはいないがな」
ジューダスは言う。スタン達が救ったこの世界を、彼らに救われた大勢の人が殺そうとしていると。
「あいつらが護ったんだ。だから僕は……僕はエルレインに蘇らされた時、その時間を償いに使うべきだと考えた。まさかあいつらの子どもと旅をするとは思わなかったがな」
「……」
「あいつらが護った、救った世界。それを僕は護りたい。……それを償いと言うにはおこがましいかも知れないが」
自嘲気味にジューダスは笑った。莢は、そんなジューダスの横顔を黙って見ていた。
「手伝うよ」
そして口を開く。
「貴方が、スタン達の護った世界を護るのを、私は手伝う」
「莢……」
弾かれたようにジューダスは莢を見た。莢は笑って
「これで、終わりにしよう?」
そう、告げた。
2006/12/09 : UP