錯綜バイオレット
15: 幕間3
面会謝絶だった。固く閉ざされたドアを前に彼は立ちつくす。
心肺機能が弱まりすぎていて非常に危険だと鮎川から聞かされた時、呼吸を忘れたかのように息が出来なくなったのはつい先ほどの話だ。
彼女の実技の成績が再び低迷し始めたことは彼も知っていた。合同授業の際彼女の決闘を見る機会は幾度もあったし、また彼の見た決闘内容はどれも惨々たるものだった。いつも決闘がある際は持ち歩いているオペラグラスで手札を見た時も、使えるはずの場面で使わないことがあったり、発動のタイミングが明らかにおかしいリバースカードや、ブラフでもないのに伏せられたままのカードを見る機会が多々あった。それも、ここぞ、という場面で。
まるで素人以下の決闘ぶりは見るに堪えず彼を不快にさせるには十分だった。集中していれば犯すことのないミスばかりで、決闘に自信を持てなかった頃とは違う様子に彼が出した結論は一つしかなかった。
決闘に集中できない理由がある。体調不良というわけでもない。相手を選んでいるわけでもない。彼がその時出せた答えは一つだった。
『うーん、恋愛相談、かな』
彼女の心を決闘以上に占めるものがある。それがなんであるかは明白だった。そしてそれはある種彼の読み通りではあったのだが、彼女が集中出来ない理由としては間違っていた。それを正せる人間がいるはずもない。たった一度十代が口を開きかけたが、その機会は他でもない彼女の意思によって封じられてしまっていた。
「万丈目……授業は終わってないぜ。自分のせいで、って歩が悔やむから出席しろよな」
「……ああ」
静かな廊下に人はいない。実技授業の時間もまだ終わっていないが、既に決闘を終えている万丈目はその場を動こうとはしなかった。彼女の容体を気にする生徒は他にもいたものの、今は授業中だと言うことで保健室前には彼と十代しかいない。
見ておくべき決闘が行われているかもしれない。常ならばそれを見逃さぬようその場に留まっているはずの彼の足は、名残を惜しむように閉じたドアへ向けられていた。動かない彼に十代は隠れてため息をつく。こうなる予感、否、予想は見事に的中してしまった。
十代の大切な人――今もなお病院で眠り続ける響紅葉と歩とでは、性別どころか年齢も違う。長い間闘病生活をしていた紅葉の場合、入院してから本気の決闘をする機会は激減していただろうからあそこまで長く元気でいられたのだ。けれど歩は違う。夢中になりやすく、毎日決闘付けで身体だって成人男性に比べまだ未発達で弱い。よしんば一命を取り留めても意識を回復する見込みは低いかもしれない。
それでも十代と紅葉が行った本気の決闘とは決定的に違うこともあった。十代はそれに賭けることで、何とかなりふり構わず止めさせようとしてしまう自分を抑えることが出来た。それは十代しか気付いていない事柄で、彼女と紅葉の症状の原因が闇の決闘で受ける罰ゲームにあることを万丈目はもちろん知らない。
さてそれをいつ言うべきか、と十代はその場で考えたが、いつ誰が聞いているとも限らない校内よりは開けていて人がいればすぐに分かるような場所が好ましいだろうとかける言葉を飲み込む。視線の先には、いつも堂々としている好敵手の背中があった。
万丈目もまた彼女の不調の原因について真相は自分の考えとはおよそ違う所にあるだろうことは感じていた。
何故彼女は倒れ、今にもその命が潰えてしまいそうなのか。彼女は自分の身に起こっているそれを予期していたのか。決闘への姿勢が変わったこととそれは関係があるだろうが、自分との決闘でムキになったのは傷ついたからか、怒ったからか、それとも。
彼が知りたいことは山のようにあったが、ふと十代と視線がかちあい、その瞳の中に答えの在り処を知った。十代はそのまま授業へと戻ってしまったため、言いたいことは放課後へと持ちこされたのだが。
実技を終え教室で筆記科目の授業を受ける。教師の声を耳に通しながら、混乱しているのだ、と彼は一人考えていた。淡々と授業を受けているものの、頭の中に浮かぶのは彼女の必死の形相と――涙だった。
彼が彼女に起こっている事象に気付けなかったのは、それがごく限られた瞬間にしか現れないためで彼に非はない。彼が気にしていたのは彼女にぶつけた己の言葉だった。
『決闘に集中できないほど他のこと心を奪われている今のオマエは、この場に相応しくない。決闘するよりやりたいことがあると言うのならここをやめて出て行ったらどうだ?』
苛立っていたのは彼女の決闘内容やその間の態度そのものではなかった。確かにそれも一つではあるかもしれないが、それよりなにより、彼女が彼以外の、しかも男に心を寄せていると思ったからこそあんな言葉が口をついて出てきたのだ。相応しくないから決闘場に出てくるな、と言いたかったのではない。自分を目の前にしながら他の男のことを考えるのだろう彼女を見たくなかっただけだ。
彼女の不調は自分が思っていたような理由ではなかったらしいことに対して、彼は安堵にも似た思いを抱いていた。不謹慎だと言うことはよく分かっているが、戒めようとする時点でそれが思いとして胸の中にあることはもう打ち消しようがない。それに彼女には想い人がいると言うことそのものには何の揺らぎもないのだ。
あれほど焦がれた友人としての対等な好意は、いつの間にかそれよりももっと深く熱い愛情へと変わっていた。欲深さに彼は己を恥じる。そうして、そこまでのめり込むように増して行く想いに呆れ返った。
何にせよ彼女が目覚めれば真っ先に謝らねばならない、と気持ちを切り替える。だがそれも、授業が終わりかけ込んできた十代によって彼は再び息を詰まらせることになった。
話があると彼を呼びだした十代が向かった先は、全く人気のない灯台の見える崖際だった。
「歩に止められたから黙ってたけど、アイツもしかしたら目を覚まさないかもしれない」
唐突な報せに彼は言葉と言う言葉を失った。ただその分彼の顔が全てを語っていたのだろう、十代は彼を一瞥するとその先を話しだした。
「いつかわからねェけど、アイツは闇の決闘で負けてる」
何だと、と彼は声を絞り出したが、それはかすれていてはっきりと空気が震えることはなかった。
「あの黒い陰になにかされたんだ。決闘に夢中に……本気になった時だけ心臓が痛むってさ」
「……何故そんな重要なことを黙っていた」
静かな声は、嗚咽をこらえるように震えていた。
「原因もちゃんと分かってるわけじゃないし、そんな症状が出てるなんて広まったら大変だろ。先生からも口止めされてたし……。歩に何かあったら嫌だから本当はオマエとの決闘も止めさせたかった。本気になるって言ってたしな。でもアイツは言い出したらきかねェし」
万丈目に対し、十代の声はどこまでも静かだった。万丈目は口元を抑える。それを知っていたなら、あんな挑発めいた言葉は決して口にはしなかった。
彼の思考を見抜いたのか、十代は気をそらせるかのように声を大きくした。
「でも、歩は最初っから今日の決闘は本気でやるつもりだったと思うぜ。何せ相手はオマエなんだから。最後まで決闘できてアイツは嬉しかったに違いないんだ。……だから、万丈目は何も悪くない。誰も悪くないんだ」
それは万丈目ではなく自分自身に言い聞かせているようでもあったが、万丈目が気付くはずもなかった。
「それにあの決闘……フィニッシャーは光と闇の竜だったろ」
「……だからデイビット・ラブのようになる可能性があると言いたいのか」
「逆だ」
アレ自体は闇の決闘じゃなかったからそれはない、と十代は否定する。彼が気付いたのはクリボーや光と闇の竜が精霊である点と、クリボーが持つ不思議な力のことだった。
「オレのクリボーも光と闇の竜も特別なカードだ。クリボーにも不思議な力があったように、光と闇の竜も何か力があるのかもしれない。もしかしたら、歩は助かるかもしれない」
その言葉に、彼は考えるより先に確証はあるのかと声を上げていた。彼女が意識不明の重体になっているのは彼に端を発していると彼自身は思っていた。殆ど八つ当たりの様な叱咤は彼女にとっては挑発を通り越し侮辱めいてすらいたはずだと彼は筆舌に尽くしがたい苦い思いにとらわれる。
最後まで決闘をする、と言う彼女の強い思いに決闘者として応えたことそのものは間違いではないが、こうなってしまっては彼の気が晴れるわけもない。
二人が黙りこみ、波音と海鳥の鳴き声だけがその耳にささやく中、十代の携帯が音を立てた。場にそぐわない明るい音色に十代は思わず眉を寄せる。発信者は柚月だった。
「もしもし?」
「十代?万丈目はそこにいるのかしら?」
鋭い声に何かあったのかと十代の声のトーンが落ちる。柚月はまるで何でもないことのように呆れた声を上げた。
「何回万丈目に電話したと思ってんの!携帯持ってるなら気付くようにバイブにでもしときなさいって言って」
何故オレが怒られなければならないのかと十代は理不尽さに文句の一つも言いたくなったが、いつも通りの彼女らしい振る舞いにそれがあくまで自然体だと直感する。
「で、代わったほうがいいのか」
十代が万丈目を伺い見ると、彼は訝るように眉をひそめ自分が関係していることに気付いた。電話口から柚月が別に十代でもいいわ、と十代の鼓膜を震わせる。
「歩の意識が回復したの。万丈目と話がしたいんだって」
「ホントか!?」
思わず弾んだ声に、柚月はわざとらしく息をついて至極残念そうにそうよと答えた。彼女なりに万丈目に嫉妬しているのだ。どこまでも彼しか見えていない小動物の様な親友にも、僅かに拗ねていた。
ちゃんと伝えたから早く来なさいよ、と柚月から電話を切られて、十代はすぐに万丈目に向きなおる。
「万丈目!歩、目が覚めたらしい!」
「!」
「オマエと話がしたいってさ。早く行こうぜ!」
「……ああ!」
競うように二人の足音が重なる。歩が話したいこととは何だろうか、と彼は思わず思考するが、それよりも己には言わねばならないことがあるのだ、と思考を塗りつぶしてあれこれと思いめぐらせるのをやめた。ただ、彼女から何を言われようと受け止める覚悟だけをして。
もつれ込むように校内に駆け込んだ二人はまず響から注意を受けた。だが彼女も歩の件に関しては他の人間よりも事態を重く見ていたため、すぐに二人を保健室まで通す。
面会謝絶だ、とドアを開けることが叶わなかったのは授業を挟んでいるとはいえ少し前だ。命さえ危ういところをよく頑張った、回復したと説明する鮎川の目は驚きと喜びで濡れていた。
「歩」
彼女を前にして、万丈目は真っ先に彼女の名を舌に乗せる。酸素マスクをしてベッドに横になっている彼女は峠は越えたとはいえ相当に弱弱しく見え、手を伸ばすことさえ躊躇われた。
ほんのわずか開いた彼女の双眸が、彼をひたと捉える。十代はその様子を万丈目よりも数歩後ろで確認すると、胸をなでおろした。
「じゅん、く」
歩の顔色は良く表情も穏やかで、そのことが彼を、彼らを大いに安心させる。振り絞るように紡がれる彼女の声を聞き逃すまいと、万丈目は顔を寄せた。
「さいごまで、あいて、してくれて……あり、がと」
負けちゃったけど、全力を出し切ったよ、とその唇が絶え絶えに動く。彼は彼女に分かるように返事を。
「あのね、わたし……じゅん、くんに、……いわなくちゃ、いけないこと、……あるの」
「何だ」
弱まった声に彼は彼女を見やる。その瞼は震えていた。
「じゅん……は、ヤ、かも……しれな、けど……わ、たし」
「歩、目を閉じるな」
今にも消えてしまいそうな声に、彼が思わず彼女をさえぎった。けれど彼の願いもむなしく彼女の意識は再び離れ、最早彼を捉えることもない。先ほど十代から知らされた『もしかしたら目を覚まさないかもしれない』ことが頭をよぎるが、鮎川は万丈目の肩に手を置いた。
「小鳥遊さんは眠っただけよ。もう心拍数も脈も心配ない……だから、寝かせてあげて頂戴?彼女は頑張ったわ」
そして彼と十代を保健室から外へと促した。休み時間ならいつでも会いに来ていいから今日は休ませてあげて、と優しく諭す。そして響に目配せをすると、それを受けた響はうるさくならないよう近寄らないように、と言い残して二人で中へと戻って行った。
「……」
彼女は、何を言おうとしたのか。彼は再び閉じてしまったドアをじっと見据えたが、答えが分かるはずもなかった。
謝りそびれたこと、無事だと分かったこと、彼がわずかでも彼を責めなかったこと、彼に伝えようとしたこと。様々なことがからみあって、彼は自らの気持ちの行方さえ分かりかねていた。
「ちぇ、先生は良いなァ」
「女子ならともかく、男子が女子の寝顔見ようって方が信じられないわよ」
突如として響いた第三者の声に、二人は肩を震わせた。その先に、柚月が立っている。ここじゃうるさくなるから、と誘われ、三人はロビーに腰掛けた。柚月が提案した訳ではなかったが、先を歩いていた彼女がそうするのを見て万丈目と十代がそれに倣った形だ。十代はそれとして万丈目までがそうしたのは無意識に誰かから責められたかったからであり、そして彼の知る人間の中で間違いなくその望みをかなえてくれるのが柚月だったからだった。
「万丈目、アンタ歩の事挑発したんだって?」
「……ああ」
言い訳はしない、と彼は短く同意することで彼の意思を示した。その様子に柚月はふゥん?と片眉を吊り上げる。彼女が彼に何かとんでもないことを言い出したりはしないかと冷や汗をかくのは全ての事情を知っている十代で、決して緩みを見せない空気に耐えるようにして二人を交互に見ていた。
「……そ。なら歩も必死になるわね。決闘は楽しかったの?」
私は目が離せなかったけど、と柚月の口調はまるで世間話でもするかのようで、男子二人は意図を量りかね柚月を凝視した。十代に至っては普段通りの柚月が逆に万丈目を責め立てているようにすら感じていたのだ。
二人の視線を受け、まず柚月は十代にこの場から退場するように促した。その眼は気迫に満ちていたものの、二人で話がしたいだけだからと念を押されては引くしかない。隠れる場所もなく、まっすぐロビーから出る。最後、伺うように振り返ると柚月はしっかりと十代が出て行くのを見送っていて、彼はいよいよおっかなびっくり退散した。
「楽しかったか……だと?楽しめるような状況ではなかっただろ」
「そう?歩は嬉しそうに見えたけど」
正気か、と万丈目は柚月を見る。彼女は彼の視線を軽々と受け止めると、当然でしょ、と澄ました顔をした。そして改まり話を続ける。
「歩は自分のやりたいこと全部やったって感じでさぞや満足してるでしょ。……それに比べて、あんたの顔はナニ?私にぶっ飛ばしてほしいって顔してるけど。……私が前に言ったこと、覚えてる?」
彼女は言うと、万丈目に視線を投げた。それを受け取って、彼は記憶を探り出す。
「大切にしたいと思う気持ちが、傷つけてしまうこともある……か?」
「おしい。――……確かに私はあんたのこと一発殴ってやっても良いけど、アンタの思い通りにするのは嫌よ」
それは怒りではなく、呆れだった。
「アンタが何を口走ったかとか、ここ最近歩が隠してたこととか……分からないことは多いけど。はっきり言えるのはアンタが勝手に思い込んで勝手に凹んでるってことだけよ。馬鹿につける薬はないって言うけど本当ね」
馬鹿、にアクセントを置く彼女に、万丈目は顔をゆがめた。
「だが、オレは」
勢いに乗せた言葉は、嫉妬に駆られた、醜く黒いものではなかったか。それと黒い影と、どう違うと言うのだろうか。同種のものではないか。
思いを巡らせる彼に、柚月はため息をひとつ。
「本当のところはどうであれ、歩はあの場所に立って立派に決闘したわ。決闘前に誰かに泣きついたりしなかったし、最中もあきらめなかった。自分の感情に振り回されるような醜態も見せなかった。あの決闘は歩が今までやってきた中でも一番いい決闘だった。アンタもそれは分かってるんでしょ?」
それがすべてだ、と柚月は言う。それに何処か母親が幼子をあやすような苦笑めいた響きを読み取って、彼はいつかと同じ羞恥を覚えながら同時に何かが解れていくような感覚を味わった。彼は黙ったまま、それは肯定とも否定ともつかない。しかし柚月は伏し目がちな彼の表情にほんの少し肯定を見た。そして、意地になっているわけではなさそうだ、と一人安心する。
「歩があの決闘で言いたかったことが何か、分かる?」
そして投げかけた質問。柚月自身歩ではないから明確な答えが示せるはずもなかったが、それは己の行いと思考についてばかり囚われてしまっている彼には光明になるだろうことは見てとれた。
「歩が元気になるまでに考えておきなさいよ。時間はまだあるだろうしね」
言いたいことは言ったと、柚月は初めて彼に対し満足そうな顔を見せた。彼女の様子に、彼は呟くように浮かんだ疑問を口にする。
「オマエは、歩がああなった原因を知っているのか」
探るような言い方に、柚月は率直に自分の思いを告げた。
「知らないわよ。歩が隠してたのは具合が悪いことだったのか、くらいまでしか。……知っていようがいまいが、私には関係ないわ。どっちみち歩は一度決めたことは曲げないから」
あきれとも羨望ともつかない声色に、彼は不思議な思いで満たされた。いつも姉妹か母子に見える彼女たちは、だからといって決して依存しているわけでもなくかと言って浅い関係でもない。
己はどうだったかと彼が考えようとした時、柚月が立ちあがった。
「じゃ、私は寮に戻るから」
軽く手を上げて颯爽と歩いて行くその姿は、いつになく力がみなぎっているように彼には思えた。
ふと、長く息を吐く。
出された『宿題』に答えを見いだすまで彼女に会うのは無理そうだとソファに身体を預けながら。
2010/09/23 : UP