Umlaut
嗚呼、愛しき日々よ - In the small world - 02
アグラバインさんから、村で生活するに当たって幾つかの注意点を教えて貰った。
お風呂は毎日支度しない。人が増えてからは宿屋だけは毎日用意するそうだけれど、村の人間は各家のお風呂を順番に使う。アグラバインさんの家でお風呂に入った次の日は、隣のおじさんの家の沸かしたお風呂を借りる。『貰い湯』をするのだ。元々全ての家に風呂釜があるわけではないから、お風呂の支度が出来る家々を順繰りに回ることになる。
それも前までは三日おきだとか冬場なら一週間ごとだったらしいのだけれど、やっぱりアメルが聖女になってからは衛生部分には気を使うようになったようだ。と言っても、特に男衆については燃料の関係で夏場は川で水浴びすることもあるようで。いくらアグラバインさんが木こりだとは言っても、村がこうなってしまった以上、彼の作る薪は料理や、暖を取るために優先的に使われるのは自然な流れだ。
ついこの間もお菓子のおばちゃん――エレナさんの家に貰い湯をしに行ったのだけれど、そこではじめて、私はアグラバインさんからは聞いたことのない話を聞くことになった。
「キョウコ、自分の家じゃないからってそんなに堅苦しくしなくていいんだよ?」
お風呂から上がると、エレナさんからそんなことを言われた。彼女の言わんとするのは、私がお風呂上がりなのに、入る前とほとんど同じ格好で出てきたことについてだ。
私はへら、と曖昧に笑みを浮かべた。
「すみません、もうずっと習慣になってて……これじゃないと落ち着かないんです」
「そうかい?」
気を使わなくていいんだよ、と言ってエレナさんは私にお茶をだしてくれた。断れなくて、私は用意された席に腰を掛ける。
「キョウコはロッカたちより年長だったね。いくつになったんだい?」
「あ、えと、21です」
正確な誕生日は覚えてない。アグラバインさんに拾って貰ったのが村の収穫祭の前後で、当時の私は年齢を聞かれて『もうすぐ10才』だと答えたそうだから、一応、秋ごろと言うことになっている。今から思えばこの世界に来て時間の感覚が定かではなかったはずのあの時、なにを思ってそう言ったのかは自分でもよく覚えてないのだけれど。
私の返事に、エレナさんはことさらに驚いたようだった。
「なんだい! もういい年じゃないか。早く結婚しないと嫁き遅れるよ」
「いえ、あの」
「子供だって今のうちに産んどかなきゃ」
突如として勢いを増したエレナさんに圧倒されていると、彼女の声色が大人しくなった。
「村に来たころのあんたは随分びくびくと大人しくて、あたしは心配したよ。どんな目に遭えば、年端もいかない子どもがこんな風になるんだってね」
「……」
「あたしには旦那も娘もいたけど、あんたが来る前に亡くしちゃってねえ。できるならあたしが面倒見たかったくらいだった。肝心のあんたはアグラのじいさんにしか懐かなかったから、言わなかったけどね」
エレナさんの言葉に思わず彼女の顔を見つめる。声は穏やかだったけれど、その顔が痛ましげなこと、私が顔を上げると、ふと柔らかく解れたことに気づく。
「そのあんたがこんなに立派になって、まさか村に帰ってくるとは思わなかったよ。自分が住んでる場所の事を悪くは言いたくないけど、辺鄙な所だろう?」
確かに、暮らしやすさで言えばゼラムやサイジェントの方が暮らしやすいかもしれない。けれど、レルムはお金の心配をしなくてもいい所に、良さがあると思う。だって、街で暮らしていても、お金が無ければ食べ物も買えないのだ。私にはこの世界に家系のような地に根差したものがなにもないから、どうせ明日のご飯の心配をするなら、お金がなくともある程度融通の利くこの村の方がいいと思う。
何より、アグラバインさんがいると言うだけで、心強さが違う。
「話しを戻すけどね、キョウコ、好い人はいないのかい?」
「え、」
「外で暮らすつもりがないなら、その内あんたにも口利きがあると思うけど」
「えっ」
なに、それ。
「で、でも、私は……自分で言うのもなんですけど、素性も分からないし」
「そんなこと言ったらキリがないじゃないか。あのじいさんだって、若けりゃあ幾らでも話がでたろうさ……。あ、勿論無理にってことじゃないよ。ただ、そう言う話は絶対に出ると思うからね。キョウコがどうするのかは兎も角、心積もりだけは先にしときな」
「……はい」
「まあ、キョウコが乗り気でもじいさんに勝てなきゃあ許してもらえそうにないけどねえ!」
私があまり積極的な姿勢を見せなかったせいだろう、エレナさんはそう言って快活に笑い飛ばしてくれた。それに甘えて、私はふふ、とつられて笑っておくことにした。
エレナさんから話を聞いて数日後。私は大量の食事と共に人だかりの失せた村の中を歩いていた。幾らか人の気配はするし、まばらとは言え人通りが絶えているわけではないけれど、そのどれもが旅人然とした格好の人たちだ。そんな風だから、自警団の仕事はもちろん夜にもある。というより夜が本懐と言うべきか。聖女見たさもあるのだろうが、不埒な目的で民家に侵入を試みる輩がまれにいるようで。護衛として腕がたつことと、人格はどうやら比例しないらしい。
夜間の見張りや巡回も行う自警団の人たちに夜食を作るのも村の女衆の役目で、それは順繰りに役が回ってくる。今日は私だ。早速仲間入りをさせて貰えているのは嬉しいような、単に人手が足りないだけのような……兎に角。
夜警は体力がある若い男で構成されているため、夜とはいえ、胃に優しいながらもなるべく精がつくものを、と思う。量もなくちゃいけないからできる限り芋でかさを増やしたり、涙ぐましい努力が必要なのだ。
森で採集した山菜や薬草も入れて、身体が温まるようにスープにしてみたけど、さて、気に入ってもらえるかどうか。
「ごめんください」
とんとんと詰所のドアを叩くと、中から同世代くらいの男性が招き入れてくれた。正直若い世代の男の子たちはロッカとリューグしかまともに記憶してなくて、あちらが私を覚えてくれているのが中々に心苦しい。まあ、村に居た期間もそんなに長くなかったし、あれから十年経っていることもあって理解を示してもらえたのは幸いと言うべきだろう。
無事に詰所で夜食を振る舞っていると、ドアを開けて入ってくる一人の気配と共に男性の陽気な声が聞こえた。どうやらなにか上物が手に入ったらしい。上機嫌の彼が手にしていたのは酒瓶だった。
「お酒、ですか」
「おう、キョウコも飲んでみるか? 今日のはかなり上等だぜ」
「じゃあ、せっかくだから少しだけ……」
配膳だのなんだのと動き回っていたのを止めて、リューグとロッカに挟まれる形で席に加わると、無理しなくていいよとロッカが耳打ちしてきた。
「大丈夫。あんまり強くはないけど、少しくらいなら」
「……そう?」
「たくさん飲むのはだめだって、きつく言われてるけどね……」
「はっ、大方暴れでもしたんだろ」
「いや、それがそうじゃないらしいのよ。でも聞いても答えてくれなくって」
きっと酷い泣き上戸か、絡み酒でもしてしまったのだろう、と自分のことながら推測するしかないのがまた悲しい。お酒の失敗はきちんと教えて欲しいものだ。
回ってきたお猪口に口をつけ、唇を濡らす程度に留める。ふん、とアルコールの匂いが鼻孔に充満して、息が詰まる。
「これ、焼酎ですか?」
「おう。シソ焼酎だぜ」
「……ちょっと私にはきついかも」
「無理に飲まなくていいぞ。リューグ、お前飲んでやれよ。酒も美味いって飲まれる方が嬉しいだろ」
「ごめんリューグ、いいかな。……ロッカはお酒、苦手なの?」
「あんまりは飲まないかな」
お猪口をリューグに手渡すと、リューグはあっさりと残った分を口にいれてしまった。少し口の中で楽しむように顔を歪めて、喉仏が動くのをじっと見ていた。と、リューグが私の視線に気づいて眉を寄せた。
「……んだよ」
「ううん、慣れてるわねえ」
「まぁ、晩酌ならいままで何度かやってるからな」
「美味しかった?」
「ああ」
空になったお猪口を手渡される。
「他の酔っ払いに注がれねえように気を付けときな」
「おいおい酷い言われようだな」
「そうだろうが?」
野次めいた言葉にもリューグは口角を上げてあっさりとしたものだ。お、大人……。
「そういやキョウコ、結婚はまだなのか?」
「えっ?!」
不意に振られた話題に、私は注いでいたお酒を溢さないように集中することでなんとか平静を保つことに成功した。
「結婚……」
「ここじゃキョウコくらいになったら大抵は誰かしらと一緒になるんだぜ。ちょっと遅いくらいか?」
「そ、そうなんですね……」
「その様子じゃ、好いヤツもいなさそうだな」
くつりと笑われて、反射のように顔に集まった熱を感じてしまう。エレナさんから話を聞いた時とは違う空気に、息が詰まった。
恋愛ごとは、自分とは無縁のことだと思っていた。派閥本部にはそんな浮わついた雰囲気なんてなかったし、確かに憧れがないとは言わないけれど、それどころではなかったから。それに……はぐれ召喚獣であることで受けた扱い、世間一般のイメージ。そう言うものが、私が誰かに心を預けることを躊躇わせるのだ。
だから、急にそんなことを言われても、困る。まだ利害関係が一致している方が気が楽だとさえ思う。
ふと私を見るリューグに気づいたけれど、直ぐにどこからか突きだされた徳利にお猪口を出す動作で逸らされた。特に意味はないのかもしれないけど、妙にどきどきしてしまう。
戸惑う私を置いて、話は進んでいく。
「俺たち世代もそろそろだよな」
「だな。……そうだ、キョウコとリューグならいい線いくんじゃないか? 村で一番強いリューグに鍛練とはいえ勝ったそうじゃんか。上手く手綱引いてやってくれよ」
「リューグはすぐ突っ走るからなぁ。似合いかもな! 尻に敷かれてるところが見てえよな」
「ばっかお前、リューグが頭が上がらねえのはアメルだろ」
「お前らな……! ったく、好き勝手言いやがって……」
リューグはむすっとしたまま焼酎を口にする。その頬がわずかに紅潮しているのは私の思い違いだろうか。
くすりと隠れて笑ったつもりが全て筒抜けだったのか、リューグが半目でこちらを睨む。
「んだよ」
「べつに」
ついに隠しきれなくなって、私は頬を緩めた。
「リューグとアメルか……いいと思うなあ」
本当に小さく呟いた言葉は、既にあちこちで話題が飛び交い、わいわいとし始めた部屋の中でも、リューグには聞こえたようだった。
「はっ、もう酒が回ったのかよ?」
「ええ? だってリューグだったら、アメルも安心して一人の女の子になれると思うから。リューグだって、アメルのこと、大事にしてるじゃない」
「……そりゃ、家族だからな」
お猪口に口をつけて唇を湿らせながら、リューグは私が作った夜食の一つに手を付けた。芋と干し肉を炒めて、胡椒で味を調えたもの。どちらかというとお酒のアテに食べるおつまみに近い。
「美味い」
「ありがとう」
「……お前なら、どこに行ってもやってけるだろ。流石に誰の嫁さんでもとは言わねえが……」
私のつぶやきよりももっと小さなリューグの言葉を聞いていたのは、多分、私だけだったと思う。
「キョウコ、顔赤いけど大丈夫かい?」
「う、うん」
ロッカの善意の指摘が、物凄く恥ずかしかった。好きな人も、恋人も飛ばして、まさかお嫁さんの話を……それも、リューグからされるとは思わなかった。
どうしよう、どんな顔をすればいいか分からない。
「酔ったんなら、お前はそろそろ戻れ。片づけは自分達で出来るし、いつもやってる」
「そ、そう?」
「ああ」
「じゃあ、僕が送るよ。キョウコは強いけど、何があるか分からないし」
ロッカの申し出に頷き、席を立つ。
「おう、ロッカでも似合いかもな!」
「いい加減、酔っ払いは黙ってろよ」
「なんだよ仕事はするって」
「じゃあ片づけ頼んだぜ?」
「あっ?! リューグ、テメエ!」
「言質は取ったからな」
話題を引き受けて、リューグが目配せで早く行けと促してくる。それにありがとう、と唇を動かすだけで伝えると、私はロッカと共に詰所を後にした。
「……他の人もみんなそうなの?」
「そうなのって?」
「後片付けまでしなくてよかったのかな」
「ああ、そのことか。大丈夫だよ。ただでさえ作って貰ってるわけだし、夜警は仮眠を挟みながら皆順番にずらしてやってる。付き合ってたら徹夜することになってしまうよ。
それにお酒の事なら……あの様子じゃ、完全に仕事ができなくなるほどの量はないから、精々皆身体が温まる程度だと思う」
「そう?」
「うん」
少し冷えた空気が肌を撫でていくのが心地いい。それも、あまり長く外にいると身体を冷やしてしまうだろう。そう言う意味では、少しお酒を入れるのは正しいのかもしれない。
何事もなく家に着き、戸締りだけよろしくと言って戻るロッカにもお礼を言う。穏やかに笑って手を上げ、ロッカは来た道を戻って行った。
私も、防犯の意味を込めて素早くドアを閉めて施錠する。アメルは泊まり込みで、家にはいない。起こす心配はない。
「帰ったか」
「はい」
灯を落とした家の中は暗い。その中で、アグラバインさんがランプ一つで待っていてくれた。
「寝ていても良かったのに。……それとも、起こしました?」
「いいや。ワシが好きで待っとっただけじゃ」
そう言って、アグラバインさんがランプを私に渡してくる。早く寝なさいと優しく労わられて、お礼と共に受け取る。
「あの、アグラバインさん……一つだけ、気になってることがあるんですが」
「どうした?」
私は声を潜めた。
「さっき、結婚の話になったんですが……」
「ああ……それがどうかしたんか? もう好い人でもできたか」
ふ、とアグラバインさんの目尻が優しく下がる。なんだかみんなそう言う展開に持って行こうとする気がする。それを否定するべく首を振った。
「いえ……寧ろその逆なんです」
言うと、アグラバインさんは見当がつかない、と言うような表情で私に先を促した。私は言いにくさで言葉がつまるのをさらに押し出すようにして、続きを。
「あの……はぐれと人が結婚したり、子供を産むことはさほど珍しくはないんです。とくにはぐれが人型だと、抵抗感も薄いし……でも、姿形は人と変わらなくても、人ではあり得ない力をもっている者もいるんです」
「……」
「この前も申し上げましたけど、私には不思議な力が宿ってることは間違いないんですね。だから……その、例えば私が産んだ子が、普通の人間とは限らないんです。寧ろ何か特殊な能力のある子になるでしょう。それが私と同じとは限らない」
「……じゃが、産まれてくる子が……お前と人の間の子が言葉が話せないだとか、直ぐに人を襲ったりすることはないんじゃろう?」
「恐らくは。……ここからは、ほんの一例として聞いて欲しいんですが」
私はそこで一拍置くと
「例えばシルターンの鬼神と人の間の子は、姿は人間で、鬼神の人並外れた力を持っていて……その力に人としての身体が耐えきれなくて、死ぬことがあるんです。例え見てくれが人間と変わらなくても、中身が違うとなれば話は別です。捨てられたり殺されたり、利用されたり、……いいことなんて、ないでしょう。だから……私と結婚したとしても、子どもは授かれないと予防線を張った方が良いと思っていて」
そう、続けた。
結婚とか、恋愛とか、積極的になれない理由が、私には多い。サイジェントに居た一年、多くの人と出会って分かった。そういうものに、憧れはある。でもそれは、そんな風になれるほどの信頼関係を築くことに対してだ。そもそも、自分の心を開け放って、時として心も、身体も預けてしまうなんて、正直私にはできる気がしないのだ。
そしてそんな私は、きっといつか不和をもたらすのだと思うから。
「……キョウコは子が産めない、と、ワシからもそれとなく言えばいいんじゃな?」
「はい……アメルの力でなんとか、って思われるのも面倒ですし、本当のこと、言ってくださっても構いません。私はまだ戻って日が浅いから……その、私がどういう風に見られてるか、分からないし。話にくくて」
「分かった。じゃが、今話してくれたようなことは伏せておいた方が賢明じゃろうな……皆、悪気はなくともその理屈をアメルにも当てはめるかもしれん。今は聖女の箔付けでなるべく男からは遠ざけられとるが……」
「あ……」
気まずい間が流れた。そうか、アメルが守られているのは、聖女の処女性も理由の中にあるのか。……そりゃあ、そうだ。
彼女に意中の相手がいるとしても、今はろくに話もできないだろうし、私が言った内容が周知されてしまえば、今度は彼女にふさわしい相手が彼女の意思と離れたところで決められてしまうかもしれない。
改めて辺りに人気がないことを念入りに確認しておいてよかったと、私は胸を撫で下ろした。
「じゃあ、やっぱり私は……」
「のう、キョウコや」
ふと、話を切り替えるようにアグラバインさんが言う。
「今は考えられんかもしれん。この先、前向きに考えることはないのかもしれん。しかし、今わざわざ決めつけんでもええ。もし本当にキョウコが子どもが産めん身体じゃったとしても、いつか誰かを好きになり、誰かに好かれることもあるかもしれんじゃろう?」
どこか私に言い聞かせるようでいながら、アグラバインさんの声は何処までも穏やかで、優しかった。
「怖がらんでもええ。ワシもおるし、ロッカやリューグもお前の味方じゃ。のびのびと、キョウコはキョウコのまま、過ごしていいんじゃよ。何も偽る必要はないんじゃ……」
「……はい」
予防線を、張ろうと思っていた。それもできるだけ、たくさん。最初から冷たくされたら、遠巻きにされていたら、仕方がないのだと自分に言い聞かせられると知っているから。それくらいしか、心を守る術を知らないから。
でも、アグラバインさんの言葉と声で、少し肩の力が抜けた気がした。
何も村人全員と仲良くなる必要はないのかもしれない。サイジェントでは皆、目的が一致していたこともあるけれど、肩を寄せ合うようにして過ごしていたから忘れかけていた。
私は、私に出来ることをして過ごせばいいんだ。
「それにしても、キョウコはもうそんな歳になったんじゃな……」
「まだまだ未熟ですが」
「そんなことはありゃせんよ。立派になったもんじゃ」
褒められて、くすぐったい。抜きんでて得意なことは余りないし、上を見ればいくらでも上がいることも分かっている。料理の腕も、裁縫も、戦闘技術も、知識も、ストラだってそうだ。
でも、それが私。それを肯定してくれる人がいるのなら、私はこれからも私でいよう。
2019/03/10 : UP