Umlaut

帰郷 - The place and her grace - 05

「……キョウコや、辛く、なかったか?」
 静かな声。アグラバインさんだった。ランプに照らされる目は優しいのにどこか寂しそうな気がして、私はどうしていいかわからなかった。私の記憶にあるアグラバインさんはいつも優しくて、こんな顔を見るのは初めてだった。
 その言葉を噛み締めて、湧いてきた気持ちにたまらず、席を立つ。
 みんなの視線を受け止めて、それから、アグラバインさんの前で膝と、手をついた。
「ありがとうございました」
 深く、頭を下げる。前髪が床に触れた。アグラバインさんが戸惑いを含んだ声で私の名を呼ぶ。一度、頭をあげた。
「私を拾ってくださって、ありがとうございました。この十年、差し伸べられた手の温かさと、あなたから受けた施しを忘れたことはありませんでした。……ずっとずっと、それが言いたくて。出るときは、言えなかったから」
 ありがとうございます、ともう一度頭を下げると、優しく肩を叩かれた。
「……立つんじゃキョウコ。わしは、なんも特別なことはやっとらん」
「私には、特別なことだったんです」
 引かれるまま立ち上がると、アグラバインさんが私の手と膝についた汚れをはたいてくれた。
「アメルも、ロッカも、リューグも。私と、仲良くしてくれてありがとう」
 世界は善意や好意だけで成り立っているわけじゃない。そのことは村を出てからいやと言うほど目の当たりにしたし、感じてきた。だからみんなと笑いながら過ごした日々を、そんな思い出を持てたことを、改めて感謝した。
 当の三人は、これ以上ないまでに目を丸くしていて、リューグまであっけにとられた風だったので、我慢できずに口元を歪めてしまった。
「あたしは、キョウコが好きだよ」
 真っ先に笑い返してくれたのはアメルだった。それを見たロッカも我に返ったのか、くすりと笑みを。
「……僕も。感謝されてるとは思わなかったけど」
「そんなことぐらいでありがたがるほうがどうかしてんだよ」
 リューグの言葉に、私は完全に顔を破綻させた。
「ね、キョウコ、外の話、もっと聞きたいな」
 ねだるようなアメルの視線に、私は苦笑する。
 派閥のことで言うことはもう特にないし、あったとしても手紙には書いているはずだ。そうなると話すことと言えばこの一年ほどのことに限定されてくるわけだけど――
「じゃあ、派閥でお世話になった人たちのことと、サイジェントに行った時のこと、話そうかな。長くなるかもよ?」
「ちょっとくらいなら遅くなっても平気」
「んなこといって何時だったか寝坊したろ」
「……もー、リューグったら、ばらさなくてもいいのに」
 ぷう、とアメルが頬を膨らませる。その様子が可愛くて、私は笑みがこぼれた。



「――でね、この赤い髪の子は流れの格闘家でね。こっちの優しそうな顔の子が、近くの森に住んでる狩人の子なの。それで、こっちの人とこっちの人が騎士でね、この人はこの人と婚約したんだ」
「へえ! ……結婚式はもうしたの?」
「うーん、どうかなあ。私がいた時は、まだばたばたしてたみたいだったから……でも、婚約する前からすでに出来上がってた感じはあったけどね……」
 女三人寄ればかしましい、とはよく言ったものだ。もっとも、気心知れた相手なら二人でも十分賑やかいことが今ここに証明されたわけだけれど。
 任務内容について明かせないとはいえ、私は派閥の話もそこそこに、アメルにせがまれるがまま、サイジェントでの暮らしぶりとそこで知り合った人たちの話をしていた。あんなに大勢の人と同じ屋根の下で、それも親密に生活したのは初めてだったし、何より明るくて賑やかで、悲しいこともあったけれど、総括すれば楽しかったと思う。
 派閥の任務と絡めてどたばたとしたけれど、たった一枚だけ、ロレイラルのカメラという機械を使って集合写真を撮った。人相書きや絵画よりももっと早く、そして写実的に一瞬でありのままの姿を紙に移す機械で、映し出された紙を写真というのだけれど、これがアメルに説明するのに非常に役立った。何せ本当に見たままの姿を記録するから、容姿を説明するのにこれほど便利なものはない。
 あらかた説明し終わって、私はすっかりと冷めてしまったお茶を流し込んだ。……みんなに説明していたのだけど、途中からはもうほとんどアメルの為に話しているようなものだった。
 こんなに楽しい気持ちで長い間話したのは初めてで、私は自然とため息をついていた。幸せなため息をつくなんて、いつぶりだろう?
「……で、キョウコはこの中に、好きな人がいるの?」
「んっ!?」
 思いがけない言葉にアメルを見ると、さっきまでとはどこか違う、なんと形容すればいいのか……そうだ、何度か先輩や知り合いがそういう顔をしたことがあったっけ。所謂、恋愛話をする女の子の顔。
「……やけに熱心に聞くと思ったら、つまり狙いはそれってわけね?」
「うん!」
「残念だけど、いないわよ。というか、今まで一度もそういう風に思った人、いないし」
「ええーっ! 勿体ない……」
「アメルぅ?」
 勿体ないとは何事だ、勿体ないとは。というかそれ以前に、アメルの声色は勿体ないとかそういうことよりなにより、つまらな~い! と言っているように聞こえるんだけど?
 ロッカもリューグも何が気になるのか、居間にいるままだし……あ、でもアグラバインさんも滅多にみんなで集まることはなくなったって言ってたし、アメルがいるから、少しでも一緒の空間にいたいのかな。
 当のアメルはといえば男三人をまるで意に介さずに、私の服の袖をぎゅっと握って、私を逃がしはしてくれないようだ。
「だって……えっと、この人とこの人が婚約したんでしょ? で、この人とこの人、それとこっちの二人も良い雰囲気、ってキョウコは言うけど、相手がいない人だって、この中にはたくさんいるじゃない?」
「好い人を探しに行ったんじゃないのよ、アメル? 確かにすごく楽しかったし、みんな善い人ばっかりだったけど……」
「あっ もしかしてキョウコはこのギブソンさんって先輩が好きだけど、ミモザさんって先輩と好き同士だから、ごまかそうとしてる?」
「あのねえ、……どっちかって言うと、先輩たちはお兄さんとか、お姉さんね。妹みたいに扱ってもらったし」
「むー……じゃあ、この中でキョウコの好みの人は?」
「え」
「好きな人はいないかもしれないけど、好みの人なら、それに近い人でもいいから、いるでしょっ?」
 まるでいないとは言わせない、というような、どこか鬼気迫るアメルの強い視線に、私は言葉に詰まってしまった。それがいけなかったのか、アメルはすぐにきらきらとした表情で写真を手に私を追い詰める。
「ね、教えて?」
「……あー」
 可愛い妹分にそうおねだりされて、私はつい白旗を上げてしまう。確か、昔もアメルにこうされると、弱かった気がする。
 アメルが持っていた写真を手にしながら、改めて顔ぶれを振り返る。
「そうねえ……んー……そうだなあ……やっぱり、好みって言ってもねえ……うーん、この写真の真ん中にいるハヤトって男の子には、おんなじ世界からのはぐれってことで、すごく気にかけてもらったし、いろんな話をしたけど……」
「年下が良いの?」
 どうやら曖昧な答えは許されないようだ。私は肩をすくめて、返答を。
「なんて言うかね、恋愛ではないわね。ハヤトとは同じ世界なだけじゃなくて、生まれた国も一緒だったから……そういう意味では特別かもしれないけど。……そうだなあ、騎士団の人は、みんな優しくて好きだったかな。物腰が柔らかくて、優しくて、でも、戦いとなると強くて、頼りになって……守ってもらうこともよくあったし」
「ふ~ん……だって、ロッカ」
「え?」
「こら、アメル」
 にこにことするアメルに咎めるように名を呼ぶと、アメルは少し唇を尖らせた。……そんなことしても、可愛いだけなんですけどね?
「私が言う好みと、アメルが知りたい好みは違うと思うよ。アメルのは所謂恋愛対象としての好みでしょ? 私はそもそも恋愛もろくにしたことがないわけだし、そういう気持ちは分からないから的確には答えられないよ。それに……結局、好みって言っても理想だし、現実と理想は違うよね? 多分、私の場合は好きになった人がそのまま好みってことになるんだと思うけど」
 どうかな、と首をかしげると、アメルはまだなにか言いたそうにしていたけれど、私はロッカとリューグを見て
「っていうか、そうね。ねえ、私よりも二人の方が、そういうのあるんじゃない? 綺麗な人も、可愛い人もいたからさ。二人の方こそ、好みの人がいるかもしれないよ」
「え、ちょ、ちょっとキョウコっ!?」
 一度矛先を向けられたロッカは私が助け船を出したことで安心していたようだったけれど、今度は私がそんな話を振ったものだから酷くうろたえた様子で困ったように私の名前を呼んだ。
「最近忙しくて、顔も見られなかったんでしょう? どう? これを機にたーっぷり、アメルと話をするって言うのは?」
 こらえきれずに笑ってしまったけれど、私の言葉にロッカは合点が行ったように私を見て。それから、はにかむように目で笑った。
「私はたくさんしゃべったから、三人、水入らずでどうぞ。あ、アグラバインさんもですよ?」
「ワシは話を聞いてるだけで、十分楽しんどるよ」
「そうですか?」
キョウコ、もう疲れちゃった? 寝る?」
 私が席を立とうとしているのが分かったのか、アメルはさっきまで私にそうしていたようにしっかりとロッカの身柄を確保しつつも、少しさみしそうに私を見た。
「ううん、まだまだ大丈夫。さっき渡しそびれたお土産、忘れないうちに渡したいんだ」
「あっ…… そういうことなら」
 えへへ、と笑うアメルに笑い返して、部屋へ向かう。置きっぱなしの荷物の中から目当てのものを出すため、私は一度鞄の中身を一通りベッドの上に出すことにした。
 水とか日持ちする食糧だとかは食事の準備の際に出したり使ったりしたし、あとは武器の手入れに使う道具だとか、召喚術を使うのに必要なサモナイト石という色のついた特殊な石だとか、救急道具とかだ。彼らへのお土産は、その隙間を縫うようにして入れてある。まあ、気に入ってもらえるかどうかは、分からないのだけど。
 目当てのものを出そうとしたところで、足音が聞こえた。気配はまっすぐ私のいる方へ向かってくる。なんとなしに入口を見ていると、姿を現したのはリューグだった。
「? あれ、リューグ抜けてきちゃったの? 折角だからアメルと話すればいいのに……。こういうの、久しぶりなんでしょ?」
「親切心にしちゃ、ろくでもねえ話振っといてなに言ってやがる」
 呆れるような、咎めるような視線に私は曖昧に笑っておいた。
「で、どうしたの?」
「いや……大したことじゃねえんだが……田舎だからって、窓全開にして寝るんじゃねえぞ」
「あ、うん。そりゃ、いつも戸締まりには気をつけてるけど……もしかして、聖女目当ての人たちから盗人が出たとか、そういうことがあったの?」
 僅かに声をひそめると、リューグはにわかに眉を寄せた。すぐに返事が来ないあたり、確信をつけてはいないようだ。森の中でそうだったように、彼なりに何か思うところがあるらしい。
「……誰も彼も信用するなとは言わねえが、まあ覚えとけよ」
「ありがと」
 わざわざこれを言いに来てくれたんだろうか? 気遣いがうれしくて、私は笑って彼に答えた。
「そう言えば、部屋にも鍵がついてたね」
「おかげで金物屋が喜んでたぜ」
 やれやれとため息をつくリューグにくすりと忍び笑いをして、しっかりとお土産を持って一緒に部屋を出た。
「アメル、持ってきたよ」
 居間に戻ると、ロッカと寄り添うようにして写真を見ていたアメルが顔を上げた。その顔がニコニコとしているのに対し、ロッカはどことなく気力を奪われたように力なく私たちを振り返った。……年頃の子に恋愛話を振ったのは失敗だったかもしれない。特に男の子には。
 それはそれとして以後気をつけることとして、私は気を取り直して、一度椅子の上に御土産を置くと、その一つを、アメルの前に広げて見せた。
「わぁ……」
「サイジェントの特産品、キルカの織物で作ったワンピース。……綺麗でしょ?」
 立ちあがったアメルに、そっとそれを当ててやる。白く艶やかな布地は簡素に見えるけれど、上物であることはすぐに気付くだろう。白は、アメルによく似合っていた。
「着てみても良い?」
「もちろん」
「ちょっと部屋で着替えてくる!」
 弾んだ声に私も自然と口元が緩む。アメルの背中が部屋へと消えたのを確認して、私はリューグとロッカに、アメルと同じように広げて見せながら、二人の肩にそれを乗せた。どれも同じ、キルカで作ったものだ。
「二人にはこれね。それから……アグラバインさんには、これを」
 手渡したのは、寝間着だ。キルカはどちらかというと作業着には向かない、例えば上流階級のような、汗をかく仕事のない人たちが好んで着るようなものだ。所謂、お洒落着。アグラバインさんは木こりだから、日中に着てもらうには不向きだ。リューグやロッカも、どんなふうに暮らしてるかはともかく、村では自警団のほかに野良仕事もあるだろうしと思って。寝間着なら、そんなのは関係ないし。
 男性に贈る服なんてこのくらいしか思い浮かばなかったのだけど、アグラバインさんは私の手からそっとそれを手に取ると、優しく生地を撫でた。
「……これを、わしにか」
「はい」
「ありがとう……感謝してもしきれんわい……」
 じんわりと浸み渡るような声色に、私も目を細める。気に入ってもらえたみたいで、よかった。
「しかし、こんなにたくさん 高かったじゃろう?」
「う」
 リューグやロッカはともかく、アグラバインさんはなかなか目が利くらしい。それとも、サイジェントでもキルカは高級品だと言うことを、知ってたんだろうか。……アメルのワンピースはともかく、三人に贈ったものは寝間着なんだから、その価値なんて知らなくてもいいのに。
 まごついていると、ロッカがそうなの、首をかしげた。
「ん、と、……まあ、それなりに」
 はっきりと高いと言い切ってしまうにはなにか押しつけがましいようなものがあるような気がして、私はしばらく曖昧な言葉を並べていたのだけど、
「この刺繍は職人が縫ったのか? ……見事なもんじゃ」
 腕が良いんじゃろう、というアグラバインさんの言葉に、私は耐えきれなくなって声を上げた。
「あー、あの、……じ、実は……キルカって結構高くって、でも特産品だし、どうしてもお土産にしたくて……だから生地と糸だけ買って、それは、私が仕立てたんです」
「! ほう」
「だからお店のものじゃないんです、それ……」
 すみません、と謝ると、アグラバインさんは目を丸くした後、ため息を。それから、
「謝ることなぞありゃせん。これは大切に使わせてもらうよ、キョウコ。本当に、感謝しとる」
「ハイ……そう言っていただけると嬉しいです」
 恥ずかしさもあって両手で頬を抑えると、アグラバインさんは刺繍に目を落として、これは何の模様なんじゃ、と疑問を口にした。
「えっと、それは狩人の子に教えてもらったんです。狩人たちは、森に入るときの衣服には厄除けや願掛けを込めて刺繍をするんだそうです。その時の感性で、決まった図案とかはないそうなんですけど……その模様に加えて、アグラバインさんには獅子、ロッカには鷲、リューグには狼を入れました」
 すこし記号化しているから、分かりにくいかもしれない。……分かりにくい方が、上手い下手が分からなくっていいけど……。
 しきりに感心するアグラバインさんから恥ずかしさで目をそらすと、同じようにじっと寝間着に目を落とす二人が視界に入ってきた。
「あ、あの、二人とも? あんまりじっと見られてると気恥ずかしいんだけど……」
「……キョウコはこういうのが得意なの?」
 丁寧だね、とロッカが刺繍に触れる。
「召喚術の訓練ってこともあって、刺繍の方が得意だし、好きだけどね」
 召喚術にはなんというか、感受性みたいなものも要求されてくる。その上、頭に思い描いたものを具現化する技術も必要だ。絵を嗜んだり、こうして刺繍などの図形を描くという作業は召喚術を扱ううえでおろそかにできないのだ。その訓練も兼ねて、昔から刺繍をしたり、編み物をするのは好きだった。
「すごいな」
「……器用なもんだな」
 感心したような二人の声が、少しくすぐったい。
「ふふ、やり方さえわかれば難しくはないわよ」
「そういうものかな? これ、かなり難しそうに見えるけど」
「慣れもあるかな。私も最初からこんなふうにできたわけじゃないし……ま、さっきも言ったみたいに、一人でやってくならなんでもできた方がいいって言われてきたから、なるべく生活に直結することはやるようにしてるのもあるかもね」
 毎日少しずつほどこしたり、眠れない時に、眠くなるまでやってみたりして、ゼラムにいたころから続けてきたのだと言うと、リューグの眉が寄った。
「リューグ?」
「やんのはいいが、程々にしとけよ? 肩が凝っても揉んでやらねえぞ」
「はぁい。……ふふ」
 妙に嬉しくなって笑うと、何笑ってんだ、とさらにリューグの眉間に出来た皺が深くなってしまった。どう返そうかと迷った直後、響いた足音に、私は目配せを。
 飛び込んできたのは、白いワンピースを着た、アメル。
「……どうかな? 似合ってる?」
「よく似合ってるよ、アメル」
「……女の子にはこういうモンがええんじゃろうな」
 くるりと回って見せるアメルに、ロッカとアグラバインさんは微笑ましそうに目を細めている。リューグはと言えば、眉間に刻まれたかと思われた皺をなくして、じっと彼女を見ていた。
「それ、キョウコが仕立てたんだって」
「ちょっとロッカ! あああ、恥ずかしいから言わないでよ……」
「いいじゃないか、本当のことだろ?」
「そう、だけど」
 さっきの意趣返しか、と思うけど、言われてしまっては取り消せるものでもない。
 そうなの? と首をかしげるアメルに、私は頷きを一つ。そして彼女の顔がほころぶまでに、そう時間はかからなかった。


 結局アグラバインさんが止めるまで、アメルの元気さは衰えるところを見せず、私は半分褒め殺し状態にあって、また助けられたと息をついた。
 居間で解散する直前、
「……お前、なにしに村を出て行ったんだ?」
 呆れ半分にリューグに言われて、私は曖昧に笑うしかなかった。

2011/05/03 : UP

←Back Next→