Umlaut
ゆるしの秘跡 - Talk with you - 04
目を開けると、既に陽は落ちていた。頭がぼうっとする中、のそのそと身体を起こす。隣のベッドからアメルの声が聞こえた。
「起きた?」
「……おはよ」
どうしようもなく心が軽くて、どうしていいか分からない。
ずっと感じていた感覚が、重くて、暗くて……人を、誰かを、強く恨む気持ちだとか、呪うようなものだったことを突きつけられた。それを持ち続けることでしか、私は私を保てなかった。縋って、しがみついて、ようやっとこの世界で息ができる。それがないと、この世界でどうやって生きていけば良いか分からなかった。どんな顔で、どんな気持ちで、誰にも理解されない孤独を抱えながら、いつまでも自分のことを異物扱いするリィンバウムで日々をやり過ごせば良いのか分からなかった。
でも、それはアメルが溶かしてしまった。いや、恨み言は今でも言いたいし、誰かをうらやんで、妬むような気持ちはある。それをそうだと、優しくも圧倒的に認めさせられたのだ。それなのに、どうしようもなくアメルが私の心を理解してくれたことを、心で感じている。だから嬉しい。もう一人じゃないんだって、アメルが私のことを、私の気持ちを理解してくれて、それに寄り添ってくれたことがどうしようもなく嬉しくてたまらない。
まるで産声を上げるように泣きわめいたことを恥ずかしく思うよりも、アメルに受け止めてもらえてほっとした気持ちが強い。
「気分はどう?」
「悪くないよ。頭はぼうっとするけど、気持ちは……すごく、楽なの。アメル、良い気持ちじゃなかったでしょう。ごめんね……でも、ありがとう」
ぽつぽつとそう言うと、アメルがベッドの中で少し笑ったような気がした。
「よかった。キョウコにそう言ってもらえて。ごめんって、それだけ言われたら怒ってた」
「……よかった、怒られなくて」
「ふふ。……お夕飯、キッチンにキョウコの分が残してあるから、食べられそうなら食べて」
「ありがと。先輩達にもまたお礼言わなきゃね」
「ん」
ベッドからもぞもぞと出る。サイドテーブルに置いてあるランプに火を入れていると、アメルがじっとこちらを見上げているのに気づいた。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
「本当かなあ?」
「ふふっ。なんでもない……ことはないかもしれないけど、なんて言っていいか分からないの」
「奇遇ね、私もそう」
アメルの顔は穏やかだった。多分、私もそうだろう。
――ふと、リューグと話がしたいと思った。
「本当にありがとう、アメル」
「……キョウコがそんな風に笑ってくれて、嬉しい」
「どんな?」
「くしゃくしゃで全然取り繕えてない、見てる方が苦しくなるような顔」
なにそれ、と笑おうとして、ふへ、と変な息が漏れた。
「……今までそんな澄ました顔してた?」
「キョウコは我慢するタイプだったでしょ」
言われて、周りからはそう見えていたのか、と思う。実際は、我慢と言うよりもため込んで吐き出すつもりのない気持ちを煮詰めていただけなのだけれど。だって、吐き出したって癒えることはない。消えることもない。それよりも口にすることで、はっきりと形を持ってしまうことが怖かった。私の中にある強い気持ちが、誰かを傷つけるほどに鋭くなるような気がしたから。
私は誤魔化すようにアメルの頭を撫でると、見送られつつそっと部屋を出た。
夜の空気は昼より下がる。勝手の分からないなりにうろうろとしていると、ロッカとかち合った。ラフな格好としている所を見るに、もうそろそろ寝るところなのかも知れない。
「体調はどう?」
「かなり楽。ごめんね、びっくりしたでしょ」
「いや、一応アメルが聖女になってからの『奇跡』は、近くで見たことがあるからね。何度か、泣き崩れている人は見たよ」
「……そう」
アメルの力は、受けた人にしか分からない。そして彼女は、相手の心をも癒やしてしまう。恐らく相手の負った心の傷、もしくは記憶に触れることで。――だとしたらそれはやはり、天使のような能力だ。
ロッカやリューグは、彼女の力を感じたことがあるのだろうか。……アメルによって、彼らのご両親が亡くなってしまった心を、慰められたのだろうか。
流石に聞くことは憚られて、私は曖昧に頷いた。
「アメルのことを思うと、今でも泣きたくなるくらい胸がいっぱいになるの」
「……」
「アメルが私のことを理解してくれたって、心で感じたの。私が感じた気持ちに寄り添ってくれたって。それって心強くて、幸福な事だと思う。でも、同時にどうしようもなく悲しくて、あの子に辛いものを背負わせてしまったんじゃないかって」
単純な喜びではなかった。もっとぐちゃぐちゃしていて、矛盾しているような気持ちが同時に存在していて、どちらを否定することもできない。ありのまま、自分が感じた気持ちを肯定するにはもう少し掛かりそうだ。
「……アメルは、そんなに弱くないかもしれないよ、キョウコ」
「え?」
ロッカの声に意識を彼の方へ向けると、ロッカの穏やかな顔が見えた。
「僕たちがアメルにしてやれることは凄く少なくて、歯がゆさも感じていたけれど……どんな人があの子の前に現れても、あの子の心が挫けたり、迷ったりすることはなかった。目に見える傷も、目に見えない傷も、アメルは気にしなかった。勿論、『聖女の奇跡』は回数を重ねると疲れてしまうようだけれどね」
一年。アメルの力が分かってから癒やし続けた彼女の心。どんなに酷い傷も、どんなに酷い心も、全部包んで癒やしてきたのだと、彼女の力に触れた今、改めてその凄さが分かる。
「私には絶対にできない」
「そうだね。僕にもできそうにない」
それは間違いなくアメルの強さなのだ。
「……そう言われると、ちょっと心が軽くなるわ」
「アメルはキョウコに力を使ったことを後悔してないと思う。だから、キョウコも必要以上に気にしない方がいい」
「そうかな……そっか」
ずっと近くで見ていたロッカが言うのだ。そうなのだろう。短い間だったけれど、アメルの様子を少しだけ見た私でも、彼女が誰かを癒やし続けることを苦にしていないことは分かる。
……うん。アメルが、力を使うことを嫌がっていないのなら。ロッカが言うことはもっともだった。
「ありがとね」
「僕はなにもしてないよ。……そういえば、キョウコは何か食べに起きてきたのかい?」
「まあそんなところ。アメルに、私に分がキッチンにあるって教えてもらったから」
「そうか。誰かがつまみ食いしないうちに、早めに行くのをおすすめするよ」
「分かった」
つまみ食い。軽い調子で言われた言葉に目を丸くして、私はふふ、と笑った。誰かはともかく、食いっぱぐれるのは勘弁願いたい。
ロッカと分かれてキッチンへお邪魔すると、確かに私の分らしい食事が残されていた。それも、食べやすいようにか、サンドイッチになって綺麗に置いてある。
ありがたくそれを頂戴することにして、私は一緒に置かれていたミルクを温めた。
明かりを落とした邸内で、他人様のキッチンでこっそりと食べるのもな、とぼんやり思う。かと言って応接室や客室に持って行くのも憚られる。
迷った末、私は少しだけ邸内をうろついて、二階のバルコニーへとたどり着いたのだった。
月が二つ、寄り添うようにして空に浮かんでいる。
私の居た世界では見られない夜空。今ではもう違和感を覚えることもない。ただ、決定的にここが私が生まれた世界ではないことを示すだけだ。
夜の空気は少し肌寒い。その感覚が、心に入り込んで気持ちまでかき混ぜてくる。
そんな晩はいくらでもあった。一人で硬いベッドの中で、薄い布団にくるまって、耐えるように過ごした。気分の落ち込む事なんていくらでもあった。
でも、今はそんな気持ちが遠くに感じられる。アメルのおかげだろう。ほんの少しだけ、私とこの世界の距離が縮まった気がした。
バルコニーに設置されたテーブルと椅子を拝借して、腰を落ち着ける。その向こうに、リューグが立っていた。
じっと私の挙動を見ていたかと思うと、私が席に着いたタイミングで、は、と息をつく。
「起きたのか。……ったく、ぐーすか寝やがって。もう夜だぜ」
「おはよう。おかげさまでご飯にありつく程度には元気よ」
サンドイッチにかぶりつき、中に挟んであった野菜とお肉の食感を味わってみせる。リューグは肩をすくめることも、相づちを打つこともなかった。少し厳しい顔のまま、じっと私を見据える。
「ごめんね、中途半端なところで寝ちゃって」
「……。いや」
リューグの口元がなにか言いたそうな気がした。でも、食べながら待っていても彼の口元が緩むことはなかった。
「あのあと……これからどうするのか、何か決まった?」
「一応な。あてがない以上暫くここを拠点にすることになった」
そうなれば、私がすることは決まった。
「じゃあ、私はここを離れることにするわ。アグラバインさんも探したいし」
「……アメルたちはいいのかよ」
「大丈夫よ。私が一緒にいる方が面倒なことになるはずだから」
「無色の派閥絡みだろうが、相手が分かればやりやすくなるだけだろ」
それだけじゃない。言おうとしたものの、リューグの言葉が途切れることはなかった。
「迷惑だとか自分が邪魔だとか言ってよ……そんな滑りのいいことばっかり言いやがって、結局テメエは誰も信用してねえんだろうが?」
「っ……それ、は」
「そうやってテメエは周りのヤツを傷つけてきたんだよ」
リューグの言葉に、立つ瀬も無かった。
自分の経験ばかり振り返って、それを他の全ての人に当てはめて、私は、わたし、は
「……そうね、その通りだわ」
壁でも、溝でもいい。一線を引いていた。もう傷つくのは嫌だった。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるようなことも嫌だった。遠慮のない悪意に晒されるのも。
人間として当然持っているはずの自尊心をえぐり取られていく苦痛。そんなものを味わうくらいなら、そうならないように逃げるようにでも立ちまわったほうがいいと。
誰も味方になってくれなくてよかった。誰にも近づきたくなかった。全てを諦めてしまいたかった。
リューグみたいに、輪を乱してでもまっすぐでいられるほどの強さは、私には無い。
でも、アメルに抱きしめてもらって……真っ直ぐに言葉をくれるリューグには、誠実に向かい合いたいと思えた。
「まだ言ってないこと、言ってもいい?」
「言いたいことがあるなら言えって言ったろ」
リューグの声色は怒っているような、優しいような、言い聞かせるような響きがあった。じわり、と視界が歪んで、息を詰めた。
今、辛いのは私じゃない。それに、泣いて何かが変わるわけじゃない。
涙は気持ちを楽にしてしまう。だから、成すべきを為すなら、耐えろ、と、教わったのは、今はもう昔の話。
服の袖で溢れかけた涙をふくと、私は気持ちを切り替えるように下がりつつあった思考を切った。
「私のいのちが欲しいのは、無色の派閥だけじゃないの。ううん……私を狙っているとしたら、蒼の派閥の方かもね」
「……どういうことだ?」
眉をひそめたリューグに、一度胸に手を当てて深呼吸をしてから答える。
「私みたいな得体の知れないはぐれ召喚獣なんて、何か起こる前にさっさと殺した方が安全だっていう立場の人間もいるのよ」
下手に生かしておけばいつか本当に私自身が災厄となって害をもたらすかも知れない。そういう話。
「なんだ、それ」
リューグから怒気を感じる。憤ってくれるんだ。嬉しかった。
「はぐれ召喚獣は危ない存在なのよ。……私だってあの事故を起こしたときは、あとのことなんて、どうでもよかったんだから」
ただ必死だった。なにか余計なことを考えているような余裕もなかった。自分がやろうとしたことがどんなに自分本意かだとか、あのときの私にはまるで関係なかった。
あの瞬間、私はありとあらゆる思考から遮断された空間にいた。
生きるか死ぬか。殺されるか、殺すか。
追い込んだ方が悪いと言ってくれる人もいるだろう。でも、それでも私が決めて、私がやったことだ。
そんな私が危険じゃないなんて、私でさえ言うことは出来ない。
「結局お上の判断で生かされているし、蒼の派閥の召喚師として存在はしているけど……一人前になった以上、『不慮の事故』で死ぬことはあるでしょう。むしろ本部から出たことで、いのちを奪うことは容易になったはずよ」
幸い、そこまで力を入れてないのか、今私は生きているけれど。
「だからここに長くいると、そっちから狙われて死ぬ可能性が高いの。アメル達と一緒にいると、誰かが人質になったりするかもしれないし、隙が大きくなっちゃうから」
「なるほどな」
得心がいった、というようにリューグが頷いた。一瞬膨れ上がった怒気は、もうない。
「なら、俺はお前についてくことにするぜ」
「……え?」
「バカ兄貴とは意見が割れたのさ。トリスはあっち寄りだったからな。俺がいてもできることなんざねえからな」
「でも、じゃあ、アメルは?」
「何かある度にバカ兄貴とやりあっていい気はしねえだろ」
それは、そうだけど。
だったらリューグの気持ちはどうなるの。
まさか、アメルを守ることよりもやり返すことを優先するっていうの?
「俺は今のところ相手が分かりやすい。統率が取れてる黒ずくめの奴らだ。でも、お前はどうだ? 単独行動するったって黒ずくめの連中と派閥側の奴ら、両方を相手取るのは厳しいだろ。まさか本当に死ぬ気じゃねえだろうな?」
「それはない、けど……」
むしろ、もし本当にいのちを狙われたとして、殺されるくらいなら殺すつもりでいる。
「リューグにとって敵対する必要の無い相手が増えるのに?」
「黒ずくめの連中とやり合うためには……もっと実践経験が要る。それに、お互い邪魔にはならねえだろ」
それでも躊躇いはある。リューグは強い。でも、だからといって危険にさらして良い理由にはならない。
私はリューグの気持ちを推し量ることはできる。大切なものを奪われた。居場所も、それまでも、これからも、なにもかも全部だ。
恨むなと言う方が土台無理な話だ。私だってそうだった。
けれどそれでも誰かを殺すと決めたその姿に、彼を支持することはできそうになかった。
私が物言いたげにしていたのが分かったのだろう、リューグは再び口を開いた。
「そりゃあ、誰も彼もがお人好しなわけじゃねえだろうさ。テメエの都合で、手を差し伸べることだって、ある。けどよ……だからこそそんな手は、握っちまっていいんじゃねえのか?」
「え……?」
「お互いが得をすんのなら、人が見せた好意ってヤツに乗っかるのも悪くねえって話だよ……とはいえ、アメルみてえなヤツも、世の中には結構いるみてえだがな……」
トリスのことか。確かに、彼女はアメルと似ていて、なんとなく、人を安心させてくれるような人だ。フラットな目線を持っているからだろうか。はぐれと分かっている私にも、普通に接してくれていたし。
「リューグのそれは好意なんだ?」
「あ? 利害の一致だけでいいのかよ?」
リューグが肩をすくめる。
「ううん、ありがと。よろしく」
顔を合わせると、自然と手が互いのそれを握る。固いリューグの手に、私の手が収まる。
この関係をなんと呼ぶのだろう。
分からないけれど、なんだか力が抜ける。恵まれていると思った。だからこそ、リューグが人を殺めることがあってはならないと強く感じる。
その時は、私が。
籠もった気持ちのまま手に力を込めると、私の心を知ってか知らずか、リューグがくつりと笑った。
辺りが白み始める頃、私はリューグと共に発つことにした。示し合わせたわけではないけれど、まだ暗い中準備をし始めているお互いに少し笑みがこぼれた。こんな時ばかり、通じ合わなくても良いのに。
その後は朝の鍛錬のためか、起きてきたトリスとかち合った。
「行くの?」
「……お茶はもう少しお預けになるわね」
「うん……」
名残惜しそうなトリスに、いろんなものを託すことを詫びる。
アメルのこと、無責任にも見えるかもしれない。でも、彼女はそれを私から彼女たちへ対する信頼だと受け取ってくれたようだった。
「絶対に生きて会いましょう」
いつになく真剣なまなざしに吸い込まれそうになりながらその言葉に頷いた。
「……」
「リューグ?」
ぴん、と器用にリューグが指先で弾いたのは、私が渡した指輪だった。
「わ、」
トリスが慌てたようにそれを受け止める。
「アメルに渡しといてくれ。別にアンタが使っても良いけどな」
「これは……」
「餞別ってわけでもねえがな。アメルの前で辛気くさい面はやめとけよ」
リューグが目配せをしてくる。それに頷くと、私たちは歩き出した。
「また会うんだから構わねえだろう」
「もちろん」
私がリューグへ渡したときの気持ちに、リューグの気持ちがのせられた指輪。きっと彼らを守ってくれるはずだ。少なくともアメルにとって心の支えになると、自惚れるくらいはしてもいいだろう。
街のなかに見える黒い衣服に注意しながら、私たちは行商人に紛れるようにしてゼラムを後にした。
2022/03/20 : UP