錯綜バイオレット

03: クリティカルヒット

 ああ、ホントについてない。
 今日は朝から調子が悪かった。女子特有の腹痛で気分は最悪だったし、やる気が低い所為で授業も決闘も振るわなかった。そんなときに限って先生から指名されるし。挙句の果てには体育の授業でやってた野球で流れ弾をくらって気絶。今は保健室で横になっているところだ。
 悪い事は重なると言うけれど、何もここまで重ならなくたっていいと思う。
小鳥遊さん、具合はどう?」
「鮎川先生」
 保健室の居心地は抜群にいい。ベッドも柔らかいし、窓から入ってくる日差しも、外に木が植えてあるおかげでとても優しい。
 この学園の設備でもって検査した結果、幸いにも頭に異常はないらしい。軽い脳震盪だそうだ。目が覚めたのがすでに最終授業時間だったので、腹痛もあって休ませてもらっていた。
「まだ痛みますけど、かなり楽になりました」
「そう。気分がいいならいつでも出ていって構わないけど、まだいきなり動いたり、はしゃいじゃ駄目よ」
「はぁい」
 なんだかんだで居心地も良く放課後まで居座っていたのだけれど、さすがに保健室で夜を過ごすわけにもいかないのでゆっくりと起き上がった。昼一番の授業が体育だったからかなりの時間保健室でぬくぬくとしていたことになる。体育の後の授業は数学だったはずだ。……ノート、誰に借りようかなぁ。
 ぼんやりしながら、まだ僅かに響く腹痛に顔がゆがんだ。誰もいない中庭のベンチに腰掛けて、一息つく。激しい運動はもちろん、あまりはしゃがないように言われたけど、この調子だと幸か不幸かそれは意識せずとも出来なさそうだ。
 しばらくそこで座ったままいると、一人で廊下を歩く万丈目君を見つけた。彼を見かけるときは大抵の場合一人だ。たまに先生と話しているところを見かけたりもするけれど特定の生徒といる姿を見たことがない。
 こっちに気付いてくれたら手を振ろう。自分から声を掛ける元気は、残念ながら、ない。ゆるく息を吐いて、痛み止めでも貰えばよかったと少々後悔した次の瞬間、私は頭に衝撃を受けて前のめりになった。バシャア!という音が後から追いかけてくる。ずぶぬれだった。
「うわっ!悪ィ!大丈夫かーッ!?」
 わざとじゃねーんだー!という弁明の声に振り向き上を仰ぎ見ると、オシリス・レッドの男子生徒がこっちを見ていた。
小鳥遊さんじゃん!ホント悪い」
 すまなさそうにしている様子を見るに原因は彼のようだ。何となく雑巾臭い。掃除の後片付けで横着をして、あそこから水を捨てたんだろう。誰もいないと思ったら真下に私がいたというわけだ。
「体育の時怪我したんだろ?」
「検査で異常はなかったから大丈夫だよ。今から更衣室で着替えようと思ってたところだったし、気にしないで」
 一階と二階でやり取りをする。気にしてない風に手を振ると、今度何かおごるから、と声が降ってきた。楽しみにしてるね、と返すと、男子生徒は手を振り返して走って行った。
 濡れてしまったことは、気分はどん底だけれど、仕方がない。もう済んでしまったことだし。驚いたせいかお腹の痛みが重くなったけど、さっさと着替えてしまわないと万が一風邪でも引いたら笑えない。……今ももうすでに笑えないけど。温暖な気候に恵まれるとはいえ、油断は禁物だ。
「災難だったな」
「え?」
 落ち着いた声に振り替えると、なにか大きくて温かいものに包まれた。私とは違う匂い。
「ま、万丈目くん」
 彼の匂いだった。青い上着が私を包んでいる。前のボタンも止められて、微妙に動きづらい。けれど私よりもはるかに大きな上着を実感して、彼シャツ、なんていう言葉が浮かんでしまって、変な気持ちになった。
「よ、汚れてるからだめだよ」
「遅い。それに、その格好で歩きまわるわけにもいかないだろう」
 彼の言うことはもっともだ。体操服姿で濡れている今は下着も透けて見えてしまう。いや、そんな誇れるスタイルではないのだけどそこは年頃ゆえの羞恥心と言うかなんというか。とにかく正論なのだけれど、私とは違う上着の匂いにこれが彼の匂いなんだと脳にインプットしてしまったり、その上着にくるまれているのだと思うととても落ち着かない。しかも万丈目くんは今上着を着てない訳で、胸板とか、腰とか、普段は見えないところばかりについつい目が行ってしまう。これじゃ変態だよ!
「……あり、ありがとう。洗って返すね」
「……。頭を打ったと聞いたが、具合は良いのか」
「鮎川先生は、しばらく運動も決闘もするなって。でもそれ以外は大丈夫みたい」
「そうか」
 彼の口元が緩む。細められた双眸は優しくて、たしかにほほ笑んでいるように見えた。ただ、それが私の希望的観測でしかなく、実際は違うと言われるとそうなんだろうと思えるほどのか細い表情だったけれど。
「どうして万丈目くんがそのこと知ってるの?」
「十代が騒いでいた」
 嫌でも耳に入る、と万丈目くんは肩をすくめた。十代は歩く拡声器みたいなものだからきっといろんな人の耳に入っているのだろう。
 私は苦笑してから万丈目くんの上着に腕を通した。そこまで伸びる生地ではないのに、前を閉めた状態で余裕で動けるなんてやっぱり万丈目君は大きいのだなと実感する。
「そうだ。万丈目くんのクラスって、数学、どこまで進んでるの?確か教科書一緒だったよね?」
「ブルーの方がレッドより進み具合は早かったはずだ。習う単元も異なってると思うが」
「……あの、お世話ついでにノート借りてもいいかな。私、今日の数学出られなくて」
 見上げると彼はすこし考えるように口元に手を添えた。様になるなぁ、なんて思っていると、その口から思いもよらない言葉が飛び出した。
「今からなら、夕食の時間まで教えられる」
「ヘッ?あ、あの、でも私、着替えついでにお風呂に入ろうかと……さすがに臭いままご飯は嫌だし……」
「長くないなら待てる」
「……いいの?」
「悪いならわざわざ言い出したりはしない。それともオレでは不満か?」
「滅相もございません!えと、じゃぁ今から出来るだけ早く支度するね。どこに行けばいいかな」
「ラウンジで席を取っておく」
「分かった」
 いつの間にか引いた腹痛に内心ガッツポーズをして、私は急いで更衣室へ向かった。嫌なことが重なった日だと思ったけれど、いつも以上にラッキーな日なのかもしれない。ゲンキンだ。でも嬉しくて仕方がない。
 走ると頭に響くから早歩きで移動する。怪しいことこの上ないけれど、万丈目くんの上着を着てることもあって何となく恥ずかしい気持ちになる。彼の、と言うだけじゃなくて、オシリス・レッドの私がオベリスク・ブルーを着ていることへの恥ずかしさだ。
 ロッカーを開けて制服を掴むと寮へ急ぐ。寮監に事情を説明してお風呂を早々に開けてもらった。オシリス・レッドの生徒は問題児が多いから理不尽に怒られることも多々あるけれど、今回は万丈目くんの上着もあったからか、すんなりと聞き入れてもらえた。
 部屋に戻って着替えを掴み、お風呂へ行ってやるべきことを済ませてすぐに出る。近年まれにみる速さだった。タイムアタックをすればかなりいい記録が出そうだ。
 髪を乾かす時間すら惜しく、私はバスタオルで絞れるだけの水気を搾り取ると後は手櫛で整えた。身支度もそこそこに教科書とノート、筆記用具を引っ掴んで寮を出る。
 ラウンジには大きなテレビのほか、ソファや机が置いてあっていわゆる談話室のような部屋になっている。腰を落ち着けるにはうってつけの場所だ。扉をあけて入口付近から視線を移すと、万丈目くんは一番奥の席に座っていた。
「ごめん、おまたせ」
 席に寄っていくと万丈目くんがこっちを見た。少し目を見開いている様子が珍しくて、私もじっと見つめてしまう。
「ちゃんと乾かせ。風邪を引いても知らないぞ」
 怒られた。そうだ、元々風邪をひかないようにって思っていたのに。曖昧に笑うと、万丈目くんはここぞとばかりにため息をひとつついた。同時に組んでいた腕がほどかれる。その動きを目で追うと、彼は正方形の机の辺に一つずつ置かれた椅子の一つを自分の側に引き寄せた。そして自分がかけている椅子を少し横へずらす。私は少し迷って、彼が用意した椅子に腰掛けた。腕が当たる。それだけで勉強どころではなくなってしまいそうなんだけれど、幸いにもこうして座る目的があるおかげで何とか平静を保つことが出来た。
「これがノートだ」
 ス、と私の前に出されたノートには彼の名前が書かれていた。連絡先を教えてもらった時の字と同じ筆跡だ。ありがとう、と言いながらページをめくる。分かりやすくまとめてある中身が飛び込んできた。公式のメモが僅かに色ペンで書いてあるのみで、練習問題のページはひたすら数式が書いてあった。綺麗に書かれたノートはぱっと見るだけで何となく頭の良さを感じさせるほどの説得力に満ちている。
 出来る人は何でもできるんだなぁとただただ圧倒されていると、万丈目くんの頭が揺れた。
「前の授業ではどこまで進んでいたんだ」
「あ、ええとね……」
 教科書をパラパラとめくると、万丈目くんがわずかにこちらの方へ身を乗り出してくる。教科書を覗きこむようにしているのは分かるのだけれど、ちょっと距離が近い。三沢くんと頭を突き合わせていた時は何とも思わなかったのに。
 動揺を悟られまいと私は目当てのページを開いて、机の上、彼と私の中間の位置に置いた。彼の目線は教科書の上に落ちている。
 大丈夫。大丈夫。
「ここか、なら――……」
 彼の薄い唇が動くのをじっと見る。どの距離から見てもかっこいいな、と浮かれたことを思っていると、ふと彼がこっちを向いた。
「聞いてるのか」
「スミマセンスイッチ切れてました」
 ウウッと呻く。ドキドキするのはしているけれど、今はどちらかと言うといけないことがバレた時のようなドキドキ感だ。それにまた怒られるかなとハラハラまで混じったタイミングで万丈目くんの眉がひそめられた。
「まだ本調子じゃないんじゃないか」
 それが心配から来る表情だと分かった瞬間腹痛が戻ってきて、私の眉も寄ってしまった。
「や、頭の方は間違いなく問題ないんだけど、今日はちょっと、元々調子というか気分が良くなかったというか……」
 素直に白状すると万丈目くんはそれはそれは大きなため息をひとつ。ぐさりとお腹に刺さるようなそれに、私は身が縮まる思いがした。否、多分、実際のところ物理的に縮んだ。
「もっと早くに言え」
「……ごめんね、あの、万丈目くんが教えてくれるって言ってくれた時、すごく嬉しくてつい……。その時はいろいろ忘れるくらい元気になっちゃったと言うか……」
 乾いた笑いをこぼすと、万丈目くんは見るからに不機嫌だと分かる顔を急に緩めた。
「まあ、言葉通り受け取っておこう」
「ほ、本当だよ!」
「信じてほしいと言うのなら、今度からは正直に言って、無理をしないことだ」
 腕組みをしながら万丈目くんが言う。
「……また教えてくれるの?いいの?」
「嫌なら構わ」
「お願いいたします」
 彼の言葉をさえぎって身を乗り出すと、彼は緩く息を吐いた。
「今日は無理なくやれるか」
「うん。あのね、無理はしてないんだよ、ちょっとその、浮き沈みがあるだけで」
 今度こそちゃんと笑顔で答えると、私たちはまた顔を寄せあって、机の上のノートと教科書に目を落とした。


 万丈目くんはとても教え上手だった。さすがに先生よりは言葉も厳しいけれど、先生が言っていたであろうテストに出そうなポイントは必ずチェックしているし、それを的確に教えてくれた。数学の場合ポイントさえ分かれば後はひたすら数式を解いて慣れるだけだ。現国の漢字を書いて覚えるようなもの。その上彼自身の理解力から来る説明の数々も彼のノートと同じく説得力に満ちていて、私は気付けば一生懸命問題を解いていた。
 教えられるまま教科書のページが進むのは楽しくて、分からないことがあればすぐにでも聞いたし、間違えた問題があればどこで間違えたのか知ることが出来た。ひたすら新しい公式を教えてもらって問題を解くだけの時間が過ぎて行った。キリのいいところまで終わると、私は一度シャーペンを置いて、大きく伸びを。
「まあ、こんなものだろう」
「ありがとう、助かったよ」
「これでオベリスク・ブルーのクラスと同じページまで進んだ」
「ヘッ」
 万丈目くんの言葉にぎょっとして彼を見ると、彼はとても楽しそうに顔をゆがめた。
「気付かなかったか?ならオベリスク・ブルーでも十分やっていけるぞ」
 言われて、私は滅相もないと首を振る。
「万丈目くんの教え方が上手だからだよ」
「いや、出来る。オマエも早くこっちに来い」
 くすりと万丈目くんが笑う。
「私には難しいと思うけどなァ……。でも通常授業はオベリスク・ブルーの方がいろんなことやれるから楽しそうだね」
「決闘の成績さえ上げれば問題ないだろうな。心配するな」
 何とかしろ、と言う彼に、がんばるよ、と笑い返した。
 アドバイスをもらってから、私は決闘時の意識を改めた。
 今までは不安で仕方ない気持ちでドローしていたけれど、最近では少しの期待を持ってできるようになった。このまま続けて結果が出てくるようになれば来年にでもラー・イエローくらいには上がれるかもしれない。まだ点数をあげるには十分な期間があるし、筆記も問題ないし。
 万丈目くんと肩を並べての授業は素敵だけれど、今の私にはまだまだ遠い。元々オベリスク・ブルーは中等部の成績優良者が入るクラスだ。二年生以降に昇格はあっても、私にはまだ考えもつかない、雲の上のような場所。
 そんなところに異例の編入を果たした万丈目くんに、まさかノートを貸してもらうだけじゃなく勉強まで見てもらえるとは。上着も借りたし、連絡先も知ってるし、多分彼に追いかけまわされたのなんて私くらいだろう。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「なんだ」
「ううん。なんでもない」
 とても不思議だ。憧れ続けた男の子にこんな風に相手をしてもらえるなんて。しかもたった今、激励の言葉までもらってしまった。頑張らない理由が、ない。
 ふん、と鼻息荒くやる気も新たにしたところで、
 ぐぅ
「あ」
 お腹が鳴ってしまって、彼に盛大に笑われてしまった。彼がくつくつと笑う珍しいところを見ることが出来たのだけれど……やっぱり、今日はついてないのかもしれない。

2010/06/16 : UP

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