錯綜バイオレット

13: 転げ落ちるように

 気付いてしまった。考えるよりも早く、それを止める暇もないほどに。
「やっぱりさ、胸っておっきい方がいいのかなァ」
 中庭。なんとなしに集まった面子で取り留めのない話をして、丁度会話が途切れたあたりで呟いた言葉は自分で思っていたよりもはるかに強大な威力を持っていたようだった。その中で唯一女子である柚月だけはまた急に何を言い出すのかと私を見やるだけで全く動揺はしていなかったのだけれど、ここには十代に翔くん、そして三沢くんもいる。男子三人はそれぞれが違う理由で動きを止めているのがよく分かった。
 翔くんの顔は真っ赤だし、十代は何を言われたのか分かってないみたいだし、三沢くんは少し戸惑っている。
「……い、いきなりどうしたの?」
 流石に答えにくいのか、翔くんが遠慮がちに私を見た。
「天上院さんや柚月みたいになりたいとか贅沢は言わないけどさ。胸があったらもっと意識してもらえるのかと思って」
 ため息交じりに応えると、翔くんは何かあったのと更に訊いてきてくれた。……それは嬉しいのだけど、流石にすべてをはっきり伝えるのも、と躊躇して言葉に詰まる。きっかけは、体育館倉庫でのことだ。
 もし私の胸がもっと胸らしい大きさだったら、あの時、準くんが私の胸に触れた時、もっと違う反応になったんじゃないかと思うのだ。大体まず胸を触られてあんな嘘をつきとおせるわけがない。その後のおんぶもまた然り。胸が触れるだけで慌てる準くんではないかもしれないけれど、せめてあの暗闇の中で起こった時だけは別でいて欲しかった。そう思うのはわがままだろうか。今まで下着が必要ないんじゃないかと思うほど胸がない事に劣等感を覚えたことはなかったけれど、特別に想っている人になんとも思われてないのは少々どころか大いに悲しい。いや、デレデレしたり恥ずかしそうにしてるのが見たいわけでもないのだ。ただ、……なんて言うか、私は少し怒ってさえいるのかもしれない。少しくらい気付いてくれたってよかったんじゃないのか、って。
 つまり準くんのそれは友達としてしか見られていないってことの表れなのか。いつか柚月が言ったみたいに、犬か何かだと思われているとか。
くんがそう思ってしまうようなハプニングでもあったんだね?」
 なんとなく把握してくれたのか三沢くんは苦笑がちに助け船を出してくれた。私はそれに飛びついて、うんうんと頭を縦に振る。
「……アイツはそう言うこと気にしそうにないと思うけどなァ」
 ぽつり、十代が呟いた。……え?
「うん、ボクも……というか、そう言うのには全く興味なさそうな」
「……え、えええ?」
 全てまるっとお見通しだ、と言わんばかりの二人の発言に、今度は私が固まる番だった。……あの時私たちの他には誰もいなかったはずだし、背負われている間も二人の姿は見かけなかったはずだ。もしかしたら人伝に聞きでもしたんだろうか。
「一応聞くけど、誰か分かってる、の?」
「……え?万丈目だろう?」
 まさか違うのかい、なんて間髪いれずに三沢くんに言われて、彼と全く同じ顔で十代と翔くんも私を見てくるものだから、私はたじろいでしまった。
「なんで分かったの、って顔してるけど、の顔と態度見て分からないほうがどうかしてるわよ」
 極めつけに柚月から呆れられて、私はひきつった笑みを浮かべることしかできなかった。――今の彼が好きなのだと、目が覚めたように自覚したのは、否、それを突きつけられてしまったのはついこの間のことなのに。そこまであからさまだっただろうかと振り返って、そうだったかもしれない、と赤くなればいいのか青くなればいいのか迷ってしまうほどには私の顔色はグルグルと目まぐるしく変化していたと思う。きっと彼にはばれてないはず。多分。
「……うう……と、とにかくみんなそう言うけど大きい方がいいんじゃないの」
 みんながからかうように周囲に吹聴して回るタイプじゃなくてよかった。……柚月の発言を聞くにその必要がないくらい私が準くんが好きだと言っているようだけれど。もしかすると吹聴なんかしなくても周りの人は気付いていたのかもしれない。だから、あんな噂が立ったのだろうか。
 一斉に言葉をなくす男子三人に、よく分かる回答をありがとうを半目でお礼を言う。その中で唯一翔くんが慌てふためいたように動いた。
「好きな人かそうじゃないかじゃ、違ってくると思うよ?好きな人なら特に関係ないと思うし」
「じゃぁ、友達くらいなら?」
 瞬間、凍るようにお互い沈黙をかぶった。……墓穴を掘ると言うのはこのことだろう。私も、翔くんも。お互いなにも自分を追い詰めるようなことを言わなくても良いだろうに、と考えるけれど既に遅い。何とも言えない間が生まれてしまい、気まずさは加速した。
「友達ならそんな目で見ないって。客観的にあるなし言うなら別だけど」
 あっさりとした十代の回答で翔くんはホッとしたように表情を緩めた。どことなく三沢くんも自分に振られなくてよかった、と思ってそうな感じで胸をなでおろしている。……まあ、三沢くんの立場上こういった話だとフォローにならないからだろうけど。
「結局、のままでいいってコトよ」
 柚月が結論は出た、とばかりにそう片づける。ウウ、と唸ると何よ、と睨まれた。柚月の柔らかそうな胸に目がいってしまう。
「胸ってどうしたら大きくなるの……」
「アイツに胸でも揉んでもらいなさいよ」
柚月くん、それはちょっと」
 あまりにも直球な返し方に男子三人が気まずさを通り越した風に柚月を見るけれど、私は一人あの時のことを思い出してしまった。
 準くんの指先が私の胸をかすめて、そのまま掌全体で包み込むように触れて、それから、それから、何かを掴むように力がはいって――……つまり
「あ……、ぅ」
 感触まで蘇って、私は魚のように口をパクパクするばかりで何も言葉が出なくなってしまった。たった一瞬のことなのに妙に生々しくて、もしわざとそんな意図でもって触れられたかと思うと……!
「そ、そんなことされたら恥ずかしくて死んじゃう……!!!」
 完全に血迷ったとしか言えない私の言葉を不審に思った柚月は、殊更に顔をゆがませた。
、アンタ……まさか」
 何かに気付いたらしい彼女に、私は思わず声を張り上げる。
「違うよ!事故だったもん!!ごまかしたし!!!」
 そして私は恐らく過去今まで掘ってきた中で一番大きな穴を、ダイナマイトで爆破したかのように作ってしまった。
「あ」
 私を除く四人は皆一様に唖然とした顔をして、それからいち早く回復した柚月
「とりあえず、順を追って話してくれるかしら、
 妙に気迫を感じる声でそう促した。
「……はい……」
 それに抵抗する術があるはずもなくて、私は四人に取り囲まれるかのような形で――まさに『白状する』と言う言い方がぴったりな状態で――事の顛末を話すことになった。
 流石にあの嫌なものについて話していたことなんかは言わなかったけれど、徐々に暗闇とは言え胸を胸とも思われなかったことについて悲しみと怒りが同時に湧いてきて、なんだか悔しくて涙がこぼれた。喋りながら涙を我慢するのって難しい。
 すぐに三沢くんがハンカチを渡してくれて、ありがたく受け取って目元に押し付けた。
「どうして嘘なんかついたのよ」
「だって恥ずかしかったし隠さなきゃいけないと思って……。だ、だって正直に言って、その後どんな顔すればいいか分からないし、準くんの反応が怖いじゃない……」
「……まあ、気持ちは分かるけど」
「大丈夫か、なんて聞かれたら正直には言いにくいもんな」
 よしよしと十代が優しく私の頭を叩く。翔くんはどう言えばいいのかと戸惑いながらも背中をさすってくれていた。嬉しい、けれど……どうしてこんなことになってしまったのか。初めから全部自分が悪かったんだけど。自分で掘りまくった深い墓穴に飛び込みたい。
「人間の感覚はほとんど視覚頼りだから、何も見えないほどの暗闇じゃ無理もないよ」
「……だから、胸が……おっきかったらなって……」
「そういうことか……」
 胸は柔らかいし、立体的だから普通準くんがそうしたように触ればしっかりと『揉む』はずだ。そうすれば暗くたって、分かったはずなのだ。そうに違いないのだ。
 よしよしと四人に慰められる。さっきはそれどころじゃなかったけれど、だんだん客観的に見て自分が置かれている状態も、その光景も不思議すぎることに気づいたら笑えてきてしまった。
「……泣くか笑うかどっちかにすれば?」
「い、いひゃいれふ」
 頬をつままれて泣き笑いのような声で悲鳴を上げると、変な子、と言われてしまった。柚月さん酷いです。
「元気でたか?」
「おかげさまで気は紛れました」
 十代の笑顔がまぶしい。何とかしたいのは変わらないけど、吐き出せた分だけ気は楽になった。
「っと……オレ、用事思い出したから悪いけどもう行くぜ」
「え?アニキ用事って……あ、そういやボクも」
 へ、と素っ頓狂な声を上げてしまう。あの十代が『用事』?それも翔くんまで?
 確かに二人とは寮が同じとは言え一日中べったりくっついて行動してるわけじゃない。でも私が知る限り二人が先生に何か頼まれたとか、呼び出しを受けたとか、そんな話は愚痴交じりにでも聞かなかったはずだ。
 何か約束事でもあるのかと聞こうとしたら、三沢くんと柚月まで次の実技授業へ向けてのデッキ調整をするとか言ってあっさり言ってしまった。
「――ッ、ちょ、」
 引き留めることはおろか、松葉杖では追いかけることも出来ずに私は中庭のベンチに座ったまま一人、途方に暮れてしまった。デッキ調整ならここですればいいのに。もっと人が少ないところでやるにしても連れて行ってくれてもいいのに。もうすぐ中間テストだし、自分の手の内は見せられない、ってところだろうか。
 みんな急にどうしたんだろう。不可解と言う他ない。三沢くんにハンカチ返しそびれたし。洗って返せってことかな。単にタイミングの問題だろうけど。
 考えても答えが出るわけじゃない。仕方なく暇になった私は保健室で足を診てもらうべく立ちあがった。怪我をしてから五日ほど経って、毎日通っているからか経過は良好だ。もうすぐ歩くくらいの負担なら大丈夫だろうと言われている。杖をつく生活もそろそろ終わりに近い。

 杖をつきながら中庭から出ようと歩きだすと、名前を呼ばれた。見ると、入り口で待ち構える準くんが見えた。壁に背を預けて腕を組んでいる。――もしかして、待たれていた?で、十代たちは逃げた?
「じゅ、ん……くん」
 今の今まで話の中心にいた本人を前に、私はぎこちなく彼の名前を口にした。今に限らず、怪我をしてから今日までどうしていいか分からなくてなるべく会わないように心がけていたのだけど。
 避けている、程ではないと思う。すれ違うところを無理に隠れたりはしないし、挨拶もするし、準くんから声をかけて来てくれる時は話だってする。でも松葉杖で移動に時間がかかることもあって私から準くんの方へ行くことはなくなった。それを彼が気にしているかどうかは分からない。偶然『押してダメなら引いてみろ』の形になったけれど、目に見えて変化もない。やっぱりなんとも思われてないのだろう。恋愛よりも決闘、ってタイプに見えるもの。十代もそうだけど、とっつきやすさは随分違う。
 もし、ばれてしまったら。彼は受け止めてくれるだろうか。別に付き合いたいとか、恋人になりたいわけでもない。勿論なれたら嬉しいけれど、それよりも何よりも、私のこの気持ちを要らないものだと言って捨ててしまわれるのが何よりも怖い。そうして失望されてしまったら?――馬鹿にされるよりなにより、辛いことだ。
「何かあったのか。……泣いていたようだが」
「みっ見てたの」
「三沢が、オマエにハンカチを渡していたようだったから」
 彼の様子を見るに自分が話題になっていたことは知られていないみたいだ。少しホッとして、そう、と短く呟く。彼のことが好きだなァと、心配からか険しい表情をする彼を見て思う。……思うけれど、それと告白やらアプローチやらするのとは別の話だからこの気持ちを知られるわけにはいかない。気付いて欲しくもあるけど、もしその上で進退がなくてもそれはそれで辛い。
「大丈夫だよ。ちょっと相談事があって聞いてもらってたの」
 大したことじゃないから、と牽制のつもりで言うけれど、準くんは相談したいこと?と語尾を上げてその内容を促してくる。まさか言えるわけがなくて、私は少し眉を下げた。
「うーん、恋愛相談、かな」
 曖昧に言うと、準くんは険しい表情のまま目を見開いた。ヒュ、と彼ののとが音を立てる。彼が驚いているのは明らかだった。
「……そんなに意外?」
 衝動的に舌に乗せた言葉は、棘を含んでいたかもしれない。にわかに汗が出た。
 私はどんな顔をしていただろう。彼は目をそらして、少しうろたえたように、いや、と呟いた。それを見て不思議と頭の中が冷えてくる。どうか、どうか否定されませんように。そう切望しているのにどこかでこの想いはいけないものなのだと自制の為の思い込みが悲鳴を上げる。
「それでちょっと感情的になっちゃって……それだけ」
「……そうか」
 彼は今何を思っているのだろう。あまり表情を崩すことがないから私には分からない。ただ少し動揺しているらしいこと以外は。
 淡く期待が胸を占める。どうしたって期待が押し入ろうとしてくるのは仕方がないことかもしれないけれど、振り子のように思考が行き来して忙しい。
 私は友人だと言いきってくれた時の嬉しさは今でもよく思い出せるし、そう思われていることに不満はなかった。この学園で可能な限り人と距離を置いてしまっている彼を思えば、それ以上は贅沢以外の何でもないのだと、そう思っていた。
 本当は、その場所から弾かれることが怖かっただけだ。
 どんなに言い聞かせたって零れてくる切なさは、どうすることも出来なかった。
「心配しないで。私、これから保健室に行くから。じゃぁね」
 くだらないことにうつつを抜かしていると思われたかもしれない。その方が納得できる。友達だって認めてくれたけれど、もしかしたらこれで見限られてしまったかもしれない。私はここに何をしに来たのか。――決闘だ。恋愛じゃないはずだ。
 悪い方にばかり流れて行くのを止められなくて、私はすぐに準くんと別れて保健室を目指す。きっと私を見ているのだろうから振り向かないように。
 こんな風に思ってしまうなら自分の気持ちを認めないほうがよかったかもしれない、憧れのまま、それ以上はうやむやのまま。
 それでも分かってしまった。認めるとか、自覚するとか。そんな悠長なことじゃなかった。その気持ちはまるで光のように私の中に入り込んで、そして私にそれが光なのだと認めさせてしまっていた。私が、しっかりと目を閉じていなかったから。
 触れて、触れられて、私にとって準くんが他の男子とは全く違う存在なのだと。強く強く惹かれて、逃げることさえかなわないほど引きつけられていて。
  好きだという淡い気持ちは膨れ上がってしまって、準くんには出来ても、自分自身をごまかすことは出来なかった。




「先生、誰かを好きになるって苦しいですね」
 ジュニア時代は見ているだけだった。会って話をしたことも、遊んだこともない。ただテレビや雑誌に移る彼の笑顔を見るだけで幸せで。準くんはいつも輝いていて、それ以外のことは知らなかったし分からなかった。その必要もなかったのだ。だって、私の気持ちはそこで完結していたから。
 けど今は違う。準くんは笑うし、怒るし、苦しむし……そして、優しいし。私に向けられる声も表情も態度も、全てが一方的だったジュニア時代とは違う。手を伸ばせば触れられる。触れてもらえる。相手は人間で、私がそうするように私を見ている。嫌われたくない。準くんに好かれる、そうでなくても対等でいられる関係で居たい。そうありたい。彼が私に求めているのは恋人という立場や恋愛感情ではない。幼い頃の約束を果たすこと。決闘をすること。良き友人でいること。
 理想と実際の気持ちとが乖離していく。その差だけ恐怖は大きくなる。
 彼の思いの行方を知りたくてたまらない。彼が思うようにありたい。自分の芯が薄れて消えていく。そもそも、私ってどういう人間だっけ?初めから彼なしでは成り立たない私は、彼に見放されたらどうなるのだろう。
「ふふ、どうしたの?片思いかしら」
「はい……」
 先生の手つきは優しい。でも準くんにそうされる時とは当然と言うべきか、全く違う。
 鮎川先生は穏やかに笑っていて、それは悪いことではないのだ、と何となく思う。頭で理解すると言うよりは、それはほとんど感覚的なものだった。
「苦しいことばかりかしら?楽しいことは?嬉しいことはなかった?」
「……え、あ、いえ、苦しいことばっかりでは、ないです」
 ほろほろと言葉が落ちてくる。
「でも、見てるだけだった時よりもずっと彼の気持ちが分からないことが怖くて……あの、がっかりさせたかもしれなくて、それで」
 情けなくなってきてまたこみあげてくるのを耐える。
「私は助けてもらってばかりで全く何も返せてないし、それどころか迷惑ばっかり掛けてて……好きだって思うことすら本当はいけないことなんじゃないかって」
「そんなことはないわよ」
 ぐるぐると頭をめぐり口元にまで降りてくる言葉をそのまま奏でていると、不意に先生は力強く否定をして遮った。
 ハイ終わり、と声がかかり、見れば新しい包帯が足を包んでいた。今日の診察はもう終わりだ。
「今小鳥遊さんに必要なのは、自分に自信を持つことよ」
 鮎川先生の声は、どこまでも優しい。まるで幼子をあやす時の様な。
「誰かを好きになることは決して悪いことではないわ。決闘と同じでね、自分を磨き続けて自信を持つの。まずは自分の中の不安に勝つことから始めればいいのよ」
「……決闘と、同じ」
 先生の言葉を復唱する。――……二度目の約束を思い出した。準くんに勝てると思えたら。その先にある約束を。
 けれどそれをはっきりと意識の中に浮かべた直後、先生はでもねと話を返した。
「相手に勝つ必要はないのよ」
「……?」
「ライバルがいるならともかく、恋の基本は勝ち負けではないように……決闘で何よりも大切なことは目先の敵よりもます、自分の中にある不安を打ち消して、自分の力を信じること。さっきは不安に勝つ、と言う言い方をしたけど、自分の気持ちをごまかしたり目をそらしたり、押し込めなくて良いの。寧ろ素直でいるほうがいいわ。苦しいことや怖いことは、向き合って初めて本当に乗り越えられるものだから」
 優しく諭すような言葉。それを、ゆっくりと深呼吸をして受け止める。
「それはとても苦しいことかもしれない。でも忘れないで。小鳥遊さんの、最初の気持ちを」
 十代たちがしてくれたように、鮎川先生は私の頭をそっと撫でてくれた。
 最初の気持ち。
 ジュニア時代彼を好きだと自覚したのは……昔した約束をもう彼が覚えていないかもしれないと思った時、悲しくて仕方なかったからだ。彼の中に私がいない可能性があるのだと気付いた時、もう届かない人になったのかと思った。それまではずっと憧れで――自慢の友達だった。彼がジュニアチャンプであることはそのまま私の誇りにもなっていたのだ。その彼と接点があることが嬉しくてたまらなかった。その感情は恋とは呼べなかった。だから彼が好きなのは憧れでありファンだからで、唐突に気付いたその感情が恋であるとなかなか気付けなかった。
 そして、今の彼に惹かれたのは?
 彼が、私を覚えていてくれたからだ。その時もやっぱり嬉しかった。その嬉しさが憧れから来るものだったのか、恋愛感情から来るものだったのかはない交ぜになって分からない。憧れが好きになったのか、それとも好きだと言う気持ちを憧れだと思っていたのか。
 ただひたすら、彼は特別な男の子だった。それだけは確かなことだった。
「……先生、ありがとうございました」
「辛くなったら思い出してね。気持ちと気持ちを闘わせなくてもいいのよ」
 先生の言葉に頷いて、私は松葉杖とともに立ち上がった。お礼を言って保健室を後にする。……頭の中が晴れた気がする。
 自然と口元に笑みが浮かんだ直後、廊下で声が響いた。
小鳥遊さん?」
「え?」
 振り返ったのとほぼ同時に、私の意識は闇に染まっていた。

2010/09/20 : UP

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