錯綜バイオレット

11: ゆらめき迫るもの

 デュエル・アカデミアは単に決闘者を養成するだけの場所じゃない。オベリスク・ブルーの場合一般科目の授業内容は普通科の高校の中でもトップクラスになる。多分進学校と比べても遜色ないんじゃないだろうか。授業が進むスピードも速い。つまりクラスが上がれば上がるほどエリート街道まっしぐら、なのだ。オシリス・レッド、ラー・イエロー、オベリスク・ブルーと順序良く寮を移ることが出来ればその速度は綺麗に加速する。
 その中に置いても恐らくほかの学校では受けられない特殊な科目がある。いわゆる技術の授業だ。一年生では専門的なことは習えないのだけど、三年生ともなれば内容は一気に濃くなるという話だ。そして毎年伝統的に行われているのがソリッド・ビジョン・システムを利用した展覧会だ。決闘盤やその技術の特許は海馬コーポレーション、KCが持っているからプログラム解析は出来ないのだけど、得意な人は一からプログラムを組んでしまうとか何とか。
 とにかく、その展覧会は進路にも大きく影響するみたいで、大学のAO入試の一環として行われている体もあって先輩たちの意気込みたるや……だそうだ。私には想像もつかない話なのだけど、毎年、それはそれは素晴らしい出来らしい。
 そしてなぜ急にこんな話になっているのかと言うと、今年催される三年生・技術専攻の先輩たちによるイベントのリハーサルに参加するからだ。場所は校舎全域で行われ、その中を決められたルートで回ればいい。勿論その間あちらこちらで先輩たちが腕によりをかけて製作したソリッド・ビジョン・システム併用のグラフィックや仕掛けを堪能することになる。今年のイベント名はその名もズバリ、夏の風物詩『肝試し』だ。……この場合、展覧会と言うよりはある種のアミューズメントパークと言った方が正しいと思う。
 ルールは簡単。二人一組でペアを作り、玄関から各教室を回って、また玄関に戻るだけ。ただ、だけと言っても教室には通過したことを示すポイントとして台座があって、あらかじめ配布された一枚のカードを順番通りセットしなければならない。台座とカードは決闘盤のシステムを応用していて、支持された通りのルートで回らないと反応しない。反応しない、と言うのはその時限定で学校内のセキュリティが技術科の為に解放されるためで、次の教室へ行くためのドアのロックが開かない、と言うことだ。全くもって常軌を逸している学校だとは思うけれどそう言う他の学校では味わえないことやってしまうのが好きでもある。
 リハーサル参加は自由だし、本番、海馬コーポレーションの施設で一般公開される際によりトラブルを少なくする為の実験だから成績に響くわけでもないのだけれど、学年やクラスが上がって技術を専攻したい生徒は事実上参加必須とあって将来の選択肢を増やしておこうと言う人が圧倒的だ。それはもちろん女子であろうと同じ事。ただ今年のテーマが肝試しで雰囲気作りのために日が暮れてから開始されることもあって、女子はブルー男子とペアを組むことが義務付けられているのだ!一部の人は恋人同士でのデート、と言う感覚が強いとかなんとか。いいよね、ブルー男子に恋人がいる人はね!
 これは女子と言ってもブルー女子に限っての話だ。私と柚月はブルーではないからこれからは外れてしまう。何故かと言えば、理由が寮の立地を考慮したものだからだ。ブルー男子はブルー女子を寮に送り届けて引き上げる。つまりレッド及びイエロー寮に戻る私と柚月は、それぞれの寮の男子と組まなければならないのだ。私と三沢くんが肩を落としたのは言うまでもない。
「罠カード落とし穴、って感じだよ」
 中庭で二人ベンチに座って気落ちする様はなかなか見られない光景かもしれない。既にオベリスク・ブルーの男女は何処か浮ついた雰囲気を抑えようとして抑え切れていないと言う感じで、私たちは嫌でも視界に入ってくるその空気を目にしてさらにため息をついてしまう。
くんはレッド生からたくさんお誘いが来たって柚月くんから聞いたけど」
「なんかね、どうせペア組むなら女子とがいいんだって」
「気持ちはよく分かるよ」
 オレだってわざわざ男と組みたくない、と三沢くんは言った。肝試しのせいでレッド生とイエロー生についてはよりその気持ちが強いんじゃなかろうか。女子に頼られて抱きつきでもされれば役得である。皆それを狙ってるのだろう。
 三沢くんはもちろん天上院さんとがよかったんだろうけど寮が違うから無理だ。かく言う私も準くんと……が良かったのは良かったんだけど、気落ちしているのはそのせいじゃない。実は、リハーサルを控えた今日になってもまだペアが決まってない。三沢くんの言葉通りたくさんのレッド生からペアを組んでくれと言われたのだけど、全て断ってしまったのだ。かといって自分から誘うような人はもう思い浮かばない。十代か翔くんどちらかにお願いしようと思っていたら、その二人が一緒になっちゃうんだもんなァ。
「参ったなァ……」
「この際、寮にこだわることないと思うけどね。原則女子はブルー扱いじゃないか。体育とか」
「そりゃ、体育まで男子に交じれないもん。さすがに体力も体格も違うし、私が良くても男子がよくないよ。今回のことはそう言うこととは関係ないわけじゃない?他の寮の人とだと無駄に歩かせちゃうことになるし、やっぱりレッド生と組んだ方がいいと思うんだ」
 意地っ張りだな、と三沢くんに言われるけれど、自分で決めたことだから尚のこと譲れないのだ。
「三沢くんは良いなあ……柚月とペアなんでしょ?」
「ああ、向こうから声をかけてもらってね。驚いたけど」
 明日香くんと組めなかったけど、光栄には違いない。と三沢くんは言う。きっと私より柚月の方が競争率すごかったんじゃないかな。レッド生がイエローの寮に立ち寄るのは可能だからレッド生からも口説かれてたかもしれないし。
 レッドは寮を見て分かるように絶対数が少ない方だ。主に一年生が多い。でもイエローは一年から三年まで一気に人数が膨れ上がる。柚月は天上院さん並みにスタイルがいいし、きっとすさまじいほどのお誘いの嵐だったんだろうなァ。……その中でもって選ばれたんだから……
「……三沢くん、恨まれないようにね」
「オレが気を付けたって今回のことは柚月くんから誘ってもらったんだからどうしようもないさ」
 既に何か言われるかされるかしたんだろうか、三沢くんは頭を抱えた。こっちはこっちで大変そうだ。
 全く理不尽だ、と呟く姿を贅沢だと思うのは私がそれ以前のところで頭を痛めているからだろう。
「まあ、こっちのことはともかくくんは早いとこパートナーを決めないと。一人じゃ参加できないぞ」
「そうなんだけどねェ」
 私はまたため息をついた。アテがなさすぎる。誘ってくれた誰かに『うん』とっておけばよかったな。でも、一人に誘われた時「抜けがけずりー!」とか言われてオレもオレも、と申し込まれてしまったからつい一括して断っちゃったのだ。あの中から誰か一人を選ぶなんて私には出来なかった。
「お、小鳥遊さんみーつけた」
「え?」
 男子生徒の声とともに目をふさがれて思わず息を止める。だーれだ、と聞いてくる声は弾んでいて、私は小波くんと苦笑交じりに答えた。
「嬉しいな、当ててくれるなんて」
 小波くんは手を外すと私の隣に回り込んで、急に真剣な顔つきで小鳥遊さん、と切り出した。
「大事な話があるんだ」
 弾んだ声とは打って変わって今度は低くて、一言一言に力がこもっている。雰囲気にのまれて、つい背筋が伸びた。
「な、なに?」
 そこで、小波くんは一つ咳払い。
「俺と、付き合って欲しいんだ」
「……へっ」
「……今度の肝試し」
「小波、紛らわしい」
 真っ先に顔を破たんさせた三沢くんが即座に突っ込む。私も私でうっかり赤くなってしまった顔が、勘違いと分かって更に恥ずかしさで染まり切ってしまう。
 畏まって言われたせいでてっきり所謂『お付き合い』かと……。タイミングを考えればおかしいことはすぐに気付くはずだ。大体ここは中庭で三沢くんをはじめ他の人だってたくさんいるのだし。
「だってさ、十代を誘おうとしたらもう翔のヤツと組んじまうんだもんよ。俺相手いなくて切羽詰まってるんだって」
 小波くんは三沢くんにそう弁解して、私の両肩をぎゅっと握りしめた。
「で、返事を聞かせてくれ」
 迫られて、私は言葉もなく首を縦に振る。瞬間小波くんの顔が輝いた。
「マジで!?やったー!」
 立ちあがって大きくガッツポーズをする小波くんは本当にうれしそうで、私もつられるように笑ってしまった。
「私も相手いなくて困ってたの。私からお願いしたいくらいだよ」
「よかったー、俺もうすげえ焦っちゃってさ。このままペア見つからなかったらどうしようかと思った」
 小波くんは脱力しながら改めて私の横に腰を下ろした。私は三沢くんと小波くんに挟まれる形になる。
「良かったな、相手が見つかって」
 三沢くんの言葉に私と小波くんのうんと言う声が重なる。
小鳥遊さんマジ女神だし」
「なら、小波くんはメシアだね」
 言いあって、私たちは三人でくすっと笑った。なにはともあれ、これで参加条件は満たすことが出来た。



 さて、会場前である玄関の入り口周辺はそれなりに込み合っていた。三年生で参加しているのは少数で、しかもそのほとんどか全員がカップルだろう、見事に男女ペアしかいない。見た感じ大人で明らかに一年生とは雰囲気が違う。あんなふうになりたいな、と思いながら目をずらして行くと、その後ろに続いている一、二年生の群れに行きあたった。圧倒的に男子が多い。絶対数が女子の倍以上違うから仕方のないことだけど、どこか殺伐とした空気なのは気のせいだろうか。特にラー・イエローが。肝試し前の空気と言うより決闘前のようだ。
小鳥遊さん、はぐれそうだし手ェつないどこ」
「うん」
 小波くんに手を引かれて受付をするべく前に進むと、三沢くんと柚月を発見した。
「あら。結局小波とペアになったのね」
「余り者同士仲良くやるよ。お前ら、受付終わったのか」
 私より先に小波くんがそう返す。三沢くんがこれからだよと答えた。別れる理由もなく、受付に向かう人数が増える。人をかきわけかきわけ進む中、妙に周囲の面々がこちらを見ているような気がするのは気のせいじゃないだろう。何処かチクチクとしていて落ち着かない。……何も悪いことはしてないのになァ。
 針の筵の様な人ごみを抜けて先頭を歩いていた小波くんが立ち止まった。受付の前だった。
「オシリス・レッドの小波と小鳥遊です」
「ラー・イエローの三沢、神島です」
 名前を言うと、整理番号代わりのカードを渡された。受付の三年生から説明を受ける。概ね事前に知らされていた内容と同じだ。
「キミたちは男女ペアだから早めに入ってもらうよ」
 直に入れるはずだ、と先輩は言うと少し急いでねと送り出してくれた。
「受付順じゃないの?」
「女子がいるペアを早くしておかないと、最後の方だと夜遅くになるからでしょ」
「あ、ナルホド」
 言われた通り少し小走りになりながら玄関の方へ行くと、列の最後に並んでいたらしい男女ペアが中へ入って行くところだった。
「あれ、万丈目と天上院さんか?」
 お似合いのペアだな、と小波くんが呟いたのを聞き逃すことはなかった。その言葉に何かを感じる前に納得してしまって、私はそうだね、と相槌を打ってしまっていた。三沢くんも気付いたみたいで、複雑そうに二人の背中を見送っている。
小鳥遊さん、妬けちゃう?」
 意地悪くささやかれて、私は思わず小波くんの名前を叫んでいた。
「……妬いてるのは、あっちの方かもね」
 柚月の呟きに反応してえ、と聞き返す。けど柚月は何でもない、と先輩の指示に従って並んでしまっていた。こそりと、小波くんに耳打ちされる。
小鳥遊さん、万丈目に今日のこと弁解しといてくれる?いますげェ睨まれちまったから」
「え」
「いやー男の嫉妬は怖いねェ」
 よろしく、と言われて流されるように頷いた。けれどどう言う意味かよく分からない。私と準くんはその、恋人ではないのだし。ただの友達だし。うん、友達、なんだけどなァ。友達でも妬くことがあるのは自分でもよく分かっているんだけど、あの準くんが?騒がしくしたから睨んでた、とかじゃなくて?あ、でも今はみんなうるさくしてるか。
 信じられずに首をひねりながら、柚月と三沢くんの後ろに並ぶ。
 三沢くんがさっき渡されたカードを玄関に設置された台座にセットした。すると、台座の上に立体地図が現れた。ソリッド・ビジョンだ。ルートの説明を受けて、カードを外す。
「くれぐれもカードを忘れないようにね」
 はい、とカードを渡されて三沢くんと柚月が中へ入っていく。それを見送って、私と小波くんも説明を受けた。
「楽しみだな」
「うん」
 五分経って促されるまま足を動かす。校内に入るとひんやりした空気に包まれた。普通この時間まで空調が動いていることはないからそれだけで少し緊張する。中は当然薄暗くなっていて、それでもこけたりしないようにと電光は調節されていた。いつもならハイテクで近未来的だと思える学校も今は人気も感じられない気がして不気味だ。実際にはここには何十人も生徒がいて動いているはずだからそんなことはないんだけど、人の姿が見えないだけでこうも違うのかと喉が鳴った。
小鳥遊さん、怖い?」
「少しね」
 からかいの色を含んだ声に元気づけられて、私は小波くんと最初の教室へ向かって歩き出した。ロビーを抜けて廊下に足を踏み入れるとソリッド・ビジョンが浮かび上がっていた。大小無数の妖怪がひしめきあって、進行方向へと歩いている。
「これは……百鬼夜行、なのかな」
 三沢くんは確か妖怪デッキ使いだったから喜んだかもしれない。私の言葉に小波くんは口笛を鳴らす。
「おっかねえな。決闘盤使った時の映像より迫力あるし……」
「決闘の時と違ってデータ量が多いのかもね」
 小波くんはさすが将来有望なエリート先輩だぜ、と褒めてるのか強がりなのか分からないことを呟いて、止めていた足を動かした。私もそれに習って足を動かす。
「でもゆくゆくはこんな風に技術開発の分野の勉強も出来るようになるんだよね」
「ここまで来るにはまずブルー昇格が必須だけどな」
 最初の部屋に入る。中には、幻想的な景色が広がっていた。基本的に教室は半円形型で教壇が一番低くなってる構造だ。そこに台座らしきものが設置されていた。……けれど、先を急ぐのも勿体ないほどの出来に感動してしまう。
 空中に浮いているのは西洋を思わせるフェアリーやピクシーといった妖精で、椅子と机の上にはドワーフやエルフたちが楽しそうに踊ったり跳ねたりしている。肝試しには不釣り合いなモチーフに首をかしげつつもついつい手を伸ばして触りたくなる美しさだ。
小鳥遊さん、カードセットするぜ」
 小波くんの声に反射的にうんと答えた。あと少しで指がピクシーに触れる、と言うところでがらりと周りの景色が変わった。
 愛らしく飛んでいた妖精は見る見るうちにキバを生やして黒く染まりコウモリに。エルフたちはゾンビ。森の中だった景色はおどろおどろしい墓場へ。
 ひ、と短い悲鳴はコウモリの羽音とゾンビのうめき声にかき消された。
「どっきりかよ!タチ悪ィなァ!」
 転ばないように階段を駆け上がり廊下に転がり出る。廊下は廊下で相変わらず妖怪のパレード状態だ。
「くそっ……カードを読み込んだら切り替わる仕掛けかよ」
 驚かせやがって、と小波くんは悔しそうだ。かく言う私も手を伸ばしたところで驚かされたために効果はてきめんだったと言える。コウモリにかまれてしまうかと思った。
「先輩達、最初からやる気満々だね」
「つか、最初だからかもな。初めからここまでビビらせてくるなんて本気すぎるぜ」
 こりゃぁ来年も気合入るだろうなと言う呟きに、私は苦笑いしながらも頷いた。驚かせる方としては楽しいだろう。進路のこともあるし、手なんか抜いてる余裕はないだけかもしれないけれど。
 私たちはどちらともなく寄り添いながら先に進むことにした。ルートは一本道になっていて、先輩の作品が展示されている以外の場所はロックがかかっているから出入り出来ないし迷子になることはまずない。一階から順繰りに教室に立ち寄りながら最上階へ上がり、そしてまた別の教室をめぐりながら降りてくるだけ。
「これ、たしか先生も参加してるんだよね」
「ああ。教員は最後に回る手はずになってる。これが終わればセキュリティは平常通り動くから、生徒が残ってないか確認の為だろうな」
 戻ってないペアのことは出口でカードを管理してる先輩たちならすぐに分かるけど、念には念をと言うことだろう。
「先生の反応、気になるなァ」
「案外生徒よりマジビビリしてたりしてな」
 小波くんは快活に笑う。クロノス教諭で想像したせいか、私もつられるように吹き出した。
 その後は拍子抜け……したわけではないけれど、特に何かあるわけでもなく最上階まで上がって、他の教室でもそうしたように台座にカードをセットした。廻った部屋には和・洋・中に限らず世界中のありとあらゆるホラー要素がふんだんに盛り込まれていて、目が飽きるなんてことは全くなかった。中にはお化け屋敷よりはるかに長い道のりを歩むには恐怖の連続ではもたないだろうと言う意図からか、ホラーじゃなくて例えば日本神話の黄泉の国だとか神話がモチーフになってるところもあって興味をそそられた。
「あとは降りてくだけだな」
「うん……ッ!?」
 小波くんが台座からカードを外したのを見ながら頷いた瞬間、私は得も言われぬ感覚に足から力が抜けそうになった。とっさに足を踏み出して台座に手をつく。
小鳥遊さん?」
 ――嫌な汗が出た。空調が切れたわけでもないし、ソリッド・ビジョンが怖いわけでもない。けれど気を抜けば腰の骨が軟化したように力が入らなくなる。心臓がどくどくと脈打つのが分かる。息が苦しい。
「大丈夫か?」
 小波くんの声が遠い。近くにいるはずなのに、それよりももっともっと私の近くに嫌なものが忍び寄ってくるような感覚。不快感を伴う程の恐怖だった。
 これまでも感じた『何か』がいる。
「ごめん、ちょっと気が緩んじゃったみたいで」
 どうにかこうにか顔を上げる。何度か深呼吸をしたけれど全く効果はなかった。それでもいろんなものを飲み込んで咽喉を震わせる。
「あの、小波くん。迷惑ついでにお願いがあるんだけど」
 ねっとりとまとわりつくようなそれではないけれど、どこからともなく身体の中に入り込んできそうな『何か』から逃げたい一心で、こそりと彼に耳打ちをした。
「確かこのままルート通りに進めば前を通ると思うんだけど、一階の女子トイレまで急いでもらっても良いかな」
 別に行きたいわけじゃない。でもとにかくここから急いで離れたい。
 幸い小波くんは分かった、小走りで間に合うかとからかう様子もなく了承してくれて、私はそれに短く頷きを返した。
 あの変な決闘――……準くんは闇の決闘と言っていたけれど、あれ以来これを肌で感じたのは準くんと一緒にロッカーの中に逃げ込んだ時だったはずだ。何度感じても慣れることなんてない。今もあの時と変わらない恐怖を感じる。
 準くんは……あの時決闘を止めに入った十代も、この嫌なものについて何か知っている。知らなくていいことだと言われたけれど、分からないからこそ恐怖が肥大することもあると言うことを彼は知っているだろうか。
 私はあまり周りに気を配る方じゃないし、視界に入ってこない、特に視線だとか気配だとかに関しては気付かないほうだ。はっきり言って鈍い。その私がこんなにもはっきりと『何か』を感じるのだから、ただ事ではないに違いない。違いないのに、私にはそれが何なのか全く分からないし、どう手を打てばいいのか、立ち向かうべきなのか逃げるべきなのかすらも分からない。ただ一つ言えることはよくないものだと言うことだけだ。
 速足で階段を下りて廊下を行く。先輩には申し訳ないけれど、もうソリッド・ビジョンを楽しむ余裕はなかった。今にも後ろから襲われたらどうしようかと不安で仕方がなくて、急きたてられるように先を急ぐ。私たちは結局黙ったまま一階までを逃げるように通過した。
「着いた。俺、隣に入ってるから」
「うん」
 小波くんは女子トイレの隣……男子トイレを指さして入っていく。それを横目で見ながら私も女子トイレに入った。
 中の電気をつけると急にいつもの日常的な姿を目にすることになった。ただのトイレだ。それがこんなに安心できるものだとは思わなかった。校内の雰囲気のまれていたのかもしれない。ため息が出た。
 もう、あの嫌な感じはしない。大丈夫。大丈夫。
 あの『何か』はごく一部の人にしか感じられないし、分からない。それはあの闇の決闘で何故十代が止めに入ったのか分からない生徒がたくさんいたことからも分かる。――精霊と同じ、だ。あれは、あれもカードの精霊と同種だと言うのなら、あれこそまさしく魔物と呼ぶに相応しい、と思った。
 今度こそ気を落ち着けてトイレから出る。小波くんはすでに外で待っていてくれた。
「ごめん」
「いいよ。それよか大丈夫だった?」
「……うん」
 いくら切羽詰まってたからってトイレを言い訳にしたのは拙かったかなァと急に恥ずかしくなったけど、小波くんが気にしてない様子だったからなるべく私も気にしないように努める。
「さあラストだぜ。これが終われば外に出られる」
 どこかわくわくした声に気持ちを切りかえる。
 一体最後は何が待っているのか。期待と言う名の覚悟をしつつドアを開け、その瞬間差し込んできた眩いほどの金色の光に目がくらんだ。
 誘われるように中へと足を踏み入れる。そこは天国と呼ぶに相応しい場所だった。マッケンジーさんのデッキにあうフィールド魔法でこんなのがありそうだ。でも、フィールド魔法発動時のそれよりもはるかに鮮明なグラフィックに神々しさすら感じる。
 そしてそこにいるのは当然と言うべきか、天使たちだった。幼いキューピッドの様なものや大天使らしきものまでその種類も多種多様。皆一様に慈愛に満ち満ちた表情をしていて、さっきまでの恐怖が吹き飛んだ。――これがソリッド・ビジョン・システムで映し出されたプログラムの表情だなんて到底信じられない。
小鳥遊さん、カードセット、する?」
 余程見惚れていたように見えたのか、小波くんの遠慮がちな声に我に返った。一番最初の教室ではカードをセットした途端に様相ががらりと変わったから心構えをしておくように、と言う意味もあったと思う。頷いて、小波くんと一緒に台座に近寄った。
「……じゃぁ、やるぜ?」
「うん」
 そっと小波くんがカードを読み込み台に置く。
「……」
「……」
 景色は、変わらなかった。けれど台座の上に新しいソリッド・ビジョンが浮かび上がる。可愛らしい天使だった。彼女は手にしたハープを奏でると、そのままふっと消えてしまった。
「クリアおめでとう、ってところかな」
 肝試しと言う感じではなかったけれど、最後はいい気分で帰らせるための演出だろうか。自然とほころんだ。
「綺麗な〆だったね」
「ちょっと悔しい気もするけどな。勝ち逃げされた感じだ」
 カードを取って教室を後にする。玄関から外に出ると、まだ少し人が残っていた。――見慣れた制服に、見慣れた風景。ほ、と気持ちが緩んだと思ったら、今度こそ完全に力が抜けてしまった。
「わ、小鳥遊さん大丈夫か」
 出口で待っていた先輩にカードを渡していた小波くんは、呆れたように側に来てくれた。カード回収役の先輩は、怖すぎたかな、と笑っている。
「ご、ごめん。腰が抜けちゃったみたいで」
 腰に力が入らないせいで達どころか足を動かすこともままならない。
 帰っていいよ、と言う先輩のありがたい言葉をもらって、小波くんにおぶってもらった。ごめんね、と謝ると、軽いから平気と返された。優しさに涙腺が緩む。
小鳥遊さん、最上階でも腰抜けそうになってたよな」
「う、うん」
 少しからかいの色をもった声に曖昧に頷く。あの嫌な『何か』を、小波くんも感じていたのだろうか。どちらにしても私の方から切り出すのは躊躇われた。
「あの時さ、もしかして……」
 小波くんの言葉が止まる。下がった声色に、知らず息をひそめた。じっとその先を待つ。少しの間黙ってゆられていたけれど、
「……。…やっぱり何でもないや。寮に帰ったら早いとこ寝ようぜ」
 努めて明るく放たれた言葉に、私はどう反応するべきか分からなかった。探るように尋ねようかと迷って、思いとどまる。
「今からもう眠たくて仕方がないよ」
小鳥遊さん寝るの早いからなァ。けど流石に重くなるから俺の背中で居眠りは厳禁な」
 くすくす笑う声と、揺れる背中。妙に暖かくてそれだけアレが怖かったのだ、と他人事のように思った。
 どうか、悪い夢は見ませんように。
 呟いた声は、何とか冗談めいた響きを持たせることに成功していた。

2010/09/12 : UP

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