Umlaut
嗚呼、愛しき日々よ - In the small world - 01
――鳥のさえずりが聞こえ始めた。
私はむくりと怠慢な動作で起き上がり、カーテンをめくり外の様子を伺った。僅かに明るくなってきてはいるものの、まだ暗い。
アメルは、聖女としての勤めをするのは早くても日出の後だと言っていた。順番待ちには混乱や無用な乱闘を避けるために整理札も配っているらしいから、今なら、あのおびただしいまでの人はいないだろう。
そっと起き上がり、軽く伸び。昨晩リューグに言われた通りに荷物から貴重品と、そして、サモナイト石が入った革袋を取り出して、何事も無いか念の為に確認をする。リューグの言葉が無くとも、召喚師としてサモナイト石の管理は当然の義務だし。それから服を着替えて、わずかな装備で部屋を出た。床は軋んでしまうから、出来るだけ足音は忍ばせる。音を殺して家から出ると、直ぐに家の裏手にある森へと足を踏み入れた。
こっちは昔、アメル達とよく遊んだ場所だ。少しいけば開けた場所に出る。
茂みを掻き分ける必要はなかった。定期的に人が通ったとおぼしき形跡があって、整備こそされていないものの、人一人くらいは楽に通れる確かな道がそこにはあった。
ぱき、と細い木の枝を踏み鳴らし、目的の場所に出る。それから、深呼吸。
サイジェント近郊は開発の影響で環境としてはあまりいいとは言えなかった。途中通ってきたファナンやゼラムは街の規模に圧倒されたし、人も多かった。だからこうして人の気配のない静かな森で、それを堪能するのは本当に久々だった。
何度か深呼吸を繰り返し、準備運動を。じっくりと体をほぐし温めると、私は辺りが白み始めてきたのを確認し、長い間続けてきた朝の鍛練を始めることにした。
「――」
ふと手を休める。気配に気づき来た道を見ると、少し遠くに赤い髪が見えた。
「リューグ」
名を呼ぶと、止まっていた足がこちらに向けて動き出す。
「この場所……覚えてやがったんだな」
「忘れるわけないよ。楽しかった場所のことは特に」
少し笑むと、リューグはなにかを考え込むように難しい顔をして私を見やる。なにか、と訊ねようとしたとき、その口が動いた。
「……毎朝やってたのか、それ」
それ、とは鍛練のことだろう。私は首を縦に振った。
「今までは大体相手がいたんだけど、一人旅じゃそうもいかないし。サイジェントを発ってからは一人でもやるようにしてるんだ。一日でもサボると、そのまま怠けちゃうから」
元々私はそんなに自分に厳しい方ではない。ここに戻るという目的があったから今までやってこれたのだ。
そんなことをこぼすと、リューグは変わらない調子でまた声をあげた。
「……でも、変わらず続けるんだな」
リューグが何を言いたいのかはよくわからなかったけれど、私はまたうんと頷いた。
「自分の身は自分で守れないとね。これのおかげで何度も救われたし……それに、たくさん知り合いが、出来たから。また会いにいきたいし」
「ここを出てくってことか?」
「取り敢えず、近いうちにゼラムには行くつもり。この前寄ったときお世話になった人に、あいさつ、してこなかったから」
リューグの質問に答えていくと、彼はそうかと、一旦言葉を切った。そして俯き気味に何事か考えるようにだんまりになり、私は彼の挙動をじっと待った。
彼の顔が上がる。
「――鍛練、相手になるぜ」
真っ直ぐに見つめられ、私は目を瞬かせた。
それを彼はどう取ったのか、急に不機嫌そうな顔をして。
「テメエからすりゃ大したことねえかもしれねえがな」
「……ッ、ううん。私も相手がいる方がいい!」
引け目でもあるのか、リューグの言葉にはなにか込められた思いがあるような気がした。それがなにかはわからないけれど、彼の申し出は私にとっても願ったり叶ったりだった。流石に相手がほしいとは言え、村に滞在する見ず知らずの護衛たちに声をかけるなんてできないし。
私からもお願いすると、ようやくリューグは眉間の皺をなくした。
「準備運動は?」
「いつでもいいぜ」
彼の腰が落ちる。距離をとると、それがそのまま合図になった。
いくら開けた場所といっても、森の中で行う鍛練はやはり整備された平地で行うそれとはかなり事情が異なってくる。
大きな石やぬかるみ、張り巡らされた木の根は時折地面に顔を出していたりする。秋には落ち葉で足を滑らせることもあるだろう。ましてやここは山の中だ。傾斜でない場所があるほうが珍しい。
「! っ」
「うわっ」
それを考えなかったわけではないけれど、リューグに組み敷いて勝負をつけようとした瞬間視界に飛び込んできた鋭利な石の存在に、私は慌てて上体を崩した。いくらリューグが咄嗟に受け身をとっていたとしても、避けない限り怪我をしてしまうのは明白だった。
そこに叩きつけるはずだったリューグの身体を無理矢理にずらす。力が変な方向に逸れたせいで、反動で私の方が仰向けに転がってしまった。
「っ、い、た……」
「! バカ野郎っ、変な気遣いすんじゃねえよ」
私が急に乱れた理由を察したのだろう、リューグの眉間に深い皺が刻まれる。
変にかばったために私の右手の甲からは血が滲んでいた。リューグを軌道からそらすことは成功したのだけれど、その代わり右手が石にぶつかったのだ。
「気付いちゃったんだから仕方ないでしょ」
「……切れてんな。傷口を洗わねえと……。こっちだ 滝があったの、覚えてるか」
「ごめん」
短く謝るけれど、リューグは気にした風もなく私の手を引いて立ち上がらせると、そのまま歩き出した。
リューグの言う滝まではたいした距離もなく、私はその清流を目の当たりにしてにわかに息を飲んだ。勢いのある流れは湿気を孕んだ心地よい風を産み出していて、私の頬を撫でる。
「すご……」
「感心してる場合か。ほら、傷の状態が悪化しねえうちにちゃんと洗え」
「分かってるよ」
きびきび動くリューグに、ああ、根本的なところは変わってないなぁとぼんやり思いながら滝壺の冷たい水に手を浸す。滲みたものの、傷口をよく洗い流すと、私は目の前にかざすようにして傷の状態を確認した。強かに打ち付けて皮膚も切れてはいるものの、手首の捻挫や打撲はしてない。……うん、このくらいなら大丈夫そうだ。
「家に戻るか。少し位なら治療具があったはずだ」
「待った。大丈夫だから」
「……?」
「見てて」
傷口より心臓に近い手首を左手で包み込む。目を閉じて、患部を癒すように『気』の流れを作り出す。足りないものを補充し、痛みを和らげていく感じ。
僅かな集中の後目を開けると、綺麗に傷が塞がった、普段通りの手の甲が見えた。
「よし」
私が満足そうにする横でリューグは目を瞬かせていた。
「聞いたこと、ない? これはストラって言ってね、格闘家が好んで使う治療法のひとつなんだけど……こうやって、気の力を利用して体の調子を整えるの」
「……アメルの力とは違うみてえだな」
「そうね。ストラでは病気を治すことはできないから……まあ風邪とかだったら、免疫力をあげたり、筋肉痛を直したりして直ぐに良くなるように補助くらいはできるけど……あとは肩凝りとか腰痛とか、気の流れや体の歪みから来る症状なら癒せるかな。今やったみたいに、外傷もそうね。達人になると、ひどい怪我でも直ぐに治しちゃうとか……」
「疲れねえのか?」
「もちろん疲れるよ。それが自分で自分を治すときでもね。でも、余程気を消耗しない限りは休めば直にまた動けるようになるから。ストラみたいな気を必要とする技はね、自然の中では特によく鍛えられるの。自然が多い場所は気で満ちてるからね」
今も少しとはいえストラを使ったにも関わらず、殆ど疲れを感じない。むしろ気が回復する方が早いのか、今までにないくらい体が軽い。
「呼気を利用する技だから、空気のいい場所では調子も出やすいってことね。格闘家がこれを好むのは、一人でひたすら自分の体を虐め抜いて、鍛えるからでしょう。打たれ強くなったり、拳の一つ一つを重くすることも出来るから。それでなくても気を感じることはマイナスにはならないからね。私、習得してからほとんど病気しないし……」
「……そうか」
「やってみる? ここなら静かだし、環境的にはこれ以上ないくらいいいよ」
私の提案に、リューグはそうやぶさかではなさそうに反応した。
「具体的にはなにすんだ?」
「呼吸が大事だからね。まずは……そうだなあ、有り体に言えば瞑想かな。今は私もいるし、私がリューグにストラを使うから、それで気を感じ取ったりとか。基礎訓練ってなると、じっとしてることが多いかも」
「……考えておくぜ」
「性に合わない?」
「うるせえ」
くすりと笑うとリューグはムッとした顔で私を見た。
「ったく、昨日の狩りといい、料理といい、刺繍といい……節操がねえやつだな。得手不得手って言葉、知ってるか?」
かなり回りくどいながらも褒められている、ように思えるのだけれど、態度を見るにこれは皮肉か。
私は苦笑を一つこぼす。
「でも、一人旅だと絶対に必要になると思ったのよ。なにかのときに役に立てるように、なんでもできなきゃって、思ってたし」
「……それなんだがよ」
リューグは私の言葉にふと表情を改めて、私もつられるようにして浮かべていた笑みを引いた。
「なんでもできるにこしたことはねえ。それは分かるぜ? やんなきゃいけねえことってのは、良いも悪いも、好き嫌いもねえしな……。けど、テメエにはやりたいことはねえのかよ?」
「やりたいこと……?」
そうさ、とリューグは頷く。
「俺や兄貴やアメルには、どういう理由であれやりてえことよりやらなきゃいけねえことのほうが多いだろ。別に、だからって特別我慢してる訳じゃねえがな……テメエが村を出たのはほとんど無理矢理だったにしろ、蒼の派閥からは一人前だっていわれたんだろ? これから先村にいるにしたって、なんかそういうモンは全くねえのか」
「やりたいこと、か……」
そう言われてしまうと、そんなものはなかった気がする。強いて言うなら村に……いや、アグラバインさんのところに戻ってきたかったのがそれだけど、リューグが言いたいのはそういうことではないだろう。
「誰かの役に立つことと、良いように使われるってことは違うんだぜ」
何を思っているのか、滝壺へと落ちる水の流れを遠く見つめながら、リューグの声が沈んだ。……アメルのことだろうか。それを払拭したくて、私はぴんと指を立てた。彼の目がそれをとらえる。上がった目線に笑みを浮かべ、声を弾ませた。
「私さ、一応医学も勉強したのよ。ほら、レルムには常駐の医師がいなかったじゃない? だから、医療知識があればって思ったの」
リューグは私の言葉を聞いて、少しだけ調子を戻すようにため息をついた。
「……親のこと、気にしてたんだったな」
リューグは、彼の両親がはぐれに襲われてなくなったことを私が気にしていると、今でも思っているようだ。それは決して間違いじゃない。私と同じはぐれ召喚獣がよく知った人を殺したなんて、そう気にせずにいられるものじゃない。現に彼の言ったことは当たっていて、決して全てのはぐれ召喚獣がそんな風に人を傷つけ、命を脅かす危険な存在ではないのだと、知って欲しかったのがきっかけだ。
そう、彼らの死は大切なきっかけで、でももう、それだけが全てというわけじゃない。
「やっぱり、誰かを傷つけるよりは、ね……それに、お年寄りや子供が病気にかかったらって思うとさ」
「……そうだな」
「まあでも、着いて早々お役御免って感じよね。まさかアメルが医者以上になってるとは思わなかったもの」
それは決して悪いことではない。だって、私の手に余る患者でさえ彼女は救えるのだ。実際、医者がさじを投げるほどの奇病、難病を治してもらうためにこうして人であふれかえってしまっているわけだし。けれど、肩身が狭いのも事実には違いない。
「別に、だからって全く役に立たねえことはねえだろ。狩りじゃ怪我なんざザラにあるんだ。アメルを頼りすぎんのもどうかと思うがよ、どうしても治療が必要になったときにちんたら並んでなんかいられねえだろ?」
「……そう、ね。そんなことまでアメルを頼ってちゃ、駄目だよね」
リューグの言葉は一々当たり前のことなのに、私は感心してばかりいるような気がする。これではどちらが年上なのだか分かったものじゃない。
「それにテメエは召喚術を習いに行ったんだろ? それを使わねえ手はねえだろうが」
「うん、まあそうなんだけど……」
派閥の性質上、私はそうしても良いんだろうかと自問してしまう。生活に密着した場面で召喚術を行使することは、どちらかというと金の派閥の特色でもある。前のようにひっそりとしたレルムでならともかく、今は人の交通量が前の比じゃない。加えて、ここはゼラムと目と鼻の先にあるわけだし、あまり目立ってそういうことをすると本部から御咎めもあるだろうしなあ……。
バレなきゃいいのよ、なんて先輩の声が聞こえてきそうだけど、建前として、なにかちゃんとした理由が欲しいところだ。もし使うことになった時の為に、考えておく必要はあるかもしれない。
「帰るか。そろそろアメルも起きてる頃だろ」
「あ、うん」
少し考えてしまった私を引き寄せるリューグの声に反応した矢先、私は頭の上に何か軽い衝撃を感じて、一歩踏み出した足と同時に、右手でリューグの腕を掴んだ。
「うわっ なんだよ、急に」
「あ、あた、あたま」
「あ?」
「いま、なんか乗った」
頭の上の何かは、明らかにもぞもぞとうごめいているようだ。動くと、落ちてきそうな気がする。いや、落ちるのはいい。でももし顔にへばりついたら? まかり間違って首筋に入ってしまったら?
リューグは私の頭に目をやると、合点が言ったように呟いた。
「……ああ、毛虫だな」
「と、って」
固まりきった私を見かねたリューグはだらしねえな、とため息混じりに頭に着いてたらしい毛虫を取り払ってくれた。
安心して、緩く息を吐く。
「お前、そんなんでやってけるのかよ?」
「ううう……リューグが助けてくれたら」
「はっ、誰が。テメエでなんとかできるようになりやがれ」
「酷い」
「うるせえ。毛虫に負けたなんてムカつくんだよ」
俺との鍛錬の時はあんなに強かったくせに、とリューグが拗ねたような声を上げて、私はそれとこれとは全くの別問題だよ、と返した。
「ほら、なんていうか、アレよ。リューグ、アメルには弱いでしょ? ああいう感じよ」
来た道を戻りながらそう説明にもならない言葉を並べると、リューグは殊更にぎょっとしたように肩を揺らした。その様子ににや、と笑みが浮かんでしまう。だめだ、これでは昨晩のアメルと変わらない気がする。……私も、女の子という生き物なのかもしれない。人の色恋沙汰というのは、気になるものだ。
「昨日、アメルのワンピース姿に見とれてたでしょ?」
「……アメルと毛虫を同列にすんじゃねえよ」
苦し紛れか、けれど返ってきた言葉は否定するそれではなくて、私はさらに笑みを濃くすることになった。リューグの眉間の皺も深くなったことは、言うまでも無い。
2011/05/05 : UP