Umlaut

帰郷 - The place and her grace - 03

 気付けば、頭が下がっていた。じわりと浸み出すような喜びに胸が熱くなるのをはっきりと感じる。
 キョウコ、と名を呼ばれ、顔を上げる。変わらないようでいて確かに長い時を経た精悍な顔が、優しい瞳が、そこにはあった。
「……よう帰ってきたな」
 何もかもがおぼろげになりつつある中で、唯一はっきりと覚えている、たくましい手。それとちっとも変わらないその人の掌が私の頭を撫でた。
「帰ってくるのが遅くなって、ごめんなさい」
「ええ、ええ。大変じゃったろう」
 労いの言葉。細められた双眸は昔を懐かしんでいるようで、私も同じように笑んだ。
「いえ、村に来る途中にリューグに会って、案内してもらいましたから」
「そうか」
「アメルのことも、リューグから聞きました。私よりもアメルの方が大変そうです……」
 アメルに起こった変化は、この人にとっても大手を振って喜ぶべきことではないようだ。下がった眉に、深いため息がそれをはっきりと示していた。けれどすぐに持ち直すようにじゃが、と切り出すと、
キョウコが帰ってきたことが分かれば、きっとアメルも喜ぶじゃろう」
「だと私も嬉しいです。多分リューグが伝えてくれているとは思うんですけど……家にいるのも手持無沙汰で。何か手伝えること、ありませんか?」
「やれやれ、帰って早々に、お前までそんな調子とはな……忙しないのう。ゆっくりすればええ」
「でも、今までずっとそうだったので、あんまりゆっくり過ごすの、慣れてなくて」
 多分、本当になにもしないで過ごすのは十年ぶりになるだろう。蒼の派閥にいた頃は毎日勉強漬け・鍛錬漬けだったし、サイジェントに行ってからもそれは全く変わらなかった。他人様の家にお世話になるのだからと空いた時間には何かしら家事を手伝っていたし……子守以外でゆっくりした時間を楽しむ機会はあまりなかった。もっとも、私がそれを望んでいたことがなにより大きいのだけど。
「あ、そうだ、夕飯。私がつくっても良いですか?」
「そりゃ嬉しいのう」
 しかし、アメルに知れたらさぞや怒るじゃろうなあ、とアグラバインさんが笑う。私が作りたかったのに!と拗ねるかもしれん、と。
 それを聞いて、怒るアメルの姿がなんとなく想像できて笑った。
 ……アメルは、どんな女の子になっているだろう。活発な子だったけれど、リューグや今のアグラバインさんの言葉から鑑みるにそのまま大きくなっていそうだ。
 折角の再会なのだから、彼女の大変さを推し量って心配するより、期待に胸を膨らませることにしよう。私はそう決めると、まだしばらく木こりの仕事に戻るというアグラバインさんから離れた。

 家に戻って、台所を探して食材の確認をする。予想通りと言うべきか、芋がごろごろあった。レルムの村の芋が特産品だというのは間違いないが、裏を返せばそれはつまり、芋以外が育ちにくい痩せた土地ということだ。近くに流砂の谷があることも少なからず関係しているのだと思う。農耕ではとてもじゃないけれどやっていけない。だから基本は狩猟と採集をしているはずなのだけど……
 皆は普段、何を食べていたのだろう。
 知り合いからシルターンで広く使われている調味料をもらったから、それを使えば一風変わった料理を振る舞えるだろう。サイジェントで同じ世界出身の人と出会ったときに、その調味料がシルターンだけでなく私が居た国でも一般化している話も聞いた。よく覚えてもいない懐かしい場所に思いを馳せるつつその人の郷土料理だというメニューのレシピも教えてもらったから、私の元居た世界のことを知ってもらうにはいいかもしれない。他にも、焼き魚とか。村では鶏も飼ってたから卵もあるはずだ。
 まだ陽が落ちてしまうまで時間がある。私は台所で食材の残りを確認した後、村の中央部へと足を運んだ。

「アンタ、キョウコかい?」
「え?」
 聞きたいことがあってリューグを探していると不意に声をかけられた。目をやると、おばさん、と呼ぶくらいの女性が驚いた様子で私を見ていた。姿を見るに、村の人だろう。
「大きくなったわねえ! 覚えてるかい? 『お菓子のおばちゃん』だよ!」
「……、あ、ああー! おばちゃん! ご無沙汰してます!」
 自分を指さしてそう名乗った人は、村にいた頃なにかとお菓子をくれた人だった。パンケーキとか、クッキーは勿論、行商人から買ったんだろう、飴やらチョコやら。
 お辞儀をすると、おばちゃんは元気そうで何よりだわ、と笑った。
「それで、また村でゆっくりできるのかい?」
「まだはっきりとは……でも、暫くはいるつもりしてますよ。……あの、すみません、リューグを探してるんですけど」
「ああリューグなら自警団の詰所にいるはずだよ。見周りは交代でやってるからねえ。治療所の近くにあるから、人の列の先に行けば分かるはずさ」
「ありがとうございます、行ってみます」
 勢いに押されつつ、軽く会釈をして私は急いでその場を離れた。覚えていてくれたのには驚いたと同時に嬉しくもあったけれど、根掘り葉掘りいろんなことを聞かれそうで怖い、という思いもあった。何より自分の身の上を説明するのは結構面倒くさい。世間話に持ち込まれたら話の腰を折るのに苦労するだろうことは分かっているし、申し訳ないけれど今はあまり村の人とは話したくなかった。
 いわれた通り並んでいる人の脇をすり抜けて行くと、人の列の方向とは逸れるけれど、確かにそこには少し大きめの建物があった。
「……すみません、失礼します」
 そろそろとドアを開けると、中には数人の人がいて。仕方がないとはいえ彼らの視線を受けて、僅かに居心地の悪さも感じてしまった。
「あの、リューグは……」
「リューグ? アンタ知り合いか? アイツならたった今交代ででてったが……」
「……もしかしてオメエ、キョウコか?」
 入り口でドアを半開きにして中を伺う私はさぞや不審だったことだろう。訝る男性に名を呼ばれ、私は短くはいと答えた。

「すみません、入り口で立ち止まらないでください。自警団に用事があるのでしたら中で伺いますので」

「あ、ハイ、すみません」
「……キョウコ?」
「え?」
 また世間話になる流れかと身構えた直後後ろからかかった声に、私は慌ててドアごと脇によけた。若い人の声だと思うのと同時にまた名を呼ばれ、注意した人の顔を見る。
「……ロッカ!」
 青い前髪。雰囲気こそ穏やかそうだけれど、リューグとそっくりな顔立ちの少年が立っていた。間違いない、双子の兄のロッカだ。
 思わず顔をほころばせると、彼は丸くしていた目をゆっくりと細めた。中に入って、と促され、先に入れさせてもらう。中にいた男性に席を譲ってもらってしまって、座らないでいるのも申し訳ないと思って空いた椅子に腰かけた。ロッカも積もる話もあるだろうから、などと言われて殆ど強制的に座らされていて。
 若いモン同士よろしくやれよと妙な気遣いをもらい、二人になる。ごめん、と目配せすると、ロッカが苦笑して交代の時間だったから大丈夫、と言ってくれた。
「おかえり、キョウコ。さっきリューグに会って聞いたところだったんだけど……今日だったんだね」
「うん。森の中でリューグに拾ってもらってね。来たばかりなの」
「ああ……そう言えばアメルが休憩時間過ぎても戻ってこないっていわれて、探しに行ってたな」
 思い起こすようなロッカの言葉に、アメルは相変わらずなのね、と声をかけると、彼はそうだね、と複雑そうに笑んだ。もうその顔が表す意味を分からないはずはない。けれどあえてそれには触れず、私はここに来た理由を口にした。
「暇なの、落ち着かなくってさ。今日は私が夕飯作ろうと思うんだけど」
「本当かい? 助かるよ」
「ん、でね、魚とかは自分で取りに行くつもりなんだけどさ、卵が家になかったからいくらか分けてもらおうと思って……けど……あの、もう場所が分かんなくて」
 記憶力は悪くないほうだと思うけれど、流石に十年も前になると、当時が幼かったこともあって上手く思い出せない。
「じゃあ案内しようか?」
「でも、ロッカ、今まで自警団の見周りで」
「構わないよ。休憩って言っても特別休まなきゃいけないような疲れもないし」
 くすりと苦笑するロッカは随分と大人びて見えた。兄だという自覚が出たのだろうか、ロッカとリューグは一般に言われる兄らしさと弟らしさが顕著に表れているような気がする。
「それに、僕もキョウコの手料理楽しみだしね」
「……美味しいって言ってもらえるように頑張るわ」
「気負わなくても良いんだよ?」
「いいや、ロッカたちに料理の腕が劣るとなるとちょっと私の女としてのプライドがね」
「別に花嫁修業に村を出たわけじゃないんだから、そんなこと気にしなくていいのに」
 くすくすとロッカが笑ってくれる。私も少し笑うと、行こうかという彼の促しで席を立った。
「あ、ここ空けてても良いの?」
「多分誰かしら外で僕らの様子を伺ってるだろうから心配ないよ……ほら」
 ロッカが詰所の入り口ドア付近にある窓を示すと、そこには確かにこちらを気にする先ほどの男性の姿が見えた。別に監視されているとまでは言わないけれど、小さな田舎村だとこういったことは珍しくない。物珍しさというか、あまり変化に富む環境ではないから、少しでも変わったものが飛び込んでくるとどうしても気にせずにはいられないのだ。昔私がこの村に来た時のように。
「悪気はないんだけど」
 申し訳なさそうにロッカの眉が下がる。私は首を横に振った。
「いいよ、別に、見せもの扱いされてるわけじゃないんだし……私、変な恰好してないよね?」
「それは大丈夫。それじゃ、案内するよ」
 どうぞ、と今度こそドアを開けて促され、私は礼を言って詰所を出た。


 ひとしきりロッカに案内してもらいながら村を回っていると、昔のことをポツリポツリと思い出してきた。と言ってもそう大した出来事なんてない。ただ何でもない日々の記憶があんまりにも平凡すぎて、愛おしく思えたのだ。転んだり、鶏に突かれて泣いたことすら優しい気持ちで振り返ってしまうほどに。
「懐かしいかい?」
「うん……あの頃は楽しかったなあ、ってさ」
「今はもう随分変わってしまったけどね……鶏も前はそれぞれの家で飼ってたけど、人が増え出してからは一ヶ所に集めて管理する人を決めたんだ。村の男たちは基本的に自警団の仕事で忙しくなってしまったから……女性も炊事や洗濯で大変だって言ってる」
「アグラバインさんも言ってたわ。私が暇なのが落ち着かないから何かすることはないかって聞いたら、お前までそんな調子とはな、って」
「最近は昔みたいな生活を懐かしむことも多くなったよ。たまに戻りたくなる」
 ロッカの口元に苦笑が浮かぶ。私もそれに同意して、お互いにしんみりとした空気を流してしまった。
「アメルは、喜んでる?」
「それは、キョウコの想像通りだろうね」
「……そう。まあ、元気なら、それでいいって思うべきなのかな」
 アメルは確かに人一倍思いやりのある子だとは思うけれど、このことでロッカ達と家族団欒を楽しむことが出来ないのはさびしいだろう。皆の口ぶりからしても、滅多にそういう時間は持てないようだし。
「アメルに会いたいな……」
キョウコの手紙がこの間きた時にアメルにも見せたんだけど……アメルはすごく喜んでいたよ。村の人たちもそのことは知ってるし、もし君が帰ってきたらその時は家に帰れるようにって都合してあるから、今日の夜にはきっと会えるはずだ」
「ほんと?」
「ああ。……正直、僕も嬉しかったよ。アメルは治癒の力を使うと随分疲れてしまうんだけど、ああいう子だから無理をすることも少なくないしね。良い休みになると思って」
「じゃあ、丁度よかったんだ」
「うん。ありがとう、キョウコ
「や、私は何もしてないし」
 まさか帰ってきたこと自体を感謝されるとは思わず、私は頬に集まる熱を感じながら無意味に手を振って見せた。そのまま顔の熱を引かせるために顔を扇ぐように動かしていると、ロッカがくすりと笑う気配。……私はあまり感謝されることになれてないんだけれど、まるでそれを見透かしたような笑みに惑ってしまう。
「あ、ここだよ。覚えてるかな……宿屋なんだけど」
「……ご、ごめん、あんまり」
「いいよ。もう十年も前なんだから」
 ロッカは気を悪くした様子もなく、宿の扉を開いて中に入っていく。私もその後に続いたのだけど、宿は盛況で宿泊客らの視線を集めた。
「やあロッカ、何か用かい?」
「すいません、卵ありますか?」
「ああ、あるよ。あんまり多くはないけどね……それでもいいかい?」
「ええ、ありがとうございます」
 宿屋の女将さんとの会話を遠巻きに眺めていると、ふと女将さんと目があった。
「……キョウコ? キョウコかい?」
「あ、は、はい」
 急に勢いづいた女将さんに圧倒され、私は片足を半歩引いてしまった。けれど女将さんは驚いた顔をすぐさま満面の笑顔にすると、私の手を握って背中を叩くように撫でてくれた。
「なんだぁ、帰ってきたのかい! 久しぶりだねえ、そうか、キョウコが帰ってきたのなら今日はちょっとくらい贅沢しなきゃねえ」
「あ、えと、宿の負担にならない程度で大丈夫です。川魚とか、これから獲りに行ったりするつもりなので」
「……キョウコが作るのかい? まあ、みんな忙しいだろうけどさ」
「はは、耳が痛いですね」
「ロッカ達は悪くないよ。すまないね、みんな自分のことで手いっぱいでさ」
「いえ」
「ちょいとまっとくれ。今すぐ卵とりに行くから」
 しゃきしゃきと話す女将さんに調子を持って行かれながら、奥へと引っ込んだその背中をなんとなしに追いかける。こんな小さな村だけれど、女将さんの気性は客商売である宿にはあっていると思えた。ゼラムの宿もなかなかに気立てのいい人だったし、人と接する仕事をする以上はああいう風に明るい人が向いているのだろう。
 宿では食事処も兼ねているのか、一階のフロアは広々としていて大衆食堂のようになっていた。けれど、リューグも言っていたようにこんな小さな宿では部屋数が足りないなんて話では済まなさそうだ。宿においては一日三食分食事が出ることがほぼないから、それが救いだろうか。衣食住のうち二つの需要と供給が釣り合ってないのは致命的だ。元手となるお金も資源もないこの村では仕方のないことなんだけれど。
「……えと、ホントにいいの? 卵、もらっちゃっても」
 現状で卵は貴重な栄養源だろう。ちらちらとこちらを伺う宿泊客の目も気になってロッカにそう耳打ちする。ロッカは気にしなくていいよ、と笑っているけれど……飢えというのは人を変える。食べ物の恨みは恐ろしいのだ。このことで妙な客から噛みつかれたくはない。
 私の心配を察したのか、ロッカはちゃんと説明するから、と奥から出てきたおかみさんから卵を受け取ると、礼を言って宿を後にした。
 ロッカは受け取った卵の入った包みを私に手渡すと、少し人の少ない村の外れまで移動した。村は円形でこそないものの、構図的には円形闘技場や舞台と同じような地形で、中心部が谷に当たる。だから山沿いの外れの方にまで来ると村を一望することができた。
 柔らかい風を浴びながら、こっちからならゆっくり話も出来るよ、とロッカは言って、家々の裏手を歩きだした。
キョウコが心配してるように、村じゃ食料が十分足りてるとは言いにくいんだ。だから、それを物々交換だとかで補っているんだよ。狩りの心得がある人には狩猟や採集を手伝ってもらったりする代わりに、宿代を浮かせたりね。自警団でも当番以外の人はほとんど食料の確保に回っているし……」
 まあ確かに備蓄する分まで回すには足りてないけど、とロッカは語る。
「でも、今のところはそれで何とかやれてる。だから、このぐらいなら心配いらない」
「そっか、ならいいんだけど」
「村人の数も少ないからね……課題は山積みだ」
 憂うような声は、なにに対して向けられたものだったのだろうか。
 外部の人間を雇うにしても、今まで自分たちでやりくりしていたことを考えれば衝突する可能性もある。上手く行っても人が集まりだせば森を切り開き家が建ち並び、商売人は住み移ったりもするだろう。
 人が集まるということは、それだけ腹の中によからぬものを抱く者と遭遇することも多くなるということでもある。人に対して危機感を持たなければならなくなるのだ。しかも、それを見極めるのは難しい。騙し騙され、利用し、利用されることも出てくるはずだ。
 ――村興しでは済まないような規模になったら、皆はどうするんだろう。
「あ」
 ふと前を行くロッカが声を上げた。見ると、何やら村の中心部を見降ろしている。視線を同じように移すと、こちらに手を振っている人影が見えた。
「ごめん、自警団に戻らないと。家までの道は分かるかい?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「ううん。それじゃ、またあとで」
 軽く手を振って、駆けて行くロッカを見送る。
 ……ロッカやリューグは育ち盛りだ。きっと女の私よりもたくさん食べるだろうし、食べ物は多いに越したことはない。狩りに行こう。木の実も採らなきゃ。できるだけのことをしよう。
 私はロッカの背中を完全に見送らないうちに、家に向かって駆けだした。

2011/03/27 : UP

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