錯綜バイオレット

16: 紫色の気持ち

 保健室は静かだ。そして、退屈。休み時間の合間合間にみんながお見舞いに来てくれるけれど、圧倒的に授業時間の方が長いわけで。大事に大事を取って、と保健室に軟禁されてからもう一ヶ月も経ってしまっていた。もうどこにも異常は見つからないのだしこういう言い方もあながち間違ってないと思う。
 それにいくら事情が事情でも授業に遅れるわけにもいかないし、私は保健室にいるとは言えほぼ常に自習状態で、放課後、丁寧に勉強を見てくれる三沢くんにはもう頭が上がらない。彼のおかげで筆記試験は保健室でしっかり点を取ることが出来たし、体育はレポートに代えることで何とか単位は落とさなくて済みそうだった。中間の実技テストも見込み点が貰えた。直前の、準くんとの実技授業中の決闘内容で高評価を貰えたこともあって、そう悪くない成績だった。
 ――……あれから、一度も準くんを見ていない。もし私との決闘のことで彼が責任を感じているのならそれは全くもって見当違いなのだと伝えたかったのだけれど、柚月から話を聞くにどうも直接的な原因はそれではないらしい。じゃぁどうしてなのか、と首をかしげる私に柚月はさあねと楽しそうに笑うだけだった。絶対に知っているはずなのに教えてくれないと言うことは、まあ、楽しみにしていろ、ということなのだろう。どうやら私は彼に完全に見限られてはいないようだ。ギリギリで体裁を保てたのだろう。どうやら決闘に関しては私の想いを汲んでもらえたようだ。けれど、だからこそますますもって掴めない。あの時、一度目が覚めた時に伝えたかった私の気持ちを知ってもらいたいのに。
 準くんのことが好きだ、ということ。それを、早く言いたいのだ。
 と言ってここから私が出ていけないのは先生からも止められていたのに無茶なことをした私自身のせいであって、いくら後悔していないとはいえ私が悪い。だから今の状態では彼の方からこっちに来てもらうことでしか会うことが叶わないのだ。
 何を、どんな順番で言うかは考えていない。どうせ彼を前にすればすべて飛んでしまうだろうから。言いたいこともあるけれど、訊きたいこともあった。
 彼はあの決闘を楽しんでくれただろうか。



「いい、小鳥遊さん。絶対無理しないこと。今度言うこと守らなかったらベッドに張り付けてでも大人しくしていてもらうわよ」
「……は、はい」
 保健室から退院許可が出た日。私は出口を背にして鮎川先生の纏う迫力に圧倒されていた。
 先生怖いです、と呟くと、怖くもなります、と返される。……ごもっともです。
「あれから全く異常はないけれど、普段の生活での話なんだから。また本気で決闘して発作が起きたら、こんどこそすぐに決闘を降りなさい」
「はい」
 さも神妙に頷くと、行ってよし、とお許しが出た。一目散に駆け出したいところを何とか早歩きで我慢して廊下を歩く。かなり距離を取ってから、保健室では使用禁止だった携帯の電源を入れた。受診しているメールはどれもメールマガジンで、一通り開いて削除。
 どこに行こうか。準くんはどこにいるだろうかと考える。一か月ぶりの校舎は懐かしい匂いがした。今日は日曜日で、校内に生徒の姿はほとんどなかった。
 やっぱり、彼も寮でゆっくりしているのかもしれない。そう思うとわざわざ呼び出してしまうのも、と勢いが死んでしまった。……どうしよう?
、退院おめでと」
 声をかけてくれたのは柚月だった。取り寄せてくれたんだろう、綺麗な花束を渡される。ふわり、と甘い匂いが香った。
「ありがと」
「……万丈目なら、自分の部屋にいるみたいよ」
 話したいことがあるんでしょ、と柚月は苦笑する。私のことは、柚月には全部分かってしまっているみたいだ。
 うん、と頷くと柚月は私に道を譲るように一歩、私の前から脇に退く。いってらっしゃい、と見送られて、私は行ってきます、と今度こそ走り出した。
 校舎とブルー男子寮はさほど……というか殆ど離れていない。けれど走るのは久しぶりで、息はすぐに上がってしまった。ウウッ……これは体力が落ちて太ってるかもしれない……!
 若干涙目になりながら寮へとたどり着き、中に入る。今はお昼時で、こちらも人気は少ないように見えた。みんな部屋の中にいるだけかもしれない。寮の廊下なんかに人があふれてる光景なんて朝くらいしか見ないだろう。
 それでもレッドの制服・女子・花束のせいか注がれてくる物珍しそうな視線に頬が熱くなった。それをごまかすように足早に目的の部屋を目指す。
 二回、ノック。少しだけ間があって、ドアノブが音を立てて下がった。
 ドアが開いて、中から準くんが見えてくる。その顔が訝るような、驚きでいっぱいの様なのを見て、まるでドッキリでもしているかのような気持ちになった。
「……、」
「来ちゃった」
 まじまじと見られるのが恥ずかしくて、ごまかすために笑う。
 一ヶ月ぶりに見た彼は、とてもカッコよくみえた。否、前からカッコよかったんだけど、何だろう、彼に面している皮膚が背中に向けて逃げ出したいとでも言いたそうにざわざわと騒ぐ。彼を見ていることも、彼が私を見ていることも幸せで仕方なくて、じわじわと身体の内側を満たしていく感情を知る。
「どうしても言っておきたいことと、訊いておきたいことがあって」
 開いたドアの内と外。たったそれだけで彼との距離は遠くないはずなのに、決定的な溝がある気さえしてくる。彼の顔を見上げた。ただじっと私を見返す準くんが今何を考えているのかなんて分かるはずもない。鋭く涼しげな眼もとは、今はただただ静かだった。
 どう切り出すべきか、言葉が浮かんでは流れていく。
「――私、準くんのことが好きです。友達とか、ファンとかじゃなくて、男の子として。……これ、一ヶ月前に、言えなかったから」
 零れ落ちるように出てしまった言葉に、私はたぶん彼以上にうろたえていたと思う。彼の反応は知りたくない。目線が下がる。
「それが、言いたくて」
「それで」
 小さくなった声に彼の声が重なった。逃げるのは許さないと、そう言われているような気がしてびくりと身体が震えてしまう。
「オレに、何を訊きに来た」
 静かながら力強い声は、今はどこかへ行ってしまっていた。少しかすれていて、ゆるく、優しい。頭を持ち上げると、今まで見たことのない顔で彼が笑っていて。
「わ、私は……準くんに応えられたかと思って」
 震える声で、それだけを絞り出した。それを皮切りにぽろぽろとあふれてくる。
「私の気持ちが準くんにとって迷惑だっていうのは分かったから、別に、いいの、それは伝えておきたかっただけなの。でも、それまでに準くんが私に期待してくれていたことに、あの決闘で答えられたかどうか……ちゃんと納得してくれるような決闘が出来たか、訊きたくて」
 怖い。……不安で、自分で訊いておきながら彼の口からバサリと切り捨てられるのが怖くて、どんどん邪魔するように同じところをぐるぐると舌をまわしてしまう。彼は幼い頃みたそれでもなく、ジュニア時代に見せていたものでも、意地悪でも不敵でもない、柔らかく、優しく笑んでくれているのに。――否、だからこそ期待してしまいそうで怖いのだ。期待の後につき落とされるのが。
「わ、私……ッ!?」
 もう一度問いを重ねようとした直後、私は思い切り強い力で抑え込まれていた。それは、抱きしめると言うには余りにも無遠慮で、痛みさえ伴っていた。
「準、くん」
 花束がつぶれないように、すぐ胸の前から避けたのは正解だった。その意識も、すぐ彼で埋まる。背後でドアがしまる音が遠かった。
「――謝らなければいけないことがある」
 ふと、彼の腕の強さに安心して力を抜いてしまいたくなった。分かっていたことだ。彼の答えはもう一ヶ月も前から知っている。それでも伝えなくてはいけないと思ったのは、私を決闘以上に熱くさせているのはあなたなんだと、好きなんだと言うことを彼にどうしても知っていて欲しかったからだ。きっともうこの先そんな機会はなくなってしまう。だからせめて最後にそれくらいは言い逃げしたっていいだろう。ある種自棄のような開き直りに後悔はない。それでも、私の気持ちに応えてもらえないことは辛かった。それにこれでは逃がしてもらえない。
 でも。
「待って」
 彼の言葉で、思いだした。
「もうひとつ、言いたいことがあって」
 暖かい。覆いかぶさるように抱きしめられている私の顔は丁度準くんの肩口にあって、上手く声が出ないのも気にならなかった。彼の耳は近い。小さくても届くはずだ。
「倒れてごめんね。先生にも止められてたし、ああなることは、自分でも分かってたの。その上で私が勝手にやったことだから」
「そうさせたのはオレだ。……決闘前に言ったことも、ただの八つ当たりだった」
 悪かった。準くんの声とともに更に腕に込められている力が強くなった。痛いし、苦しい。でも、放してほしいとは思わなかった。
 お互い、謝った。だからこの話は、これで終わり。言いたいことは言った。訊きたいことは……まだ、答えを聞いてないけれど、もう満足だ。こうしてもらえるってことは少なくとも嫌われてしまったわけじゃなさそうだし。彼の一ヶ月前の言葉を差し引きしても、今でも友達、くらいには思ってもらえているのだろうか。
 でも、私はそれでは足りなくなってしまった。だから、もう今まで通り側にいることは難しいだろう。
 自分で幕を引きに来たせいなのか、心の中は比較的落ち着いていた。
「……休みの日に押しかけちゃったね。私の話はこれだけだから……。……放してくれる?」
 私は、多分大丈夫だ。身体も、心も。もう怖くない。怖いものはもう去った。胸が痛むのは、寂しいからだ。
 準くんの力が緩むのを待つ。けれど一向に彼が放してくれる気配はなくて。
 私がそれを訝った直後、彼は唐突に私を抱いたまま少し身体をひねって、ドアにその方を打ちつけた。ドアに背を向けていた私と、彼の位置がひっくり返る。
「ッ、!?」
 ふらついたけど、彼に抱かれているおかげで倒れずに済んだ。ただ、これでは帰れない。
 彼が姿を見せてくれなかったこの一ヶ月の間に、彼に何かあったのだろうか?
 そう思うと訝るより心配になって、私は彼の名を呼んでいた。
「放さない」
「え?」
 静かなのに、その声は何処か切実そうな響きを持っていた。彼の意図が分からず聞き返すと、彼の力がほんの少しだけ弱くなった。
 何を言い出すのだろう。何が言いたいのだろう。何だろう。
 不安と、期待が頭をもたげてくる。落ち着いていた心は、再び復活してしまった期待のせいで荒れ始めていた。
「好きだ」
 ――そうして、そんな私の鼓膜を震わせたのは、今まで耳にしてきたものの中で一番幸せな音だった。軽く瞬いて、もう一度今彼が囁いた言葉を頭の中で巡らせる。
「……ホン、ト?」
 返せたのはそれだけだった。
「ああ。オマエの、一番近くに居たい」
 目が熱い。視界が歪んだ直後、ぱた、と小さな音を立てて涙が彼の制服に落ちた。ようやく彼がいよいよ力を緩める。頬を伝う涙が優しい彼の指をぬらした。その五本の指でもぬぐいきれなくて、彼は困ったように眉を下げて笑った。
「泣くな」
「……だ、って」
 ひくりとしゃくりあげると、今度はとても優しく抱きしめられた。
「……どこから話せばいい?」
 優しく問われる。初めから全部、と鼻をすすりながら答えると、分かった、と彼は話し出した。
「オマエのことは忘れたことはなかった」
 そして思い出すようにとぎれとぎれに彼の口から言葉が落ちてくる。私もまた小さい頃から彼にとって特別だったこと。急な引っ越しで連絡が取れなくなってとても悲しかったこと。デュエル・アカデミアに入学し、あの時話をするまで私が小さいころ遊んだ『』だとは思っていなかったこと。分かって嬉しかったこと。ファンではなくて、対等の友人でいたかったこと。小波くんにやきもちを焼いたこと。それから……私に好きな人がいるのだと知った時、愕然としたこと。
「普通ならすぐに考えそうなことを全く考えていなかった。自分の気持ちにばかり囚われて、オマエのことを考えながら、オレは自分のことしか考えていなかったんだ」
 そうして、肝試しの時私と小波くんが一緒にいたことを知っていた彼はすぐに私の好きな人は小波くんだと思ったこと。そのヤキモチから決闘前に八つ当たりをした、と。それを誰からも迫られなくて辛かったと。
 それから……
「この一ヶ月、オマエのことを考えていた。……考えて、やはり分かったのは結局自分のことばかりで、オマエのことは何一つ分からなかった」
 背を撫でる手が心地いい。彼の胸は暖かく鼓動を刻んでいて、穏やかだった。
「だからもっとオマエのことが知りたい。知っていたい。他の、誰よりも」
 放したくない。と。
 私の知らないことを、彼は思いつくまま話してくれた。それだけがすべてだとは思わないけれど、私にとっては彼の気持ちがどこにあったのか知るには十分だった。
 それから、私も。今まで言わなかったこと、考えていたこと、怖かったこと。彼が知りたいと言ってくれたことを、思うままに口にした。
 頭の中、胸の中にしまっていたものを言葉にして伝えるのは恥ずかしくてたまらなかったのだけど、彼も言ってくれたのだからと頑張った。私にはずっと準くんだけだったこともここぞとばかりに主張して。
 抱き合っていたのは幸いだった。顔を見なくてもよかったから、ある意味集中できたし。
 全てを話し終わって、何かが途切れる。それは彼の腕の中で甘ったるいくらいの視線をもらうには十分なチャンスで。恥ずかしさに顔を伏せると、すぐに名前を呼ばれ、彼の手が私の頬を滑った。彼の身体がずれて、覗きこむように顔が近づいてくるのが分かる。おずおずと顔を上げると、視界いっぱいに彼の顔が、目が、広がった。そのまま、お互い目を閉じる。
 ぐう。
「……」
「……!」
 彼の息が顔にかかるほどの距離だったのに、さっきまでの雰囲気はただの一つの音で消し飛んだ。
 くつり、目の前の咽喉が揺れる。
「……だっ……だってお昼まだだったんだもん……」
 私のせいじゃない。お腹が鳴るのは生理現象だ。我慢できるものでもない。確かにあとちょっとで触れるはずだった唇と両想い後の幸せでとけるような空気を台無しにしたのは私のせいなんだけど。……ちょっとだけホッとしたって言ったら怒られるかな。
「食堂へ行くか。オレもさっき行こうとしてたところだ」
「う、うん」
 不機嫌どころか楽しそうな準くんに、安心して頷く。その前に柚月からもらった花束を水差ししてやらないと、と彼の前に差し出すと、彼は私からそれを取って惰性のように彼の後をついて行った私の前でさっさと包装紙を取り払い、部屋に置いてあった花瓶に活けてしまった。
 そして輪ゴムはそのままにしてあるから戻ってきた時にまた包んで持って帰ればいいと私に向き直る。頷いて、私は部屋から出ようと彼に背を向けた。

 ふと、彼に呼びとめられる。
「?なに?」
「忘れものだ」
 軽く腕を掴まれて引き寄せられる。その勢いのままあっさりと重なった唇に唖然とした。すぐに離れてしまったけれど、暖かさと柔らかさは確かに残っていて、私は掴まれていないほうの手で口元を隠す。
 そんな私に準くんはただ微笑んで、私の頬を手の甲で風のようにさっと撫でると
「行こう」
 顔を茹でたタコみたいに真っ赤にしているだろう私の手をそのまま引いて、そう促した。
 ドアを開ける前に一度私を振り返って、私の顔を見てくすり、と黙ったまま意地悪な笑みを濃くした彼に、決闘どころか他の全てにおいて彼に勝てる気がしないと思った。

2010/09/23 : UP

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