この話には性描写が含まれるため、18歳未満の方や高校生の閲覧を固くお断り致します。
恋心恋錦
幕間
薬研藤四郎は美しい刀だ。短刀としての美しさはもとより、人の姿もまた流麗である。細くしなやかな烏の濡れ羽色の髪に、冬の冷え冷えとした空気の中に冴える月の光のような肌。細い眉はまるで細筆で引かれたように美しく額の下部で短く弧を描く。涼しげな一重の目に納まっている瞳は穏やかな紫で、水晶のそれとよく似ていた。鼻筋は癖もなく小鼻へ至り、口元は大口を開けようとも上品に見えるほど小さい。頬は僅かに丸みを帯びながらも頤(おとがい)へ滑らかに細まってゆき、綺麗な卵形の頭部を作り出していた。「よお大将。俺っち、薬研藤四郎だ」
初めて彼を降ろした日のことを、審神者となった少年はよく覚えていた。物慣れず、こんのすけに言われるがまま、まだ住み馴れてもいない本丸で初めての鍛刀に挑んだ。手伝い札を使い、式神の力で現れたのは一振りの短刀で。自身と殆ど変らぬ背丈。細い手足は長く伸び、目線はやや見上げる程で、その程度の違いしかないにもかかわらず、薬研藤四郎と言う刀剣はその瞬間圧倒的な存在感を放ち、少年の目を、心を、意識を彼一色に染め、制圧したのである。
優美な笑みを浮かべた彼の、強烈な黒と白のコントラスト。その狭間に浮かぶ優しくも力強い紫に、息を飲んだ。
動き、話す薬研藤四郎は勇ましさの塊である。品のある姿から発せられる張りのある声は低くも明朗で、姿勢も良く、きびきびとして無駄がない。戦場育ちだと公言している通り戦慣れをしており、出陣の際は楽しげな様子こそ見せるが不安そうな姿や緊張している様子は微塵もなく、経験の少ない審神者を幾度も安心させる頼もしい短刀の付喪神。本丸から戦場の様子を見る間も、他の刀剣に引けを取らぬ獅子奮迅の活躍を見せる。威勢のいい声を上げ真っ先に敵へ斬り込み屠っていく様は堂に入っており、その身の儚さなど消し飛ぶほどの剛胆さであった。
戦場では大太刀の一振りが如く激しい薬研だが、本丸で見る彼は穏やかなものである。暇を持て余してか、何かと審神者に仕事はないかと尋ねてくる気の良さが目立つ。その目に宿る力強さは失われていないが、何かにつけ審神者の目に飛び込んでくる姿に、最初期に選んだが故に近侍となっていた山姥切国広から彼を近侍にしてはどうかと申し出があるほどであった。どうやら知らずの内に薬研を眼で追いかけていたらしいと思い至り、僅かばかりの羞恥に頬を赤くしてしまったのも今となっては懐かしい話だ。薬研の麗しい色に吸い寄せられていたのだろう。それを他の者から知らされたのがなんとも言えず審神者の身体を熱くさせた。尤も、直ぐに「その代わりに出陣にはもっと俺を使え」と持ち掛けられたため、どのようなつもりで山姥切国広が近侍の話を持ち掛けたのかは彼にしか分からないことであったが。
山姥切国広と上手く距離を縮めるどころか溝を感じていた審神者にとって、近侍を薬研に変えることは山姥切国広との距離を更に開けるものになるのではと言う危惧こそあったものの、良い方向へ働いた。薬研は審神者をよく助け、様々なことに気を回し、気さくな態度で審神者の心にあった緊張や焦燥、孤独を、審神者さえそれと知らぬままに払っていった。それが彼の手腕であるのか、それとも天成のものであったのかは分からない。ただ薬研が審神者に語り掛ける時、美しい紫の瞳が審神者を映し、それは穏やかに光を反射して煌めいた。審神者はそんな薬研の目をじっと見つめる度、不思議と心が凪いだ。そうして初めて、己が張り詰め、余裕を失っていたことに気づかされた。
確かあれは、まだ刀剣が10もなかった頃だったはずだ。
本丸と言う安全な場所から刀剣たちを戦わせることしかできないと、罪悪感にも似た心の鉛に肩を落とした。政府より与えられた己の使命。にもかかわらず、自身に出来ることは少なく、実際に戦うことのできない人の身の不甲斐なさに落ち込んだことがあった。帰還した刀剣のために食事を用意し、食後に薬研がもう一杯だけ茶が欲しいと言ってきたため、淹れ直した。他の者は既に身体を休めるために部屋へ引き上げており、二人だった気安さもあって薬研に弱音を吐いたのだ。
薬研は黙って審神者の益もない言を聞いていたが、審神者が言葉に詰まると一つ茶を啜り、笑いかけた。
「大将。大将の淹れた茶は美味いな」
俯いていた顔を上げた先には、柔らかく目を細める薬研がいた。労わるように微笑み、じっと審神者だけを見つめる姿に声もなく唇を戦慄かせた。そんな審神者に、彼は続けた。
「大将が俺たちのために淹れてくれた茶だから、きっとこんなにほっとするんだろうなあ。ここで一番美味い飯を作るのも大将さ」
審神者にとって彼が語った言葉もさることながら、自分にだけ向けられた優しい笑みと声が何よりも心に強く焼きついた。かつて同じ年頃の子どもと過ごした『家』というものでは得られなかったもの。得たこともなかったもの。
ただ薬研が己へ微笑みかけている。それだけで心が軽くなる感覚を、審神者は生まれて初めて経験した。薬研の紫がきらきらと輝く様に胸元が温かくなり、まるで湯船程の温度が身体の隅々へ行き渡る。鉛を飲み込んだようだった身体は、軽やかに、穏やかで暖かな海面をぷかぷかと漂うようだった。
これを何と呼べばいいのだろう。まるで覚えのない心地であったがゆえに、審神者は「きっと兄というものがいたのであれば薬研のようなのだろう」と暢気にも考えた。
あの時の自分の頬を張ってやりたい。審神者は心の中で頭を抱えた。
そもそも薬研も薬研である。どのようなつもりをしているのか分からないが、常に側で手足となってくれ、兄のように頼もしく、しかし時として厳しく、言いたいところがあれば真っ直ぐにぶつけ、我慢しない。審神者がつらく感じた時はじっと目を見つめて微笑み、優しく低い声で慰め、励まし。そんな風に誠実で居続けられれば、心を預けてしまうのは無理からぬ話だ。
最早信頼などと言う言葉では足りぬほど、審神者は薬研に惹かれていた。目を、心を、思い返せばそれは出会いのその時からずっと。
今や審神者は40を超える刀剣たちの主である。それをどうにか務めていられるのも、支えてくれた存在あっての事だ。一朝一夕で身についたものなどなにもない。何もない審神者を見限ることのなかった刀剣たちのおかげである。その筆頭が薬研であることは間違いなく、山姥切国広との間に出来てしまった溝――結局のところそれは審神者だけが感じていたものであったのだが――を越えるよう背を押してくれたのも他ならぬ彼であった。非常に個性豊かな刀剣たちを相手にするのに、一つ一つの会話に全力を傾けることなどないという助言をしたのもそうだ。
「俺達は大将が思ってるよりずっと、動けて話せるってことを楽しんでるぜ。けど、そんなのにいちいちまともに付き合ってたら大将が疲れるだろ」
そんな風に言った彼に、薬研と話せばある程度の回復は見込めるのだと真実を告げた時の、珍しく虚を突かれたような顔を、審神者は何度でも思い出すことができる。それから薬研はゆっくりと表情を変え、不敵に笑んだ。
「嬉しいねえ。何よりのやり甲斐だな」
その瞳の紫が色濃くなり、きらりと光る。まるで宝石のように煌めいて、審神者の目はいつも釘づけになるのだ。幾度も目にした薬研の微笑みに目を奪われるのはいつものこと。しかし心穏やかになるはずだったそれはいつの頃からか、見つめるほどに審神者の心を乱すものとなった。薬研ではない。変わったのは審神者の方であった。
――僕は知っている。これを人は、恋と呼ぶのだ。
2015.04.14 pixiv掲載