錯綜バイオレット

06: 幕間

 オベリスク・ブルーの上着を身にまとった黒髪の少年は、目の前のドアノブに手を掛けるか否かを躊躇っていた。ノックは既にしたが、中から反応はない。ならば次に行うことは念の為ドアノブをひねることだ、と相場は決まっている。開いていたら部屋の主が在室している可能性は非常に高い。もっとも彼が立つこのレッド寮においては必ずしもそうとは限らないのだが、彼がそれを知ることはない。そして鍵がかかっていた場合は良いが、そんな簡単な行動を引きとめているのは万が一鍵が開いていた場合のことを彼が考えているからに他ならなかった。彼の目的はこの部屋の主である少女である。鍵が開いていた場合勿論本当に不在なのかを確かめるために声を掛けるなり、必要があればきちんと目で確認するために中に入ることにもなるだろう。彼が躊躇している理由こそそこにあった。
 アカデミアの学生にとって自室とはすなわち絶対的縄張りであり、プライバシーの塊である。そんな場所を――しかも年頃の異性の部屋だ――結果的に住人の許可もなく立ち入り、覗き見ることははたして許されるのだろうか、ということについて彼は逡巡していたのであった。彼もそれが普通の行為であることは承知しているが、相手は彼が好意を抱く少女である。つまるところ彼女に嫌われることを恐れているために彼はその場に立ち尽くすこととなっていた。実際のところ彼の思考は全くの徒労であり常の彼ならばくだらないと吐き捨ててもおかしくない程度のことなのだが、生憎と彼がそのことに気づくことはなく、またそれを指摘するような人間もいなかった。
 とはいえ、異様にフットワークの軽いレッド生の行動パターンなど知らない彼に長考する時間もなかった。また無関係の人間から妙な詮索をされてはかなわないと彼は自分の目的を達成することを優先することにする。
 覚悟を決めてドアノブを握り、ひねる。無情にも彼の心配していた通り、それは軽い音を立てて彼の手を歓迎した。彼は自分でも知らぬうちに息を殺して一歩、足を踏み入れた。すぐに彼の目に彼女の靴が飛び込んでくる。綺麗にそろえられているそれは、間違いなく彼女の在室を示していた。
「……?」
 意を決して声を投げ込むが、やはり返事はなかった。彼は迷いに迷ってから、どうあがいても音を立ててしまうドアを出来る限り静かに閉め、靴を脱いだ。部屋に上がると、彼の体重で床がきしんだ。
 用もなく来たわけではないのだからと自分に言い聞かせて、彼は少女の姿を探す。するとすぐに彼の目に赤い上着が飛び込んできた。硬そうな二段ベッドの下段に着の身着のままで横になっているのは間違いなく、この部屋の主である小鳥遊その人だった。
 彼はその姿を認めると、僅かに安堵したように息をついた。
……、おい、?」
 彼が近づき控えめに肩をゆすっても彼女が起きる気配はなかった。彼はさてどうするか、と思考する。お目当ての人物に会えたはいいが、酷く気持ちよさそうに眠る少女を無理に起こしてしまうのも忍びない。彼は手に持っていた封筒に目を落とした。それこそが彼女への用なのだが、彼はそれを見ながら僅かに顔をしかめた。それは先日が決闘をして勝利したその相手から手渡されたものだった。彼にも同じ封筒が渡されたのだが、中を見た時、彼はどう反応すべきか分からなかった。
 中に入っていたのは、まばゆいばかりに笑う彼女の写真。
『言ってなかったかもしれないけど、僕たちニュースブログの構成員って二人じゃないんだよね』
 食えないやつだ、と苦々しく思い彼は更に眉をひそめる。写真はさすがと言うべきかどれも非常にいい出来だったが、様々なアングルから撮られていることを考えると手放しで称賛するわけにもいかない。まるで隠し撮りだな、と彼は思った。彼女の満面の笑みのほか、彼と彼女が手を取り喜びあっているものや、彼女が三沢とハイタッチをしているものも入っていた。恐らく彼女宛てにと持たされた封筒にも同じものが入っているに違いないと彼は予想する。
『ネガはあるから、もっと大きいサイズのが欲しいとか希望があれば言ってくれ。サービスするからさ』
 そう言って笑った先輩の顔を、彼は決して忘れないだろう。別れ際気易く叩かれた肩を押さえて、彼はため息をついた。しかしその写真はいくら知らぬ間に、勝手にとられたものとはいえ、彼女と共有した思い出の証でもある。形として残るものなど何も持たなかった彼にはそれを破り捨てることは到底出来ることではなかった。そしてまた彼女も同じものを持つことになる、と思うと、いよいよそのことが確固たるものになるような気がして、彼の足は自然とレッド寮へと向かっていたのだった。その結果が現在の状態である。
 眠っている以上何かメモでも残して早々に退室すべきだろうと判断して、彼は失礼ながら彼女の部屋に彼の欲するものがないか頭を巡らせた。質素な部屋に似つかわしくない柔らかそうなクッションやカーペットは彼女の私物だろう。ところどころ浮いているようにも見えるそれらに自然と目を奪われながら、彼は最終的に机の上に置かれたペンを発見した。
「……?」
 それを手に取ろうと机に近づくと、そのすぐそばに置かれた本の存在に気がついた。何処か古めかしさを感じる。先の決闘の際に彼女が持っていたものだと思い至り、彼は何気なくその本を手に取っていた。中を見ると、カードゲームにまつわるさも胡散臭そうな内容が収録されていることが分かる。何故こんなものを、と彼が思った瞬間、思い掛けない項目に彼の眼が見開かれた。それは古代エジプトにおける石版の話だった。彼がその部分をよく読もうと集中した直後、
「ちょっとー?」
 ノックの音がして、彼がドアに目を向けるのとドアが開いたのは同時だった。
「……あら、お邪魔かしら?」
 そして彼とを交互に見て一歩踏み行ってきたラー・イエロー所属の少女を認めると、彼は首を横に振った。
なら寝ているぞ」
「それでアンタはくつろいでたと」
「それは……オレも用があって今来たところだ。もう帰る」
「いいわよ、アンタがいたほうが喜ぶだろうし」
 やる気がまるで感じられない投げやりな声色とともに、柚月は頭をかいた。彼がその意味を測りかねていると、急に彼女から射抜くような視線を向けられた。
「アンタね、この子に対して遠慮なんかしてると、逆に距離置かれて終わるわよ」
「……どういう意味だ」
「この子ともっと仲良くなりたいなら、もっと図々しくしてなさいってアドバイスよ。十代くらいが丁度いいかもね」
 入学してから知り合ったはずなのに、もう仲いいもの。そう言った柚月の言葉に、やはり彼はどう反応するべきか分からなかった。そして考えた末に出た言葉は、全く脈絡のないものだった。
「オマエは内部生だろう。何故イエローに?」
 あからさまに話を変えられて柚月は面食らった顔をした。しかし眠るの側まで歩いてくると、そこで腰をおろして彼女を見た。
がいないならブルーにいたってつまらないもの」
「随分気に入ってるんだな」
「それはアンタもでしょ」
 藪蛇だった、と彼は内心で焦りを感じたが柚月がそれ以上突っ込んでくることはなかった。
「入学試験の時にね、迷子になってたから声を掛けたのよ。これは本人にも言ったけど、この子犬みたいでつい可愛がりたくなるのよね。迷子になってた時も捨てられた子犬みたいな顔しててさァ。とてもじゃないけど無視できなくって」
 当時を思い出したのか、柚月はおかしそうに笑った。彼はその中に優しげな色が混じっていることに気付く。
「案内しただけなのに何度もお礼言われちゃってね。アカデミア中等部の毒気が抜けちゃったって言うか。だから、この子がいないブルーには居たくないし、かといってベッドが堅くて我慢できそうになかったから、消去法でイエローってわけ」
 柚月の話を聞いて、彼はそんなものかと曖昧に相槌を打った。決闘王を目指す、という目的がある彼にとって柚月の感覚は理解できそうになかったのだ。しかし犬のようだと形容した気持ちは分かる気がした。財閥の家に生まれた彼に対する彼女の態度はすり寄りでも、妬みや嫉みの類でもなかった。彼は今でも鮮明に思い出すことが出来る。ただただ純粋な好奇心で彼の家にやってきた彼女の姿を。そしてそれ以降もまるで変わらなかった彼女の笑顔も。幼さゆえにそう言ったしがらみにも似た事情が分からなかっただけだとしても、彼女との日々は彼にとって特別だった。
は何故レッドなどに入寮したんだ」
「とてもじゃないけどブルーの制服なんて着られないって。男物で良いから、レッドの制服着て頑張りたいっていう、本人の強い希望よ。決闘の成績も群を抜いて悪かったし」
「せめて寮だけでも女子寮に入ればいいものを」
「この子、そういうの嫌いなの。甘えベタと言うか、自分に厳しいと言うか……。自分に対してだけは胸を張っていたいんだって。ブルーの制服を着るなら、自分がそれに見合った力をつけてからじゃないとだめだって聞かなくて」
 頑固よねェ、と柚月はやはり優しく笑う。彼にはその顔がはまるで母親か姉のように見えた。
「何するにしたって一生懸命でさ。こっちも素直になれるのよ。斜に構えなくたっていいから、楽なの」
「……そうだな」
 今度こそ彼は自分の思いに正直に頷いた。柚月は柔らかな表情のまま彼を見る。そして急に
、起きなさい。お客様ほっぽって寝るんじゃないのよ」
「お、おい」
「ん、む」
 柚月はおもむろにの身体を揺さぶって彼女を起こしにかかった。彼は思わず制止の声を掛けたが、彼女はやめることなくの頬をつまみだした。
ー。私とお茶するって約束したでしょー」
「むー……ん」
「むーんじゃないわよ、ほら、万丈目に変な顔見られてもいいのかしら?」
「……まんじょうめくん?」
 柚月のからかうような声色には急に目を覚まして固まった。何度も瞬きをして、柚月を見上げる。
「え……万丈目って……準くん?」
「他に誰がいるのよ。ほら、そこにいるでしょ」
「!?」
 勢いよく飛び起きたに、彼は持っていた本を元の場所に戻して彼女へを歩み寄った。訪問者にも気付かないほど深く眠っていたことが恥ずかしいのか、の頬には赤みがさしていた。
「お、おはよう……なにか、用事?」
「この前のヤツから封筒を預かった」
「この前?」
 彼が封筒を手渡すとは不思議そうに首をかしげた。彼が事情を説明する間に封を切り始める。そして中身を取り出して彼女がそれを認めた瞬間、その顔がほころんだ。
「わぁ……」
 彼の予想通り、そこには彼に渡されたものと同じ写真が入っていた。彼女の嬉しそうな顔を見て捨てずにいて良かったと彼は思う。
「わざわざ持ってきてくれてありがとう」
 力の抜けた笑顔に彼もつられそうになる。と、そこで写真をめくっていた彼女の動きが止まった。
「どうした?」
「う、ううん。なんでもない」
 取り繕うように笑って見せながら写真を仕舞う姿に彼は眉を寄せたが、彼女がそう言うからには踏み込まないほうがいいのだろうとそれ以上尋ねることはなかった。
 彼女が見つけたのは穏やかに笑む彼の写真と、その表情をわずかに引いて撮った――丁度彼と彼女が仲良く笑いあっている姿だ――写真だった。写真の中の2人はとても仲睦まじく、友人以上の間柄に見えた。
 それらは彼が手渡された封筒の中には入っていないもので、彼女は大事そうに封筒を見つめた。後でスクラップ帳に貼ろうと思いちゃぶ台の上に置く。
「オレの用はそれだけだ」
 彼はそっけなくも見える態度でドアへ向かったが、彼を引きとめたものがあった。柚月がこれ見よがしに大きなため息をついたのだ。彼が訝って振り返ると、彼女は彼を睨みつけていた。
「アンタ、今日の予定は?」
「……空いている」
 何を言うのかと彼が構えると、柚月を見て笑った。
「なら、万丈目の部屋でお茶にしましょ」
「は?」
「へ」
 部屋の主を差し置いて何を言うのかと彼は思う。が、口には出さずにの反応を待った。
「……いいの?お邪魔しても?」
 の目は誰の目から見ても分かるほど好奇心で輝いていた。もし少しでも遠慮する気配があれば断ろうと思っていた彼は、そんなものは考えるまでもなくなかったのだと内心で苦笑を禁じ得なかった。どうやら柚月の方がの事をよく承知しているらしい。
「構わない。ブルーに来た時の為に今から慣らしておくか」
 男子は女子寮への出入りが禁じられている為彼にはブルー女子寮の個室がどんなものか知らなかったが、概ね同じもののはずだと見当をつける。は嬉しそうな声をあげて喜んだ。
は気にしなくていいのよ。コイツだって勝手にこの部屋にあがりこんでたんだから」
「その言い方はよせ」
「あら、本当のことだもの」
「……その理屈なら、オマエまでオレの部屋に来るのはおかしいだろ」
「約束していたのは私。アンタは私たちのお茶の約束に混ぜてもらう立場。よろしくって?」
 とは違う意味で彼に対して全く物怖じしない態度に、彼はため息をつくことで自らの敗北を認めてしまった。不快ではないがもう少し言い方と言うものを選べないのかと彼は思う。恐らく、にだけは甘いのだろう。彼にとってのよりもはるかに分かりやすいが、柚月と彼は似た者同士と言えた。
「えっと、じゃぁ、早速……行こう?」
 はにかむは既に落ち着きなく体を動かしていて、二人の笑いを誘った。



「わぁ」
 部屋に通されたは開けた口がふさがらなかった。
 ブルー寮の部屋はさながら高級ホテルのような内装で、敷き詰められたカーペットの上を土足で歩くのが憚られるほどだった。ベッドもレッドのような二段ベッドではなく、柔らかそうな広いシングルベッド。窓から入ってくる日差しだけでも十分部屋が明るいのは彼の部屋が寮を囲む木々よりも高い位置にあるからだろう。テレビも大きく、トイレとシャワールームもついており、簡易キッチンに至ってはIHクッキングヒーターが採用されていた。
「これ、ホントに寮なの……」
「珈琲か紅茶か選べ。淹れてやる」
「え?準くんが淹れるの?」
 持て成し位はするべきだろうと声を掛けたのだが、心底意外そうに聞かれて彼は心外だ、と息をついた。
「オレをなんだと思ってる」
「や、あの、だって押しかけたの私たちの方だし、ね!」
「良いから、どっちがいいんだ」
「紅茶!」
「じゃぁ私もそれで」
 の態度に彼は内心で唸るほどおいしく入れてやろうと心に決めた。もとよりそのつもりだったがまるで彼が紅茶や珈琲を自分で淹れたことがないと思っているような口ぶりで、それはより強固なものになった。
 キッチンの方へ移動してケトルに水を入れスイッチを入れる。ブルー寮の水は全て浄水器を通した水の為、紅茶の味を落とすことにはならないだろう。
「わ!このベッド柔らかーい!」
「上に飛び乗ってはねちゃだめよ」
「そんなことしないもん!」
 いつもなら静かな彼の部屋で無邪気そうに笑う声が響く。まさかこんなことになるとは思いもしなかったが、彼女の昔と変わらない屈託のない声に何処か安堵すら覚えて彼は自然と笑みがこぼれるのを止められなかった。
 これが全く別の人間だったなら喧しいと怒鳴って部屋から叩き出していただろう。その程度には彼は彼女に対して気を許していたし、甘かった。
「あー……もうこのベッド最高。眠たくなるよ」
「もう起こさないわよ」
柚月もこっちくれば分かるよー」
「誘ってるなら遠慮なく襲うわ」
「それはいやー」
 女同士の会話と言うのはそういうものなのだろうか。彼はやはり部屋に来るのを許した――そもそもこの二人に付き合うことになった――のは少々軽率だったかもしれないと思い始めていた。
 の様子も彼といるときとは少しばかり異なっている。遠慮されているのかという疑問に行き当たり、彼は何か釈然としないものを感じた。これはつまらない独占欲だという自覚はあった。
 彼はもともと自分の思いを客観的に分析できる思考を持っている。には自分よりもくだけた態度でいられる、気の置けない存在がいる――自分にはが最上であるにもかかわらず。それに対する嫉妬なのだ。彼は柚月に対してそれを抱いていた。
 自分の想いと同じものを求めるのは身勝手なわがままだと言うことは彼にも分かっていた。それでも一度芽生えたそれを自分の力だけで摘み取るのはあまりにも難しい。
 彼女が彼に好意を抱いていることは彼も知っている。彼女以外の人間、あの遊城十代の口から出たことからも説得力はあるのだ。十代が『は万丈目を好いている』と言ったのだから、それは確かな情報のはずなのだ。だから彼がそれを疑うことはない。そして彼女の口から彼が聞いたのは、ずっと彼を応援していた、ファンだった、憧れだと言う好意的な言葉だった。
 それを改めて思い出して彼は握りこぶしをつくっていた。
 彼が欲しいのはそんな遠巻きな好意ではなく、もっと近い、友人としての対等なそれだ。彼女の好意は、自分とは違うのではないか?
「沸いてるけど」
「!」
 声を掛けられ、彼の咽喉はヒュ、と音を立てた。簡易キッチンの入り口に柚月が立っていた。
はどうした」
「驚くべき速さでまた寝たわ」
「……またか?」
「あの子基本夜更かしだから。朝は起きれるんだけど、日中スキがあれば寝ちゃうのよ」
 肩をすくめて柚月が言う。彼はとにかくIHのスイッチを切った。
「酷い顔ね」
 笑みを含んだ声に彼は柚月を睨みつけた。彼女はそんな彼の視線を気にすることもなく余裕そうに佇んでいる。彼には、今の自分と彼女の姿がそのままに対する対抗心を表しているように思えた。
「アンタ、携帯持ってるわよね。貸して」
「……何をするつもりだ?」
「いいから」
 険しい顔のまま彼が携帯電話を手渡すと、柚月は慣れた手つきでそれを操作して、それが終わると再び彼の手にそれを戻した。
「私の連絡先入れておいたから」
「何?」
「何かあったらメールなり電話なりで連絡よこしなさい。いつでも力になるわ」
「……」
 彼は自分の携帯に目を落とした。真意を測りかねる、という雰囲気がありありと出ていたのだろう、柚月は言っておくけど、と前置きをして言葉をつづけた。
「アンタのためじゃなくての為よ。アンタに入れ込んでるみたいだし……そのせいでを泣かせるようなことがあっちゃ困るし」
「……困る?オマエがか」
「もしそうなった時、あんたをぶっ飛ばしたら今度は私が泣かせることになるでしょうが」
 やれやれとため息混じりに言われ、彼は僅かに首をひねった。
「アンタは自力でやれると思うけど、一応ね。どうしても、って時に誰かいるってなれば、気の持ちようも変わるでしょ」
 そこで初めて彼は気付いた。彼女が彼を見る目が、に向けられているそれと同種であることに。
が犬なら、アンタは手のかかる猫みたいなモンよ」
 笑まれ、彼は急に惨めとも、羞恥ともつかない感情に支配された。この少女にはすべて見抜かれている。そう痛感するが、自らも把握できていないところまで知られているのだと言うことを薄々感じとり警戒心にも似た僅かな恐怖心が芽生える。
「あの子のこと大切でしょ」
「……」
「そういう気持ちが、傷つけてしまうこともあるわ」
「警告か?――忠告、か」
「ばかばかしいじゃない。を傷つけることであんたもきっと傷つくわ」
 確信している柚月の言葉を、彼は黙って受け入れた。彼にはおよそ理解しがたいものだったが、そうすることが彼女に対する相応の態度だと思われたのだ。その時の柚月はどこか有無を言わさぬ迫力に満ちていて、それを軽く扱うことは躊躇われた。
 しばらくの沈黙の後、彼女はふとゆるく息を吐きだした。しかめっ面をしているのは暴走してしまったことを彼女自身分かっているからだ。
「……ごめんなさい」
 ばつの悪そうな顔を片手で覆い謝罪の言葉を述べる彼女に、彼がかける言葉はない。
「ま、保険よ」
 苦々しくそれだけを付け加えて、彼女は彼を見た。とても彼と同い年とは思えないが彼女はそういった経験をしたのだろう。ただでさえ学校と言う場所は閉鎖的である。それがこのデュエル・アカデミアに至っては突出しているために、そのようなことは往々にしてあることなのかもしれない。ジュニア大会という開けた場所からやってきた彼はそう思うことにした。お節介以外の何物でもない、また彼からしてみれば随分と突っ走った感のある彼女の行為に対して不快感が湧いてこないのは、彼女に敵意がないこととが絡んでいるからだと彼は思う。
「帰るわ。わざわざ用意してもらって悪いけど、が起きたら淹れてやって」
「あのままにして帰るのか」
「アンタを信用してるのよ。友達でしょ」
 他の奴ならそんなことはしないと言う彼女に、彼はすぐに反応できなかった。友達だと、友人だと思っているのが彼のみならば、それは友人と呼べる間柄なのか、と思ったからだった。
「……当然だ」
 鼻を鳴らしたのは動揺を悟られまいとして出た行動だった。彼のそんな態度を彼女はどうとったのか、またつまらない事を言ってしまった、というような表情をした。
 よろしくね、と言って出ていく柚月の背中を見送り、再び彼にとってはいつも通りの静寂が訪れた。彼がベッドへと顔を出すと、しっかり靴を脱いだ状態でその上に横たわっているの姿があった。彼はそれを複雑そうな思いで見た。
 通常、憧れや尊敬の念を抱く相手の部屋で寝るなどと言うことはない。つまり今の彼女の姿はそのまま彼女がまさしく彼が欲する想いでもって構えている証である。年頃の少女としてはいささか無防備すぎるほどで、もっと警戒心を持つべきであり常識的に問題はあるのだが。
 彼はそれを分かっていながら自らが抱いた疑念にとらわれ、手放しで喜べないでいた。
 人の気も知らず、と腹いせの様にの頬を控えめにつねる。予想外の柔らかさに彼は驚きで目を見開いたが、彼女がなぜか嬉しそうに笑うのを見て、こみ上げてくる笑いをこらえるために空いた片手で口元を覆った。覆うという時点でこらえ切れていないのだが、何とか喉で笑う程度にとどめておくことには成功した。
「じゅん、く、」
 夢でも見ているのか、名を呼ばれて彼は目を細めた。
、起きろ」
 つねっていた指先をそろえ、優しく掌を彼女の頬に添える。そっと叩いてやると、彼女はゆっくりながらも目を開けた。彼が緩みきっていた顔が徐々に固まっていく様を見ていると、はおずおずと口を開いた。
「……やっちゃった」
「オマエは今からでもブルーでやっていけるな」
 彼が笑むと、彼女は両手で顔を覆って、それから勢いよく上半身を起こした。一度ならず二度、三度と寝顔を見られるなんて、と恥じらう様はまさしく年相応だったが三度目については彼女の落ち度である。
「あ!柚月は?」
「帰った」
「……悪いことしちゃった」
「全く気にしてない様子だったぞ」
「ホント?」
「ああ」
 そっか、よかった。の笑顔に、彼は紅茶を淹れると立ちあがった。彼女は彼女で詫びの連絡を入れるために携帯を取り出して、柚月のメールアドレスを呼び出した。素早く入力を済ませ、送信する。少しして返信があった。
『気にしないで。来週にたっぷり尽くしてもらうつもりだから。それより思う存分くつろいできなさい』
 飾り気のない文面だがの口元には笑みが浮かんだ。
「何か面白い事でも書いてあったのか」
 キッチンから紅茶と茶菓子を携えて出てきた彼を見て、はまあね、とうなずいた。そしてすぐに彼の出した茶菓子に気付くと目を輝かせた。
「こんな高そうなもの、いいの?」
「ブルーで配られているものだ。オレはあまり食べないからな」
 言外にだから遠慮はいらないというメッセージを汲みとり、は早速手を伸ばした。封を開けるとおいしそうなクッキーが現れた。口元まで運び、かじる。柔らかな感触とともに甘い味が口の中に広がった。至福だ、と言う気持ちを隠さずに一枚を食べきり、彼の淹れた紅茶に手を掛けた。香りを楽しむのもそこそこにカップに口をつける。
「……おいしいっ」
 思わずこぼれた、そんな言葉に彼は内心で喜んだ。しかしそれはおくびにも出さず口を開く。
「日曜はいつもどうやって過ごしてるんだ」
「大抵は柚月とお茶かな。柚月はね、日本茶と和菓子が好きなんだよ。それで遊びに行くといつも出してくれるの。……あ、あとはそうだなー、十代や翔くんと勉強したりもするかなぁ。ハネクリボー、ふわふわですごく可愛いんだよ」
 はその姿を思い出したのか、酷くだらしない表情を見せた。それがすぐに引き締まると、
「そうだ、準くんも一緒にしようよ。前に勉強教えてもらった時、すっごく分かりやすくって!私が十代に教えるよりもずっといいと思う!」
 どうかな、と提案したが、彼は言葉を濁した。
「いや、オレはアイツらと慣れ合うつもりは」
「……オシリス・レッドだから?」
 ためらいがちな声に、彼は即座に首を振った。
「遊城十代と丸藤翔に限って言うなら、決闘者として認めている。だが……それ以上のことについては、必要ないと思ってるだけだ」
 好敵手、ということと、友達や仲間である、ということはイコールではない。彼はそう告げた。は残念そうな顔をしたが、不服そうには見えなかった。
「それに、勉強なら三沢大地がいるだろう」
「うーん、そうなんだけど」
 彼女からしてみればもっと彼との接点を増やしたいのだが、彼には分からなかった。幼いころ遊んだときはいつも二人きりだったからだろうか、その中に新しく人が入って来ることに、彼は抵抗を感じていたのかもしれない。
「オレはアイツらとは友人じゃない」
「これからなればいいじゃない」
 今にも頬を膨らませるかと思われたが、彼女はのどを潤すために紅茶を口にした。
「決闘者として認めることと、友達って思うことって、別物なの?嫌ってるわけじゃないんでしょ?」
「嫌ってないから好きだ、友達だ、とでもいうつもりか?」
「そうじゃなくて……楽しいと思うけどなぁ」
 彼女の呟きはそのまま彼が口に含んだ紅茶とともに飲み込まれた。ことこの件に関して、彼は引くつもりは毛頭なかった。彼女も、取り付く島もない彼の態度にそれ以上強く誘うことをあきらめた。意地になって鬱陶しいと思われてしまうのが悲しくもあり、またわざわざ宣言せずとも、友達や仲間と言うものは自然と形作られていくものだから、と思ったのだ。
「アイツらとはオマエが付き合っていればいい。オマエの友人だろ」
「んー、友達……確かに他の人より抜群に仲は良いけど、親友とか無二の、なんてそこまで込み入った関係じゃない、かな?はっきりそう言えるのはやっぱり柚月だもん。柚月と十代、翔くんはどっちも気兼ねしなくていい相手だけど、ちょっと違うよ」
「なら、オレはそのどちらなんだ」
 彼女の口から出てきた言葉に彼はたまりかねて尋ねてしまっていた。直後しまったと眉を寄せたが、彼女はえ、と言葉につまり、そして彼の顔を見ることなくその頬を赤く染めた。
「……準くんは、柚月とも、十代たちとも違うよ」
 噛みしめるような声色は何処か熱を帯びていた。はいつでも彼女の背を押し続けてきた彼との約束と、そして励ましてきた彼の活躍を思い出していた。
「比べることなんてできないよ。一言ではとてもじゃないけど言えないし、説明も出来ないし」
「……そうか」
 彼女が好意的な答えを言っているのを感じながら、彼はただ一言、相槌を。そうして彼女が部屋を後にするまで――否、後にしたその後もずっと、彼の頭の中には彼女が放った言葉がめぐり続けていた。彼はドアを背に瞼を閉じた。その言葉の中に僅かな期待でもって焦がれたものがなかったことに、息を詰まらせて。

2010/06/30 : UP

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