錯綜バイオレット

04: 今に追い付く昔

 心地いい風が吹いている。私は制服の上着を脱ぐと、木漏れ日の注ぐ木々の下に寝そべった。保健室の裏手にあるこの場所に生徒の姿はない。ちょうど木の幹の影が顔にかかるように位置を調節して、スカートの上に上着を被せた。これで準備万端だ。
 ことの発端は昨夜の夜更かしにある。少し寝不足気味だったのも手伝って、昼寝したくなる天気だね、とつぶやいたのだ。先の授業中に大爆睡して響先生に怒りの鉄槌をくらった十代を見て、今日ばかりは仕方ない位いい天気だったから、思わず。すると十代があまりにもあっさりと
「じゃあ、昼寝すりゃいいじゃん」
 というものだから、それもそうかとお昼休みをそのまま昼寝に充てることにしたのだ。鮎川先生からもまだ大事を取って安静にしていろと言われているし、丁度いい。
 日差しそのものも強くないし、そよ風も冷たくない。私は草のチクチクした感じを楽しみながら、そっと目を閉じた。静かだけれど小鳥のさえずりや木の葉が揺れる音が耳に優しい。私はそのままゆったりと意識を手放した。


 ――人の気配がする。草を踏む音。とてもゆるやかな足取り。私の側で止まり、しばらくしてその人が屈みこんだ空気を感じた。
小鳥遊
 落ち着いた声。私の大好きな声だ。心地よさに拍車がかかる。顔のすぐそばに暖かい物を感じてすり寄ると、彼の臭いがした。
 少し目を開けると、思った通り青色が視界いっぱいに広がっていた。
小鳥遊
 優しい声が上から降ってくる。
「んー……」
 まどろむ、というのは正に今この時を言うんだろう。ふわふわとしていて、目を開けているのが難しい。手探りで彼の手に自分の手を重ねた。大きな手だった。暖かい。
「……
 わずかに笑みを含んだ声を拾う。昔に戻った気がした。夢を見ているのかもしれない。とても、とても優しい声だ。
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
「――……も、ちょっ……、と」
 ちゃんと起きるからまだこの心地いい時間を味わっていたい。身を丸めると、ゆるく肩を叩かれる。

 ダメだよ、起きなきゃ。そんなかわいらしい声が聞こえた。
「……準くん、起こして……」
 起こしてるよ。ちゃんが起きないんだよ。くすくすと愛らしい笑い声がする。だって、気持ちいいんだもん。もう、しょうがないなあ、あと少しだけだよ。うん、ちゃんと起きるよ。ゼッタイだよ。うん。頷きながら、私はまた意識を手放していた。


「――……」
 爽やかな風に吹かれながら目を開けた。草が頬に当たってくすぐったい。その草の先に人の手があった。袖口の色は青。そしてそのままたどっていくと、そのさらに先で私の良く知る後ろ姿を見た。腰を落ち着けていて座っているけれど、上半身は起こしたままだから遠いような、近いような不思議な後ろ姿だった。
「!?まんじょめ、く」
 がばりと勢いよく起き上がると、彼は私を見てその口元を緩めた。
「起きたか」
「……おかげさまで眠気も吹き飛びました」
 恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う。熱い。とても熱い。今日は過ごしやすい日のはずなのに、急に汗が出てきた。
「い、いつからいたの?」
「十分ほど前だな」
「じゅ!?」
「直に予鈴が鳴る。さっき起こした時寝ぼけていただろう」
「……覚えてます……夢かと思ってた……」
 まさか、まさかあの、あれが、夢じゃなかったなんて!え、じゃぁあの小さい頃の万丈目くんの声は幻聴?やばい、夢と現実の境目がどこかすら分かんない。私いよいよ危ない人の仲間入り?
 うんうん唸っていると、万丈目くんはすっくと立ち上がった。自然と彼は私を見降ろし、私は彼を見上げる形になる。
「二度寝するなよ、
 フン、と若干鼻で笑われたけれど、私の意識を奪ったのは、風になびく彼の青い上着でもなく、彼が意地悪じゃなく、悪戯っぽく笑っていたことでもなく、ただ一つの単語だった。
「ッ……ち、ちゃんと起きたよ、準くんが起こしてくれたから!」
 彼はやっぱり振り向くこともなく行ってしまったけれど、私が彼の名前を口にした瞬間、じわりと胸の内から熱が沁み出した。彼との距離が一気に近くなったような――……否、近くなったのではなく、昔の頃の距離まで戻ってきたと言うべきか。
 嬉しくなって勢いよく立ち上がる。豪快に上着を着ると、私は午後の授業を受けるために教室へと駆け出した。
 名前を呼ぶだけでこんなにも暖かくなれるなんて知らなかった。じわじわと何かが満たされていく気さえする。私ばかりがこんなことでいいんだろうか。幸せで頬が緩む。脳裏に、あの輝いていた頃の笑顔がよぎった。私が何か、彼に出来ることはないだろうか。



「――ということがあったの!」
「ふぅん」
 放課後。私はラー・イエローの柚月の部屋まで遊びに来ていた。万丈目……準くんについて何かあると報告するのが常になっていた。誰に強制されたわけでも、柚月に強請られたわけでもないのだけれど、柚月は話を聞いてくれるし、口が堅いし、何よりあまり他人事に対して首を突っ込んでいくタイプではないのでついつい私の口が軽くなるのだ。基本的におせっかいなことは一切しないし、本人は面倒くさいだけだと言うのだけれど私はそんなところにとても助けられている。気負う必要を感じさせないから大好きなのだ。
「良かったわね」
「うん!」
「私もまあ、それなりに嬉しいわ」
 思わずこぼれてしまった、という風な笑みを浮かべて柚月は肩をすくめた。
「今じゃなくて数年前の彼、なんてこの世にいないのとほとんど同じだし」
「……うん」
「こっちとしても同じ過去の話の繰り返しより、新しい話の方が飽きないしねェ」
 柚月らしい言葉に、私は笑った。返す言葉もない。
「万丈目がそんなに世話焼きだったのには驚きだわ」
「でしょー!でも、昔も優しかったもん。今でもそういうところは変わってないってことだよ」
 自信満々に、かつ自慢げに言うと、柚月は机に頬杖をついて、そうかしら、と私が思いもしない言葉を口にした。
がアイツにとって特別なんじゃないの。側に置いておきたいのよ」
「エエ!?」
 その言い方ではまるで彼が私を、その、恋愛とか、色恋的な意味で好きみたいだ。ははは。まさか。
 あんまりにも考え付かないことを言われて、私はすぐにそれを一蹴した。けれど柚月は続けた。
「そういう気持ち、良く分かるもの」
「どういうこと?」
「純粋に自分を慕って、ちぎれそうなくらい尻尾振って向かってくる犬って可愛いじゃない」
「……つまり私は犬だと」
「あら、ほめてるのよ?」
 くすっと柚月が笑う。取り敢えず拗ねるアピールとしてわざとらしく頬を膨らませると、すぐに突かれてしまった。
「だってアイツ、基本的に他人とつるんだりしないじゃない。ブルーの中には陰口叩いたりすり寄る奴らもいるみたいだし、気苦労が絶えないんだろうと思うわよ。いっつも張りつめた顔してさ。気を許せる相手がほしいのよ。癒しもね」
 そう言って柚月はお茶をすする。そうなのかなぁと呟けば、アイツも人の子ってことね、なんて酷い言葉を返された。
 確かに彼は他人と距離を置いているように思う。かといって本当は皆の輪に加わりたくて仕方ない、という風にもまったく見えないけれど――柚月の言うとおりだったら良いと思う。私ばっかり励まされて、たくさん温かい気持ちになっているなんてなんだか申し訳ない。実際気持ちの面だけじゃなくてかなりお世話になっているのだし。あの昔の約束と笑顔ではなくて、今の彼の行動や言動に。
「で、は今の万丈目が好きってことでいいのよね?」
「へ?あ、うん。多分」
 言うと、柚月は肩透かしを食らったようにうなだれた。
柚月?」
「……。まあ、いいわ。せっかくだし、このまましばらく甘やかされてなさいよ。向こうだって嫌々やってるわけじゃなさそうだし」
 すっかり気力のなくなったように机に突っ伏した柚月に、そうはいかないと私はやる気を出した。
「そう!そうなの!お世話になってばかりじゃ悪いでしょ。だから何かお返しがしたいんだけど……何がいいのかなぁ。勉強も決闘も準くんの方がすごいし、お金持ちだから下手な物は贈れそうもないし……」
「大事なのは気持ちでしょ」
「気持ち?」
「プレゼントは私、とかやればいいじゃない」
「――~~っ!もーッ!ちゃんと聞いてよォ!」
 ぐったりとやる気のないまま投下された爆弾発言に私は顔を真っ赤にして怒った。効果がないなんて百も承知だ。それでもやらねばならぬ時と言うものがある。今がまさにそうなのだ。
「ちゃんと聞いてるわよ。んー、だからさぁ、つまり、契約っていうか、『肩たたき券』みたいなものよ。何でも好きなことしてあげるっていう。……アイツはそういうの嫌がりそうだけどね。お礼のキスとかのほうが、喜びそう」
「……柚月に聞いた私が馬鹿だったってことか」
「あら、私、真面目に言ってるんだけど」
「なら余計にそうだよ。私、そんな、き、キスなんて、できないもん」
 今まで一度もしたことはないし、されたことだってない。全く想像もつかない。しかも相手は準くんだ。男の子なのだ。いわゆる世間一般で言う恋人、なんて間柄なら、まだ覚悟も決まったかもしれない。でも、私たちは断じてそんな関係ではないのだ。
「飽くまでも、一番いいと思う方法がそれだって言ったのよ。が気持ちを込めてお礼をするんなら、どんなに他人が下らないと思うようなことでも、きっと喜んでくれるわ」
「……ちゃんと、込めた気持ちを酌んでもらえたら、ね」
 月並みな言葉でも言っていることは分かるし、その通りだと思う。でも、たくさんお礼がしたいのだ。たくさんのありがとうの気持ちを分かってほしいのだ。彼が埋まってしまう位一杯の花で彼の部屋をいっぱいにしたりとか、そのくらいはしたい。彼が迷惑がってしまうほど私の気持ちは大きいのだ。
 それを如何にして、彼が不愉快にならないように知ってもらえばいいのか。あるいは、伝えたらいいのか。そこが問題で重要なのだ。
 うぬぬ、と唸っていると、柚月がため息をついた。
「今メールしてみなさいよ。本人に聞くのが手っ取り早いわ」
「えー……」
「大体、この学園でアイツのことよく知ってる人間なんていないじゃない」
「そりゃ、そうだけど」
 メール。会おうと思えば毎日会えるし、実はさほど使っていない。いつも他愛のない事を書いてみるのだけれど、いざ送る段階になるとつまらない事のように思えて消してしまう。
 上着を返す時にお礼を、と思ってまだ返せていないからそれに絡めれば上手く聞けるかもしれない。彼の上着は私の部屋に大切に洗って干して、たたんである。
 私は柚月の後押しも手伝って、メールを作成することにした。
『こんにちは。上着を返したいんだけど、都合のいい日を教えてください』
 取り敢えず打ち込んでみた内容を見返して、これじゃぁ今すぐって言われたらどうしようかと顔をしかめた。
「どう書けばいいかなぁ」
「用件を率直に書いておきなさいよ」
「うーん……」
 迷って、とにかくメールは送信してしまうことにした。ああでもないこうでもないと考えているうちに遅くなってしまってはいけないし。特に深く考えないままでいると、急にけたたましい音で携帯が鳴り響いた。前にもこんなことがあったっけと頭の片隅で思っていると、柚月と目があった。
「早く出なさい」
「う、うん」
 ディスプレイに表示されているのは『万丈目準』の文字だ。僅かに緊張しながら通話ボタンを押して、携帯を耳にあてた。
「もしもし」
『上着のことならいつでも構わん。今からでもいい』
 予期していたとはいえ、あまりそうなってほしくないなぁと思っていたことをそのまま言われて、私はさっきまで考えていたことが全部吹き飛んでしまった。
「あっ、あの、あのね、あの」
『落ち着け』
 言わなきゃ、と気が急いてしまってしどろもどろになっていると、携帯の向こうで彼が笑った。
「……あのね、それで、お礼がしたいんだけど、ま、ん……準くんがどういうものを喜んでくれるか分からなくて、その」
 内心でうまくしゃべれない自分を情けなく思う。彼は、準くんは少し黙っていたけれど、私にはその時間がとても長く感じられた。
『オレがしてほしい事を、オレが言えば、してくれるのか』
「うん」
 迷うような彼の言葉に私は反射的に返事をしていた。すると彼はまた黙って、それから
『お前と闘いたい』
「……え?」
『今すぐにとは言わない。オマエが、が自分のデッキに自信を持って、俺に勝てると思う程の気持ちが持てたら、オレはその時のオマエと決闘がしたい。……昔みたいに』
 静かな中にも彼の強い想いがある気がした。否、きっとあるのだ。
 こくりと、咽喉が鳴った。気付けば神妙に正座なんてしていたくらい彼の口調は素朴で、まっすぐで、真摯だった。
「分かった。約束だね」
『ああ』
「強くなるよ」
『フン……その頃オレはもっと強くなっている』
「それでも負けない。そう思ったら、決闘しようってことだよね」
『楽しみにしている』
 そこで電話を切った。浅く息をつくと、なぜか柚月の方が大きなため息をひとつ。不思議に思って首をかしげると彼女は疲れたようにもう一度ため息をついた。
「色気もへったくれもないわね」
「だから、私たち、別に、その、そういうのじゃないから」
「だからって言うに事欠いて決闘の約束?それならとっくの昔にしたんじゃなかったの?」
 言われて気付いたけれど、それは柚月の言うとおりだ。でも他でもない準くんが望んだことなのだし、断るわけにもいかない。私もそれには応えたい。
「結局、地道にアイツが喜ぶようなことをするしかなさそうね」
「や、でも、それが分からなかったから、電話したんだけど」
「……」
「……」
 はぁ。どちらともなくこぼれたのはため息だった。とにかく上着は明日にでも返そう。
「ま、そう簡単に、昔の男にをとられるのも気に入らないけど。あんまり手が早いのも許せないし」
「……仮にどっちに転んでも気に入らないんじゃないの?」
「言ったでしょ。可愛い犬が懐いてくれてるのが自分だけじゃないっていうのは嫉妬するわ」
 肩をすくめる柚月に笑う。
柚月と準くんは種類が違うよ」
「そうは言ってもねェ……。幸いなことに、現時点でアドバンテージは私にあるけどね」
「?」
「胸ももうがお尻撫でようが、やりたい放題できるもの」
「もうっ!柚月といる方が危ないよ!」
 準くんとはこうはいかない。やっぱり彼と柚月は別枠なのだ。どちらも大好きだし、大切。入学したときはここまで仲良くなれるとは思ってなかった。
柚月、いつも話聞いてくれてありがとうね」
「お礼ならほっぺにちゅーでいいわよ」
 柚月が言って、私たちの笑い声がはじけた。

2010/06/20 : UP

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