この話には性描写が含まれるため、18歳未満の方や高校生の閲覧を固くお断り致します。
恋心恋錦
転
審神者は困っていた。全幅の信頼を寄せる近侍・薬研藤四郎に相談したいことができてしまったのである。
相談することそのものはよい。従える刀剣の中で付き合いも長く、口も堅く、これまでにも何度も助けられてきたし、頼ってきた。話せば解決してくれるだろう。だが、問題は審神者が彼に恋情を抱いており、他でもない相談内容が非常に審神者の恋心へ影響を及ぼしそうなものなのだ。
薬研を抜いて考えれば、このところようやっと気負わず話すことのできるようになった山姥切国広が候補に挙がってくる。だが、悩み事の内容は自身の身体にまつわることのため、医術知識のある薬研に聞いた方が有益だろうと結局薬研へ回されることは必至。要は薬研へ相談しないという選択肢はないということだ。
しかし、しかしである。
恋心を抱く相手に身体を見分されるというのは、実に恥ずかしいものだ。思いが通じているのならばまだそこに嬉しさもあったかもしれないが、相手は付喪神であり刀剣で、戦うことが本分であり、その中に於いても薬研は戦好きである。想いが通じるなどと言う幻想を抱けるはずもなかった。
まだ、審神者の心に全く気付きもしないというのならばいい。しかし気取られでもした上で上手く躱されるか、それとなく宥められでもしたら。薬研はこれまで通りの態度を取ってくれるだろうが、審神者自身がそう在れるかなど全く自信がなかった。
心を自覚してから今までどうにか取り繕えてきたのは、触れられることがなかったために他ならない。元々刀剣たちは『斬る』という性質のためか、自分から進んで審神者に触れてこようとしないのだが、それは薬研とて例外ではない。審神者から触れに行く場合や、咄嗟に庇うか支えるかと言った事態でもない限りは、あちら側から触れられることがないというのは今の審神者にとってはありがたいことであった。
で、あるがゆえに、今このようにして恐らく、十中八、九は触れられることになるであろう先を予想して煩悶しているというわけだ。
審神者も年頃の少年である。色恋沙汰における身体の反応は心より余程敏感で過剰だ。心の速度よりも、身体の速度の方が早い。なんでもないような場面でも一瞬で高まってしまうし、己でも困惑するほど身体の、審神者の最も性を示す部分だけが反応するというようなことも少なくない。今こうしている間にも、薬研に触れられてしまったら自身の身体はどうなってしまうのだろうと考えるだけであらぬ場所が熱し始めているのだ。
――だめだ! こんなんじゃ、とてもじゃないけど言えない。かくなる上は……一回、抜いておくしか。
審神者の思考は、余裕の無さからより短絡的な方向へ流れた。本丸を家だと呼べる程度には長く過ごし、刀剣たちの主として振舞えるようになったとは言っても、彼はまだ15にも満たない少年なのである。
******
薬研藤四郎は歩いていた。事前に審神者から近侍としてではなく、医療の心得を持つ者として話があるのだと告げられていたため、その準備をして審神者の下へ向かう道すがらであった。このところ身体に違和感を覚えるため、一日の仕事が終わったその後一度診察して欲しいとのことで、具体的な話は後ほどと恥ずかしそうに言われたため、薬研は二次性徴に伴う体や心の変化――もっとはっきりと言うのであれば精通が来たというような話だろうと見当をつけていた。
刀として生まれ、付喪神として降ろされるまで薬研は意識というものを持ったことがなかった。当然人の姿というのも初めてのことである。しかし審神者によって目覚めを経験すると殆ど同時に、彼は人の身体を持って過ごすのに不自由のない知識を備えていた。それだけではなく、他の刀剣よりも人の身体や病気、怪我に関する知識が豊富で、付喪神としての力を損ねるような戦場の怪我ならば兎も角、日々の中で起こる些細な怪我や不調の対処には彼の手で事足りてしまうため、本丸において医師に準ずる者としての立場を得たのは自然なことであった。
審神者はその命を受けた時から本丸の外へは出られなくなる。万屋や一部のごく限られた場所へは赴くことができるのだが、元の時代へ帰ることは許されておらず、また、刀剣たちを過去に送り出すことについても、時代や関われる内容など政府から厳しく制限されており、自由は限りなく少ない。本丸と言うものが存在するのは常世と現世の境目のような場所であり、実に広々としているとはいえ、真に人と言えば審神者のみ。薬研としてもそんな審神者の健康を管理できるのであれば、身に宿った、覚えのない知識もやぶさかではないのだった。
近侍として部屋へ戻り、着替えを済ませて審神者の居る奥の部屋へ進む。念のため診察用の器具と薬箱を携えてきたが、どちらかと言えば審神者を安心させるためであり、実際には問診と、必要であれば触診で済むだろう。この時薬研はそう考えていた。審神者は年頃にしてはやや大人しいきらいがあるが決して病弱ではないし、彼が何か不調を抱えても薬研は見抜く自信があった。なまじ側で見ているわけではないのだ。気づかないわけはない。贔屓でもなんでもなく、最も審神者を見ている時間が長いのは己だからだという想いが、薬研にはあった。
静かに膝をつき、奥へ続く襖を開けるより先に中へ声を掛ける。
「大将、来たぜ」
「は、はいっ」
然程大声を出す必要もなく、実際そこまで声を張り上げてなどいないはずなのだが、中からはどこか狼狽えたような声色の返事があった。恥ずかし気にしていた様子から、審神者自身も知識はあるのだろう。それも、恥ずかしいと感じるように教えられているのは確実である。深刻そうな顔色ではなかったため、ややもすればただの猥談になる可能性もあるが、一先ず、薬研は襖へ手を掛けた。
「邪魔するぜ」
出来るだけ審神者が緊張しないよう、軽くも柔らかな声を意識する。持参した道具を部屋に入れると、しっかりと襖を閉めた。既に寝床は整っていたが、その手前で座布団に正座をする審神者の前には同じ座布団が用意されており、そこへ腰を下ろす。既に寝間着のパジャマにまで着替えているのだからそう気兼ねすることなどないだろうにと思うのだが、畏まった様子に茶化すことはしまいと心した。
「で、早速なんだが、どうおかしいんだ?」
電気の光の下で向かい合う限り、薬研が外から眺めた限り、審神者の不調がどこにあるのかは分からなかった。頬は緊張からか淡く色づいているが、発熱している様子はない。
色づく肌は相変わらず柔く脆そうだと薬研が眺めていると、審神者はおずおずと薬研の顔色を窺うようにしながら話し出した。
「えっと……その、胸が、変なんだ」
「胸?」
どこかしっとりとした審神者の目に首を傾げると、審神者は一つ頷いて、か細い声で呟くように告げた。
「ち、……乳首が、痒くて」
予想外の話に薬研は目を瞬いた。だが、聞いた限りではやはり深刻さは感じられない。
「痒いってのは、痛みがあったりするか? 小さくてもなんでも、傷があるとか」
痒みと痛みは非常に近い感覚である。そこに異常があると身体が発している証拠だ。かさぶた、抜糸後の縫い傷などは治る過程で疼き、痒みを伴うことがしばしばある。痒みの強さによっては掻き毟りたくなるため、そのような場合においては痛みよりも性質が悪いものとなる。
「痛くはないし傷もないけど……気になると、つい掻きたくなって」
「ふうん……かぶれたか? ちょっと見せてくれ」
肌の状態によっては薬を塗る必要も出てきた。予想とは違う話ではあったが、薬研は頭を切り替えた。審神者のような柔らかな肌ならば、薬研たちが何でもないようなものにでも傷ついたり炎症を起こしてしまっても不思議はない。肌が乾燥することで自分の汗にさえ過剰に反応してしまうこともあるのだ。
「ぬ、脱ぐの?」
「ああ、上だけな。ボタン外すだけでいい」
「わ、分かった」
審神者は覚束ない手つきで、一つ一つ白いパジャマのボタンを外していく。何をそこまで緊張することがあるのかと薬研は訝ったが、よくよく考えればこの審神者が誰かの前で衣類を脱ぐということがなかったことに思い至った。審神者として立つよりも以前の習慣か、何か人に見られたくないものがあるせいだろうと見当はつけたが、露わになった審神者の上半身が淡く色づいているのを見ると、そこにほくろさえないことに安堵した。痛々しい傷などあれば問い詰めずには居れなかっただろうと考えながら、特に何もない身体を凝視する。
審神者はそっと目を伏せており、恥じらう様子を見せていた。その姿が何とも言えず愛らしく思われて、薬研は笑った。注射のような痛いことをするつもりはないのに、と。
座布団ごと身体を寄せ、審神者の胸元を確認する。小さな乳首は夜の空気の所為か、慎ましく実をつけていた。
「……見た感じおかしい所はないな……触るぞ?」
「へっ」
至近距離で二人の視線が交錯する。耳まで赤く染めた審神者の青い瞳はどこか湿り気を帯びていた。まるで拒否するような声に薬研は触れる寸前で手を止め、もう一度告げる。
「痛かったりしたらすぐに言ってくれ」
「う、うん」
触らないという選択肢はない。見ただけで分かる異常ではないのだから、触れてみて肌よりも内部で何かが起こっているのかどうか確かめねばならないのだ。
とは言え乳首とはもともと敏感な部位である。審神者ほどの年頃では衣類が擦れただけで痛みを覚える例もあるため、薬研は細心の注意を払って胸の中心に指を置いた。薄い胸の皮膚はすぐ下に骨と心の臓の鼓動を感じさせる。白い肌から滑らせるようにして薄紅色へ色づく乳輪へ。薄い手袋越しに審神者の体温が浸透してくるのを感じながら、薬研の指の感触が慣れないのか、見た目に分かるほど粟立ち反応する胸元を注視する。
「ん……」
小さく漏れた声に目線だけで審神者を窺うと、審神者はそっと瞼を閉じていた。柔らかく膨らむ唇は心なしか普段より力が籠っているように見えるが、僅かな反応だけでは痛みを感じたかどうかは分かりかねた。
「……痛むか?」
力を込めるどころか殆ど指を置いているだけだが、あまり刺激が強いようであれば考えなければならない。薬研の問いに審神者が伏せていた瞼を持ち上げた。
青色の瞳は秋晴れの空のように明るく感じる時もあれば、紫陽花のような群青色の時もある。今薬研の目の前にある一対の目は深くも鮮やかな瑠璃色で、潤んでいるためか、それを覗く薬研の姿が薄らと滲んでいた。
審神者の顔が左右へ動く。一見すると痛みを耐えているようではあるが、審神者はそっと唇を開き、返事をした。
「痛くない……けど、気持ちいい……っふ、ぁ」
動揺したわけではないが、薬研の指先が審神者の乳首を掠め、僅かに押し倒すと、幼さの残る唇から甘い声が漏れた。
「痒くて……触ると、気持ちよくなっちゃうの……ん、変、だよね……?」
眉尻を下げてそう尋ねる審神者に、薬研は漸く審神者の言わんとするところに行き当たり、答えた。
「痒いところを掻きゃすっとするのはどこでも同じだろ? 別に変じゃないさ……ああ、下の方が反応するのが嫌なのか?」
場所が場所だからな、と続けると、審神者は困った様子のまま薬研を見つめ返した。
「……変じゃない?」
「ああ」
淀みなく頷き返答すると、審神者は安堵したように小さく息をついた。よかった、と微かにその口角が上がる。薬研はそれを見ながら、未だ触れたままであった審神者の乳首を押しつぶした。
「んっ」
途端に審神者が嬌声を上げる。ぴくりと跳ねた身体に気づかないではなかったが、声には少しも鋭さはない。薬研はそのまま両方の乳首に触れ、力加減に気をつけながら指先で揉んだ。
「あ、薬研、……ん、んっ」
小刻みに薬研の指に反応する審神者の身体を素直なものだと好ましく感じながら、薬研は呟いた。
「他の場所より少し熱くはなってるが……かぶれてるような感じはないな。大将、困ってるってのは痒みそのものじゃなくて、掻いたら気持ちよくなってこっちがどうしようもなくなるってことでいいんだな?」
「あんっ!」
まさか正座をしていた審神者の股座へ手を突っ込むわけにも行かず、代わりに太ももを軽く叩くようにして触れると、審神者は今度こそ大きく背をしならせた。息を整えるために呼吸を繰り返す薄い胸が、薬研の目の前で揺れる。目に入る限り淡く火照りを見せる肌と審神者の呼吸、もどかしげに小さく擦れ合う太ももが示すところを察しないでは居れない。己が乱したのだと自覚すると、奇妙な充足感が薬研を満たした。
「まあちょいと敏感なきらいはあるが……特に健康上問題はないな。『思春期』って奴さ」
心がどこにあろうと、職務はこなす。しかし、下した診断結果を審神者はきちんと聞いただろうか? 身体に起こっている変化で手いっぱいの様子の審神者を見遣り、薬研は一つ反応を見ることにした。
「……分かったか、 大 将 ?」
確認のためにそっと顔を近づけて声を潜めると、審神者は小さく悲鳴を上げる。
「も……わか……っやめ、て」
ただでさえ潤んでいた目は更に濡れ、電光を反射して煌めいた。その顔は単に快感と羞恥だけでもって甘さを含んでいるわけではない。薬研は確信する。己に対する絶大な信頼を。
薬研から逃げるように身体を傾けるも、殊更に距離を開けようとするわけでもなく、恥ずかしがるだけでそれ以上拒否を示さないのはその証の最たるものだ。あるいは薬研から受けた刺激に然程嫌悪や不快感がなかったのだろう。
座布団の上に座り直して距離を改めると、審神者もシャツを手で中央へ寄せつつ、足を崩した。位置取りに違和感があるのだろう、もじもじと腰や足を動かす様を眺めながら薬研は口を開いた。
「そういや大将、精通は来てるんだな?」
「えっ……う、うん」
「なら、自分で抜くのも知ってるか? あんまり弄らないでいるってのも感じやすくなる原因だぜ」
乳首を引っ掻くくらいなんでもないことだ。性感帯として挙がる場所であることは間違いないが、薬研が太ももを軽く叩いた際の過剰な反応を見るに、溜め込んでいるのではないだろうか。薬研は思う。あるいは――
「もしくは、……前に、誰かにそこ、弄られてたってことはないか?」
既に審神者の身体は、房事に慣れているのではないか。
眉根を寄せることこそしないが、薬研の目に力が籠る。この審神者が性に奔放な姿など見たこともなければ、そのような性質であると勘ぐったこともない。にもかかわらず身体が開発されているのであればそれは、無垢なままそれと知らされず教え込まれていた可能性がある。『パパ』なる男の元に集められた子どもたちの歪な順位付けが思い起こされ不快な気持ちになった薬研は、じっと審神者の言葉を待った。
「弄られた……? えっと、それは緑の眼の特権だったから、僕はあんまり……」
「……特権?」
「『パパ』に愛される特権だよ。夜にね、一人か数人、パパの部屋に呼ばれるんだ。そこでいっぱい愛される。一晩中ね。凄く気持ちがいいって、何度も気持ちよくしてもらえるんだって自慢された」
打って変わってよどみなく話し出す審神者に、薬研は双眸を細めた。『パパ』とは父親を指す言葉のはずだが、審神者の口にする『パパ』と言う立場の男は決してそのようには思えない。宿るものの意味合いを無視すれば、稚児灌頂に近い物がある。審神者の口振りや今までの流れからして、それが例えば義兄弟の契りのような強固な主従を示すもの、あるいは将来出世が約束されるような類であれば違和感は覚えなかったはずだ。しかし実際には金の髪を持っていても、瞳が青ければ緑の者より下であるという絶対的な基準が存在している。審神者はその価値観でもって己の容姿に劣等感を抱いており、生来の性質なのか然程上昇志向も強くないためにその枠組みに嵌まっていた。今でもその枠から完全に解き放たれているわけではない。容姿で優劣をつける発想そのものはいつの時代もあることとは言え、どうにも、審神者の話すところの『愛される特権』というものはどこか納得しがたいものがあり、それゆえ、神聖な契りとは似ても似つかぬ享楽があったことは否めないというのが薬研の見解であった。
「その愛されるってのは具体的にどういうもんか、大将は知ってるのか?」
「お尻を綺麗にしてパパのを入れてもらうんだ。パパのは大きいから、普段から色々入れて痛くないようにする。みんなやってたよ」
今まで目にしてきた審神者への印象にそぐわない言葉の数々に、薬研は頭を抱えたくなった。『パパ』とのまぐわいを実際に審神者自身が経験したわけではないことは分かったが、伝聞の物言いであることや、その話し方に少しも色気がないこと、実際には審神者は乳首で快感を得ることへの不安を覚えていることなどを統括するならば、審神者の持つ性の知識には偏りがあるか、もしくは一般に触れられている意味合いとは異なるものとして植え付けられている、また同時に、ある側面では意図的に教えられなかったと考えるのが妥当だろう。人の姿を持ってまだ数年にも満たない薬研の方が恐らく、審神者の時代の一般的な事情に通じているように感じられた。
「……話は分かった。大将、前の『家』の話は一旦置いといてくれ」
「? うん」
薬研の話に耳を傾ける時、審神者は素直である。薬研が難しく言葉を弄り回したり、回りくどい言い方をしないせいか、あまり身構えることもない。それを喜ばしく感じていた薬研であったが、俄かに、目の前の少年に物を教えることの重さをひしと感じた。
「じゃ、話を戻すぜ……大将はちゃんと普段から抜いてるか?」
「……えっと、あんまり……?」
「やり方は? 知ってるか?」
「うん」
「……するのが好きじゃない、か、もしくは嫌か?」
「え、ううん……そんなことないと、思う。今までは特にしたいと思わなかっただけだし。あの、……実はさっきも一回、したんだ。でも、嫌じゃなかったし」
一旦引いた羞恥が再び戻ってきたのか、真っ直ぐに薬研を見つめ返していた目が宙を彷徨う。
「……そんなに酷いのか……」
「え?」
「胸。触ると反応するんだろ? 俺が触っても感じすぎないように抜いたってことじゃないのか? まあ、それでも感じることは感じたらしいが」
指摘すると、審神者は顔を赤らめた。逃げ道を求めるように忙しなく目線が動き、薬研の顔色を窺ったかと思えばすぐに逸れ、僅かに背を丸めて身を縮める。
「う、うん……そう」
羞恥と言うにはあまりに過ぎた狼狽ぶりであった。挙動不審な様子に、薬研の胸の底に得も言われぬ不快さが漂う。
「大将、今嘘ついたろ」
知らず声が低くなる。怒りを感じているわけではないが、審神者が薬研を前にして言いかけた言葉を飲み込む態度が気に入らない、否、気になる――というのも少し違う。そう、『面白くない』のだ。
「嘘じゃない」
「本当か?」
慌てて首を振る審神者を睨めつけ、念を押す。外見の姿そのままの幼い審神者は、薬研に睨まれて怯えたように身体と表情を強張らせた。塩梅を間違えたかと、妙な勘違いをさせる前に先手を打つ。
「大将、身体のことなんだ、不安なら全部話してくれ」
私情を心配で塗り替え、薬研は諭すように声色を和らげた。今までであれば流せたものを、どうして今日に限って流せなかったのか。疑問が頭の中を掠めたが、深く追いかけるほど思考を絞るわけにも行かず、審神者の動きへ集中する。
「……ホントだよ。多分、薬研に触って貰うことになると思って、抜いたんだ。……でも、それは……薬研だからで……」
頼りなく、尻すぼみになっていく声。薬研の顔色を窺うようにそっと重なった目に頷きを返し、先を促す。それに押されてか、審神者は意を決したように続きを吐きだした。
「……や、薬研が特別だから……触られたら、直ぐにイっちゃうと思って……」
緊張が限界を超えたのか、か細い告白は水気を帯びていた。堪え切れずに審神者の眼から零れた涙は頬を滑り落ち、それを細く白い指が拭う。
「ごめん……こんなの、っふ……困ると、っ、おもっ……けど、か、身体がっ……薬研にって思ったら……熱くなって、我慢できなくて……っ」
身を縮こめたまま小さくしゃくりあげながら、審神者の口からはほとほとと思いの丈が零れ落ちた。堰を切った様子にそれらが今まで彼の中で抑えられていたものであったことを知ると、滴るその涙も言葉も、俯いてしまった顔も全てこの手で掬い上げ、手にしたいと、渇望にも似た衝動が薬研を突き上げた。沸き上がるその勢いに押されるようにして腰を上げる。
「薬研が好き……」
悲しげに絞り出された声は、薬研が両手で彼の頬を包むと不自然に途切れた。きゅう、と審神者の喉が締め付けられたかのように鳴る。審神者の金色の髪に指を潜らせ、小さな頭を撫でるようにして包みこめば、審神者の顔が恐る恐ると言った態で持ち上がった。不安げに揺れる青い瞳を、薬研からも合わせに行くことで真正面から受け止める。己が今どんな顔をしているのかは見えなかったが、心の中は酷く浮き立っており、暖かな温度に溢れていた。審神者の吐露したものに満たされているのか、それとも己の中から湧き上がってくるものがあるのか、両方か。審神者が今涙に睫毛や頬を濡らしているのは薬研のためだと、そう思うと奇妙な高揚が薬研の腰元を貫いていく。
自分は今、喜びを感じているのだ。そう思うと薬研は矢も楯も堪らなくなり、口元が歪むのを止められなかった。笑いださなかったことを賞賛したいほど腑抜けた心地。膝が先に笑いそうになる。この気持ちを、人はなんと呼んでいたのだったか。
「大将」
濡れた頬を親指で優しく撫でる。濡れたために束になった睫毛の所為で、何度も瞬く様子がはっきりと分かった。不安そうだった面持ちも、大きく丸い瞳と目を合わせる時間が長くなっていく毎に薄れていく。まだ何も告げてはいないのに、ともすれば己でさえ正確な心の在処を掴めてさえいないのに、既に薬研の心が彼へ伝わっているような錯覚をしてしまいそうだった。
「大将……もう一回、言ってくれ」
きっと、薬研の心はとうの昔から決まっていた。この主に呼ばれ、『目』というものを開けたその瞬間から。
******
審神者は極度の緊張と不安のあまり泣いていたのも忘れて、薬研の瞳に魅入られていた。嘘をつくことも上手くなく、嘘をつかなくとも誤魔化すことさえ不得手である彼は薬研からの追及の手を逃れることを早々に諦め、観念して秘めたる思いを打ち明けたばかりであった。さてどのようにして袖にされるのかと構えていたはずが、審神者が見たのは戸惑いでも不審でもなく、ただただいつものように柔らかく微笑む薬研の顔。その一対の紫の中にきらきらと輝くものを認め、審神者は暴風に見舞われたような心が凪いでいくのを感じた。
こんな時でさえこの瞳を見ればそうなのか。そう感じる心もないではなかったが、それよりも、薬研の持つ紫の中に桜の花びらが見えたようで審神者は目を瞬いた。涙で滲む視界に幻を見たのかと思ったのだ。一度溢れてしまった涙は戻ることも渇くこともなく頬へ伝い落ちると、薬研が審神者を包む手が僅かに動き、その滴を受け止めた。流れ落ちた分はっきりと見えた先にあった藤色は、見間違いなどではなく確かに審神者の恋した輝きを放っていた。
「大将……もう一回、言ってくれ」
低く穏やかな囁きが降ってくる。心に優しく降り注ぎ、染み込んでいくような優しい声だった。審神者の心に寄り添い、励まし、支え、鼓舞し、先の見えぬ道を歩む力をくれる、不思議な力を持った声。
「……薬研、が、すき」
鼻を啜り、二度口にした言葉は情けないほどぐずついていた。鼻声と言うにはあまりにも鼻が詰まっていて、雰囲気もなにもあったものではない。それでも薬研が見たこともないほど嬉しそうに微笑むのを見てしまっては、そのような些末事は審神者の頭から流れ去っていく。目元だけではない。薬研の白い肌が薄らと色づき、形の良い薄い唇が微かに開き、これ以上ないまでに柔らかな曲線を描く。その隙間からは綺麗な歯列が見えていた。
「大将」
審神者が注視するその目の前で、薬研の唇が動く。その声が微かに震えていたのに気付いたが、疑問や気遣いを口にするよりも先に、間近に見ていた唇は審神者のそれとぴたりと合わさっていた。
柔らかなものが触れている。その事に殆ど反射で唇を開くと、薬研もまたそれを追いかけて摩擦が起こった。小さな電気が走ったような感覚が腰へ抜けていく。俄かに心臓が騒ぎだし始めたところで、二人の繋がりから「ちゅ」と控えめな音が立ち、審神者は息を止めた。
薬研、薬研。
呼びかけは頭の中で何度も繰り返されるにもかかわらず、喉を震わせるには至らない。薬研が唇を動かし、審神者のそれへ押し付け、何度も柔らかく挟むように、食むように触れてくる。確かな意思を感じた。そのことに、審神者の身体は震え立った。
皮膚で感知できる限度いっぱいまで、全て薬研の手の温もり、唇、息遣いで満たされる。閉じることも惜しんで瞬く目から入ってくる情報も、桜を纏う薬研の紫と、時折それを隠してしまう白い瞼、睫毛だけだ。これほどまでに誰かの瞳を、こんなにも近くで見つめ続けたことがあっただろうか。虹彩の錦の中に、紫だけでなく、繊細な金や銀が織り込まれているのを認める。その中を、ちらちらと桜が見え隠れしていた。見つめれば見つめた分だけ深みが増すような錯覚を覚えながらそれを追いかけていると、ふと薬研の目が細められ、すっかり一つの温もりとなっていた唇が離れていった。額が触れ合い、至近距離で薬研が眉根を寄せ、おかしそうに唇をゆがめる。
「大将、息。止めるなよ」
「あ」
少しだけとは言え離れてしまった空間に多少の忌々しささえ感じてそれどころではなかった審神者は、指摘を受けて初めて呼吸を再開した。然程長い間止めていたわけではなかったが、肩で息をする審神者に、薬研がくつくつと笑う。それが落ち着くと審神者の顔を包んでいた手を滑らせた。指先がまだ湿り気を遺す頬の上からおとがいをくすぐり、先ほどまで触れ合っていた唇の上で止まった。
「なあ大将……上手く言えねえ」
低く明朗で、しかし怒りや敵意など一切ない薬研の声が審神者の心を叩く。もどかしそうに詰まる言葉と、どこか苦しそうにも見える表情。だが、不安や畏れなど一切感じることはなかった。薬研の目から桜の影が失せる。
「折角言葉が繰れるってのに……」
口惜しい。そう言う薬研の苦しさを、審神者は少し、分かるような気がした。
「薬研」
呼びかければ、薬研は自分の中で相応しい言葉を探そうとする意識を審神者へ移した。些細な心の動きが瞳に表れ、相手の心を独占していることに言葉にしがたい歓びが泉のように溢れ出してくる。
「すき。僕は薬研に恋をしてる」
身体が熱くなり、心を押しのけて走り出しそうになる。眼は自然と姿を追いかけ、胸は跳ね、心が感じるよりもずっと鋭く、急ぐように彼を求める。これまで一人身体を慰めることがなかったのは興味の矛先が性に向くことがなかったからでしかない。薬研を知り、恋を自覚して、審神者は求めることを覚えた。平たく言うのであれば『渇き』である。それが満たされない内は自分で満たしてやるしかない。身体の疼きが治まらないのはいつまでも真に渇きが癒えないからであり、この日、どんな経緯であれ本物を得られることに対して、審神者の身体はどこまでも正直であった。そういう衝動を含めて特別な『好き』、つまり、恋なのだと知ったのは、薬研と出会ったからだ。
「僕の身体は、薬研に恋をしてからおかしいんだ」
薬研を想うと身体が熱い。特に下腹部に集まっていく熱は意識すればするほど止まらなくなり、審神者の心の制止など飛び越えて薬研を求めて背を伸ばすのだ。はっきりと身体に表れる変化と、それをコントロールできないことが心を怯ませる。挙句の果てには胸の先までもがおかしくなり、審神者は胸元を抑えた。薬研へどんな答えを求めているのか、急にわからなくなったのだ。
審神者が身体の疼きを癒してほしいのだと頼めば、薬研は恐らく応えるだろう。けれど、本当に欲しいものは身体の癒えではない。それを含めた、もっと広く、大きなものだ。
これ以上言葉を重ねれば逆に薬研が離れていくような気さえして、審神者は項垂れるようにして顔を俯けた。と言ってそれ以上逃げることもできず、目を伏せる。薬研からまるで拒絶されなかったことが逆に審神者を戸惑わせていた。触れ合ったばかりの唇の感触を、薬研の瞳に浮かんだ桜を、審神者の好きなそれよりも、ずっと胸を締め付ける、極上の微笑みを思い出す。その全てが審神者への、審神者が薬研へ抱く感情と同じ種類の好意を示しているのだと心が浮かれるが、それは自分の都合のいいように受け取りたいだけではないのかと、傷つきたくないが故に自制する声を上げるもう一人の思考も振りきれない。
緊張と興奮で再び涙が零れそうになった頃、薬研の手が審神者の両肩に降りてきた。
一度その手から滑り落ちるように逃げた審神者を追いかける、柔らかな重さ。衣擦れの音と共に薬研が顔を屈めたのを感じ、審神者は薄く眼を開いた。
「……俺も、」
耳から滑りこんできた声が示した内容を理解するのに、時間がかかった。そしてどういう意味かと確認を取る前に、薬研は審神者の手を取り、己の身体へ導いていた。
「っあ、」
「どうだ大将……これで、分かるか?」
薬研の鼓動。受肉したが故に脈打つ芯の力強さに、審神者は思わず触れた手にじわりと力を込めた。薬研が呻きにも似た声で喉を詰まらせる。思わず凝視していた手の先、薬研の下腹部から目を離し見上げると、一度消えたはずの花弁がちらつくのが見えた。
「薬研、」
分からない。これはどういう意味なのか。何が言いたいのか。期待してもいいのか。自惚れるばかりではあきたらず、溺れてしまっても?
言いたいことは喉元までせり上がるが、そのどれもが声にならぬまま泡沫に消えていく。惑いがそのまま表れ、小さく動くだけの唇に目を落とした薬研が目を眇め、唇の片端を吊り上げた。
「責任、取らせてくれ」
「……え?」
審神者の返事を聞くより先に、薬研の手は審神者の胸元へ潜り込んだ。留められぬまま軽く合わせただけのパジャマは抵抗もなく薬研を迎え入れる。喜んでいいのか、それとも駄目だと拒絶するべきなのか。普段なら迷うことなく受け取れるはっきりとした物言いは、今回ばかりは決定的に足りぬものがあった。今の言葉は主従としてか、否か。
「えっ、えっ?」
「……俺はどうも、大将にぞっこん、惚れてるらしい」
完全に拒絶することに躊躇いを感じていたのが、薬研にはどう映ったのだろうか。薬研は言いにくそうに苦笑いを浮かべて囁いた。
「俺の身体も馬鹿になっちまったみてえだ。なあ、受け止めてくれるか?」
珍しく頼りない表情に、審神者の心はぎゅっと縮こまった。甘く疼く痛みは切なさにも似て、けれどどこまでも温かい。身を守るように胸の前でパジャマを掴んでいた手を解き、ゆっくりと薬研の肩を過ぎ、背中へ回す。
「……僕で、いいの?」
「大将じゃないなら、願い下げだな」
再び唇が触れ合う直前、言質とばかりに呟いた言葉には、審神者の心を溶かし、満たす微笑みと返事が与えられた。
2015.04.14 pixiv掲載